想・喪・葬・相 14手を握っている間、江澄の目が開くことはなかった。
「意識が戻りました」
翌日の昼頃、病室を離れ諸々の手続きをしている最中に、ようやく待ち望んだ知らせが入ったのだった。対面の許可が出たのは、そこから検査と処置が終わってからだったので、もう随分日が傾いてしまった。
医者の話では目立った怪我も脳の異常もないため、数日すれば退院できるらしい。
走らないように、けれど出来るだけ速歩で病室へと向かう。
しかし、病室のドアを開けようと手摺を掴んだ時になって、急に足がすくんだ。
(私が阿澄を遠ざけたというのに、言い出した本人が今更それをなかったことにするのか。それはあまりに不誠実ではないのか)
一度手摺から手を離し後ずさった。
(では、自殺未遂をした阿澄を放ってここを離れるのか。そうしたら阿澄は今度こそ本当にこの世からいなくなってしまうかもしれないのに)
今、自分は江澄のために何をするべきなのか。数歩進み手摺を掴んだが、考えが纏まらずドアを開くことが出来ずにいると、中から江澄の声がした。
「曦臣?曦臣だろ?何してるんだ、入ってこい」
江澄が自分の名前を呼んでいる。
扉を開ければ江澄の目をもう一度見ることができる。
そう思った途端に胸が締め付けられ、身体が急に熱くなった。
(どんな御託を並べても、結局私は阿澄をどうしようもなく求めている)
手摺を引き、夕陽が照らす病室に入った。
江澄は起き上がっており、真っ直ぐにこちらを見ていた。
「曦臣、悪かったな」
「え…?」
「まだ混乱してるんだが、夜の川に落ちて搬送された俺に付き添ってくれたんだってな。よくわからないんだが、何であんな所に曦臣がいたんだ?」
思いのほか淡々と話す様子を見れば、自殺未遂をしたことは覚えていないようだった。自殺にまで追い込まれた原因は決して見過ごせないが、以前のようなあっけらかんとした調子の江澄にほっと胸を撫でおろした。
「その…、休養で近くのホテルに滞在していてね。偶然居合わせたんだ」
「この季節にか?ああ、わかった。彼女と来たんだろ。この間からキャンドルナイトだったかイベントが始まったみたいだからな」
茶化すように話す江澄を前に、言葉が出なかった。
この三年間、江澄はどう気持ちの整理をつけて過ごしてきたのだろう。
もしかすると、自分とのことは取るに足らないものとして処理したのかもしれない。そうして本社から離れた土地で心機一転、新しい人生を歩き始めていたのかもしれない。
(あのことは無かったことにして、私とは真逆の生き方を選ぶことが出来たということなのだろうか…)
呆然と立ち尽くしていると、江澄が少し眉間に皺を寄せ、怪訝な顔をした。
「おい、曦臣?大丈夫か、何かさっきから変だぞ。何でそんな所に突っ立ってるんだ。横に来て座れよ」
「阿澄…その…」
「あっ、まさか彼女と何かあったのか?俺に付き添ったから彼女の機嫌を損ねたとか。それなら、早く言え。一緒に事情を説明して謝ってやるから」
(違う)
目の前の江澄は何かが違っていた。
まるで、あの出来事が起こる前の幼馴染だった時に戻ったかのようだった。
「……阿澄、どこまで覚えている?」
「何だよ、曦臣もそれを訊くのか。さっき医者にも言ったけど、生い立ちから何から全部ちゃんと覚えてる。二年前に本社から異動になって、ここの支社でクソ上司にこき使われて、昨日はそいつに言われて仕方なく接待に同行した。相手は香水臭い男で鼻がむずむずしたから、接待終わってから外の空気吸おうと歩いてたら足滑らせて川に落ちた。それ以外に何が訊きたいってんだ?」
「私とのことは何を覚えてる?」
それまでむすっとしていた江澄の顔が急に陰り、声もぼそぼそとした小さなものになった。
「ごめん…俺達、喧嘩してたんだよな?」
もしかしてと思ったことを確かめたいのに、緊張から心臓がうるさい程脈うつ。
江澄の声を漏らさずに聞かなければならないのに、心音と呼吸音が煩わしく、表情を取り繕う余裕もなかった。
「その顔、やっぱりそうなんだな。この三年、一回も連絡とってないもんな。でも、本当に悪い。曦臣と別れた時、何があったのかちゃんと思い出せないんだ。きっと俺が嫌なこと言って喧嘩ふっかけたんだろ?それで、曦臣が怒ったんだよな?」
やはりそうだった。江澄は自分と身体を重ねた過去を忘れていた。
江澄の中では、自分はただの幼馴染に戻っているのだ。
予想していなかった事態にただただ混乱した。そんな動きの悪い頭でもただ一つ分かること、それは『江澄を傷つけてはいけない』ということだけだった。
(どうすることが正解なのかわからない。けれど、少なくとも今の阿澄にあの過去を思い出させてはいけない。それならば、『藍曦臣と江澄は昔からの幼馴染で親友である』という関係がずっと途切れずに繋がっていたことにするしかない)
腹が決まると、表情を繕う余裕が生まれた。
ベッドの横にあった椅子に座り、笑いかける。
「阿澄、気に病まないで。些細な喧嘩を拗らせただけなんだ。私も意地になってしまって連絡も取らずに、大人げなかった。ごめんね」
「曦臣、思い出せなくてすまない。教えてくれ、俺は何を言っちまったんだ?」
「本当に些細な事だったから、私も何がきっかけで喧嘩したのか記憶があやふやなんだ。ああ、そんな顔しないで。本当のことだよ」
「誤魔化すなよ。三年も連絡を取らなかったなんて異常だ。それだけ許せない事があったんだろ」
「違うよ。阿澄は私を傷つけたりしていない。嘘じゃないよ。私は阿澄に嘘を言ったことないでしょう?」
「それはそうだけど。……曦臣、本当に信じていいんだよな?」
「もちろん」
「だったら、これからはまた以前と同じように連絡してもいいか?」
「うん。阿澄、仲直りしよう」
あの別れの日に言えず、心の奥底で腐っていくはずだった台詞が、嘘を潤滑油にして口から滑り出た。
江澄がこちらを見て安心したように笑っている。
二度と見られないと思っていた、ずっと焦がれた笑顔が目の前にあった。ありきたりな会話が二人の間を行き交う。
自分の目を見てくれる江澄を前にうっかり涙が出そうになり、不自然にならないように席を立った。
「明日、また来るね。今日はゆっくり休んで」
「そうか、付き合わせて悪かった。俺はもう大丈夫だから無理に面会に来なくていい」
「彼女はいないよ。一人で来ているから気にしないで。また、明日会おうね。阿澄」
「ああ、またな」
記憶のない江澄に嘘を吐いている罪悪感はあった。けれど、こうして次に会う約束が出来ることのありがたみと天秤にかければ、どうしても後者に気持ちが傾いた。
(今度こそ阿澄の幸せのために自分を制御することができるかもしれない。いや、しなければならない。今度こそ絶対に間違えてはいけない。ただ、阿澄のために)
昨日まで目指すものもなく無気力な日々を過ごしていたことが嘘のように、今の曦臣の瞳には『使命』が宿っていた。