(燭へし)君のひとみに……「長谷部くん!いる?」
静かな管理本部に響く声に「長谷部、ご使命だぞ」「またですか。飽きませんねえ」と長谷部の周りからクスクスと笑いとヤジが飛ぶ。
「飽きるもなにもないだろう。あいつがちゃんとすればすむことだ」
「ねえ!また伝票差し戻されたんだけど!」
「何回同じことを言わせるんだ。これは経費の範疇じゃない」
「それは君が決めることじゃないよね!上司の許可もおりてるんだけど」
「結果が出ていない」
「はあ?それこそどうして君が決めるの?」
欠員がでた本社第一営業部に年明けとともに転勤してきたのは、地方支社にいながらも本社で知らないものがいないというトップセールスマンの長船光忠だった。
入社1年目からセールスランキングに名を連ねた光忠は、数年で全国で五本の指に入るほどの営業担当に成長した。
欠員がなくても遅かれ早かれ本社の花形たる第一営業部に引き抜かれるのは誰もが予想していたことで、もちろん本人にも自覚はあったのだろう。
「早くなれて皆様のお役に立ちたいです」と謙虚な挨拶とは裏腹に、すぐにでも結果を出してやるといわんばかりの表情を見せた。
「長谷部くんだっけ?厳しいって支社の子たちが言ってたけどお手柔らかにね」
あいさつにと管理本部に顔を出した光忠が長谷部に目を向けると、同期なんだってねとにこりと手を差し出した。
「ああ。長船とか言ったか?」
差し出した手を取ろうとも、そして笑みのひとつも浮かべずに長谷部はそう答える。
ピシリと光忠のたたえた笑みにひびが入る音が聞こえる。
「!!!!長船とかって……」
自分を知らない人間がいるのかと言わんばかりの光忠の姿に「支社ではやりたいようにやってたらしいけど、本社には本社のやり方がある」
「やりたいようにってどういうこと?」
「ふうん。そうか自覚がないのか」
「何が言いたいの」
「ああ、お前が出したこの転居届だけど書き直せ」
ぽいと手渡された届はそこここに赤字で修正が入っている。
「別にここまで細かく書かなくてもいいでしょ」
「やり直しだ。提出しない限り手当は支給されない。誰かほかの人間に押しつけるなよ」
「……わかったよ。噂通りだね、杓子定規の長谷部くん」
「提出期限は10日だ。遅れたら今月分は出ないからな」
「はーい」
チッという舌打ちはどちらのものだったのか。
とにかく初対面の印象は最悪だった。
「なんなのあれ……」
真っ赤になった転居届を手にどすんと席に座ると隣のアシスタントが「どうかしました?」とのぞき込んでくる。
「突き返された」
「あーこれは仕方ないですね」
「え?」
「用紙出しますね」
「じゃあ…」
代わりに書いておいてよと口にしかけて「ほかの人間に押しつけるな」という長谷部の声が蘇り、光忠は「ありがとう。助かるよ」と口にするしかなかった。
そうして長谷部は光忠の書類を突き返し、そしてその書類を手に光忠が管理本部に乗り込んできてはひと悶着起こすのが日常の光景になっていた。
最初の頃は上司やアシスタントに「これどう思います?」と聞いていた光忠だったが、「ひどいですね」だとか「俺から言ってやるよ」といった光忠の望む答えは返ってこず、「これはまあ仕方ないですね」「ああ俺も見落としていたな。すまん」といった長谷部を肯定する言葉がほとんどで、結果光忠は直接乗り込むことが増えた。
「ほんと意地が悪いよね」
そういうと長谷部はわずかに眉をひそめ「期待はずれか」とつぶやき光忠を激昂させた。
「だーかーらーどうして僕にばっかり意地悪するのかって聞いてるんだよ!」
「なんだこれ、酔ってるのか?」
「そんなに飲ませてませんよ」
「いやこれどう見ても酔ってるだろう」
光忠の転勤から数か月、季節が変わり寒々とした公園に薄桃色の花が開きはじめたのを見計らって同期で花見をしようという話が持ち上がった。
期末の処理が終わらず遅れてきた長谷部を待ち受けていたのは、どうしてどうしてと長谷部に詰め寄る光忠と、それをにやにやと見守る同期の面々だった。
「ねえ?どうしてなの長谷部くん!」
酔っ払いに真面目に答える義理はないんだが。
そう思うもののまっすぐに見つめる蜂蜜を溶かしたような瞳に嘘をつくのははばかられ、長谷部はため息をつくと口を開いた。
「お前が支社で提出した書類はひどいものだった。でも誰もそれをお前に突き返さなかったのはお前が営業に出る時間を減らしたくなかったんだと思う。それはわかるが、正しい処理を知らないままだと上に立ったときに痛い目を見るのはお前だ。経費の内容、原価の内訳、見積書の見方、契約書、どれもこれも一つ間違えばお前たちが必死に取ってきた仕事がふいになることも、利益がふっとぶこともある。お前はもっと上に立つ人間だろう。だから今のうちに……おい……泣くとこか」
金色にじわりと膜がはったかと思うとぽろぽろと流れる水の粒、白い頬を流れる透明の筋が安っぽい街灯に照らされてきらりと光る。
ひらりと風に舞った花びらが夜空のような黒髪へと落ちてきた。
「……」
桜のはなびら、ぽろぽろ流れる涙、そして金色の瞳。
胸の奥にしまった宝箱がかたんと蓋をひらく。
「み、つ?」
まさかなと言いながら光忠から目が離せない長谷部に、言葉もなく涙を流していた光忠がぎゅうと抱きついた。
「……くに、くん?」
アルコールに酔った体重がそのまま長谷部にのしかかり、倒れた長谷部の頬に光忠の髪がくすぐるように触れる。
柔らかい黒髪、手をさしいれると懐かしい香りが鼻をくすぐる。
まさかまさか。
「おい、長船!重い!離れろ」
「やだ」
「おい!宗三!笑ってないで。おい!重いぞ!」
なんとか身体を起こそうと手をついた長谷部の指が冷たいものに触れる。
「鍵?長船、これ、お前のか?」
いくつか鍵がついた束につけられた傷だらけの安っぽいキーホルダーに長谷部は目を止めた。
「みつ、なのか」
20年前のこんな春の日、遠縁の葬儀で出会った女の子。
おじいちゃまがと泣くその子の蜂蜜みたいな大きな目が溶けてしまいそうで、どうにも放っておけず一緒に遊んだ。
そして別れ際にもう泣かないように「お守りだ」と渡したものだった。
長谷部の肩を濡らすずいぶん大きくなった初恋の子に長谷部はあの日と同じ言葉を告げた。
「もう泣かないためのお守りだ。もっておけ」