黒猫「あ、猫だ」
最近よく黒猫を見かける。その猫は、KKと調査に出たときや、大学の帰りに友人たちと歩いているときなどに視界の隅に現れる。そのまま気づいたらいなくなっている事もあれば、するりと足元に体を擦り付けて去っていくこともある。これがまた大変すばしっこい猫で、KKや友人たちに存在を教える前に逃げ去ってしまうのでこの美しい毛並みの黒猫を紹介できたためしがない。いや紹介できる程懐かれているわけでもないけれど。あまりに美人な猫だからつい。可愛い生きものを見たとき、人に共感を求めてしまうのは人間の性だと思う。なんて、この話をしたときKKは嫌いな食べ物を目の前にした子供みたいな顔をしていたから、よっぽどだなと少し笑ってしまった。
今日もまた、僕の前にその黒猫は現れた。
陽が落ちかけ、割れた窓を塞ぐように付けられた木の板の隙間からオレンジ色の光がほこりの舞う室内を照らしている。雑多に転がる椅子や小物が残されたデスク、段ボールを避けてスタスタ歩いていくKKについていく。
今回は調査というより点検だ。以前も訪れたことがある渋谷区の外れにある廃ビルで、業者の間で幽霊の噂が立ったことにより依頼がきてKKと共に調査兼退治をした場所だ。あのときは分断され、1人になったところを狙っていたのか元凶の悪霊に体を乗っ取られて、この体でやらかされかけた末にKKがブチギレて色々大変な目に遭う…なんてこともあったけどまぁそれは終わったことなのでいいか。
閑話休題。その廃ビルでまたよくないものが集まっていないかどうか点検する、それが今日の仕事だ。ビル全体を霊視して見つけた小さな澱みを祓いながら進む。思ったより少ないから早く終わりそうだ。大学から現地集合だったから小腹が減ってきた気がする。帰りにコンビニ寄ろう。どうせKKもタバコを買うんだろうし文句は言わないだろう。
「ま、これでまたしばらくは保つだろ」
最上階の最後の部屋を見回して一息つく。念のため霊視をして取りこぼしが無いのを確認する。
「ここってそんなに溜まりやすい場所なの?」
「前回と違って今回は立地の問題だな。最近近くに商業施設が出来ただろ、そこから流れてきたものが溜まってやがったんだ。この様子じゃ定期的に点検に来ないと面倒なことになる」
「じゃあ巡回ルートに追加って凛子さんに報告しとくね」
「ああ、まぁ3ヶ月…いや半年でも大丈夫か。そんくらいは保つな」
スマホで報告をメールで送る。帰ったらアジトでちゃんと書き直すので内容は簡潔でいい。ちらっと視線だけKKに向けると、腕を組み何か考えるように視線を下げて自分の唇を触っていた。恐らくタバコが吸いたいのだろう。でもここに来る前最後の一本を吸っていたのでもう手元には無いのだ。先程空のタバコの箱を握りつぶしてため息をついていたから確実に。そういうとき、たまに出るこの癖が僕は結構好きだったりする。そんなことを考えていたら手が止まっていることに気づいたKKがこちらに視線をよこしてニヤリと笑う。あ、嫌な予感する。
「随分と熱い視線を向けてくれるじゃねぇかお暁人くん、報告はできたのか?」
「今送った。…タバコ吸いたいのかなって思っただけだよ」
「へぇ?俺はてっきりこういうことかと思ったんだがな?」
近づいてきたKKに咄嗟に一歩下がるが、後頭部を掴まれて反射的に目を閉じる。唇から離れていく熱に名残惜しさを感じてしまい顔が熱くなる。いつもこうだ、揶揄うみたいに翻弄してくる。満更でもないのは否定できないがやられっぱなしは悔しいのだ、いつか絶対仕返ししてやる。そんな様子を楽しげに見ていたKKが頭をくしゃりと撫でてくる。
「さて、帰るか。帰ったらもっとたくさん遊んでやるからそんな顔するなよ」
「っもうKK!」
「置いてくぞー」
「あ、ちょっと待って!」
今に見てろ…!赤くなった頬を軽く叩いて先に階段を降りていくKKを追って走る。一階に着く頃には顔の熱も引いて、忘れていた空腹を思い出していた。
「KK、帰りにコンビニ寄ってって良い?」
「ああ、タバコ買いたいからいいぞ。腹減ったのか?」
「ちょっとね。とりあえずおにぎりと焼鳥と肉まんかな…あ、今日の夕飯はがっつり牛丼だから」
「お前のちょっとはちょっとじゃねぇな…」
「あ、猫だ」
出口の扉にかけた手を止める。段ボールの影から飛び出し、足元をするりと抜けていく黒猫に気づいて視線を下に向けた。珍しいことに黒猫は去らず、もう一度足に擦り寄ってくる。ああ、なるほど外に出たいんだ。窓ガラスから夕日がさしこんで黒猫を照らしている。扉を開けようと腕に力を入れ、
ガシャン
手ごとドアが引き戻されて少し空いていた隙間が勢い良く閉まる。掴まれた手に驚いて振り返るとKKが眉を顰めて黒猫を睨んでいた。そんなに睨みつけるほど嫌いだっただろうか。前に話したときはしょっぱい顔をしてはいたけど、ここまで凶悪な悪霊と対峙したときのような顔はしていなかったのに。
「け、KK?どうしたの?」
「暁人、お前コレが猫に見えるのか」
その真剣な声音に弾かれたように足元に座る黒猫を見る。ゆっくり持ち上がる猫の顔に目が離せず、息が上がる。
「あ」
KKに抱えられるようにして猫のようななにかから離される。エーテルショットがなにかの頭に当たったように見えたが、効いていないのがなにかは微動だにせず目の無い目でこちらを見つめている。目だけではない鼻も口もヒゲも無い。真っ暗な空洞になっていた。体は時折ブレている。これは猫じゃない。
KKがまたエーテルショットを打つ。よく見ると、攻撃が空洞に吸い込まれていってるように見える。
「チッ頭じゃねぇなら体だ、おい暁人大丈夫かしっかりしろ!」
「は、へ、平気」
エーテルショットが効かないのであればと、弓を構える。なにかはそのとき初めて避けるような動きを見せた。足元に一撃射るとなにかは身を捻るように跳ねる。その隙を見逃さずチャージが終わったKKの連撃がなにかの体に命中し、コアが露出する。
「暁人!」
「任せて!」
コアを手繰り寄せるように引き抜いて破壊する。猫の形をしていたなにかは崩れるように溶けて無くなっていく。すると空気が揺れるような感覚がし、身構える。警戒したが静かな廃ビルのまま何もおかしなところはない。今の感覚は結界が解けたときのものに似ている気がしたので目配せをするが、KKは気疲れしたのか眉間を揉んでいた。問題は無さそうなので肩の力を抜く。
「はぁ、お前厄介なものに目をつけられてたな」
「あれなんだったの?」
「わからねぇ」
扉を開けて外に出るともう月が登って空は暗くなっていた。最近は日が暮れるのが早い気がする。しっかり施錠すると人通りの多い繁華街の方へ歩き出す。空気が籠った所にいたせいか夜風が心地よく感じる。
「わからないってどうゆうこと?」
「そのまんまだよ。わからないから対処が難しい。今回はお前には猫に見えていたみたいだから、実態が伴っていてなんとかなったんだ」
「じゃあもし実態がなかったら…?」
「お前は今頃あの世でもこの世でもないどっかで迷い続けてたかもな」
どっかって何処。そもそも今思えばあの黒猫のようななにかの顔は一度も見たことは無かった。なのに美猫だと思い込んでいた自分が怖い。認識でも歪められていたのだろうか。
歩きながら頭を抱えていると、KKが肩を叩いて笑う。
「冗談だ、俺がなんとかしてやるからそんな事にはならないからな」
「怖い冗談言わないでよ…はー安心したらお腹減った夕飯の時間だけどコンビニ行こう」
「その食欲は何があっても変わらないな…あんまり食い過ぎんなよ…」
アジト近くのコンビニで軽食を買い、我慢できずに歩きながら肉まんを頬張る。KKはやっと手に入ったタバコをくゆらせご満悦だ。歩きタバコは駄目だよ、と注意するも今回くらい許せと返されてしまい口籠もる。今日は足を引っ張って要らぬ苦労をかけてしまった自覚があるため、あまりしつこく言う気にならず、新しく袋から出したピザまんにかぶりついた。
階段を登りながらあんまんの最後の一口を放り込んだあと、ドアを開けるKKを見て廃ビルでのことを思い出し、なんとなしに尋ねる。
「そういえばあの時さ、扉を開けない様にしたよね?」
「あ?ああ、もしかしてあの時外見えてなかったのか?」
「外?普通に外じゃなかった?」
「俺には異様に真っ赤な空に見えたけどな」
時間帯的に日の入りしてるから明るいのはおかしいんだよ。そう言うと靴を脱いで部屋に入っていく。あのとき夕方だと思っていたが夜だったなんて、いつからおかしかったのか。もしかしてあの黒猫を初めて見かけた時からだろうか。なんともゾッとする話だ。自身も靴を脱ぐために屈むと、KKが振り向いて口を開いた。
「しばらくは家の中と外を繋ぐ扉に気をつけておいた方がいいかもな」
そう言うと機嫌良さげな足取りで居間の方へ行ってしまい、玄関が静寂に包まれる。居間からは今日のことを報告しているのか凛子さんたちの話し声が聞こえていたが、それどころじゃない。靴に向けていた視線をそーっと後ろの玄関扉に向ける。なんの変哲もない普通の扉だ。いや、さっきのKKの表情は、からかってくるときの顔だった。だから恐らく冗談のはずだ。多分。きっと…くぅ、KKの思い通りにはならない…!
扉のドアノブに手をかけようとして、いっとき逡巡してやめる。
「っKK!今日泊まるから!」
咄嗟にその場で大声を出すと、居間の方から耐えきれないとばかりに吹き出すような笑い声が聞こえてくる。まんまと思い通りになってしまった事に悔しさを覚えながら、一言言うためにKKたちの元へ向かった。今日も今日とて年上の恋人は一枚も二枚も上手で敵わない。いつかその余裕を崩してやりたいがいつになることやら。今夜も長い夜になりそうだ。