てのひら「どうも、こちら頼まれていたキズぐすりです!」
「ありがとうございます、助かりました。机の横に置いておいてもらえませんか」
ギンガ団庁舎、扉を入ってすぐの位置にある調査隊本部の部屋。机の横に箱を下ろしたウォロが顔を上げると、ちょうどシマボシが机の引き出しを開けてごそごそと何かを探しているところであった。程なくして彼女は封筒を取り出し、椅子から立ち上がってウォロに差し出した。
「こちらお代です」
「ありがとうございます。今後ともご贔屓に」
中身を確認しながらふと彼女の方へと目を向ける。再び腰を下ろして机に向かった彼女は、忙しいのか部外者がまだ部屋にいるにも関わらず紙束を捲っている。
「っ、」
「どうされました?」
彼女の肩が不意に少し跳ねた。気にしないのも変かと思い、声を掛ける。
「いえ、少し指先を切ってしまっただけです」
紙の束と自身の指を交互に見やりながら彼女が呟いた。その手の皮膚は触らずとも見て分かるほどに乾いていて、あかぎれさえできている。なるほどこれならば傷がつきやすいだろう、と納得した。季節は冬に向かう時期であった。
「手が乾燥していると指を切りやすくなりますよ。あかぎれも痛いのでは。少し相談にでも乗りましょうか?」
ちょうど、良いものを持っている。
「気にしたことはないので」
「でも切れて血でも出たら大切な書類が汚れてしまいますよ」
「……確かに、それは」
「そんな時にはこちらです!」
にこりと笑って、ウォロは鞄の中から蓋つきの浅い瓶を取り出した。
「肌の乾燥を防ぐ効果のあるクリームです。手だけでなく顔や全身にもお使いいただけますよ」
「ああ、聞いたことがあります」
最近、コトブキムラに住む女性たちの間では流行っているものだ。彼女も名前は聞いたことがあったのだろう。
「でも、値がかなり張ると聞いたのですが」
「他の地方からの輸入品はそうですね。最近、ヒスイ地方原産の植物から作ることも出来るようになったのでお求めやすい価格となっています」
金額を伝えると、どうやら予算の範囲内だったらしい。
「ならば個人的な買い物だから仕事のあとに……」
「もう昼休憩の時間ではないのですか? 外の団員さんにそう聞いたんですけど」
実際仕事の邪魔をしないようにと、品物を運び入れるときはいつも、休憩の時間にしている。シマボシは壁に掛けられた時計をちらりと見た。
「もうそんな時間か、ならば早く食堂に行かなけ……」
「少しだけ待ってくださいよ、これ買うんじゃないんですか」
すぐに立ち上がろうとするのを慌てて遮り、席に座るように促した。申し訳なさそうにしながら財布を取り出した彼女に再び値段を尋ねられる。値を伝え、紙幣を受け取る。
「ところで、すぐにお使いになられますか?」
「そうですね。試してみます」
「了解です」
彼女の言葉を聞くや否や、ウォロは瓶の蓋を捻ってクリームを開封した。香料の柔らかい香りが広がる。瓶を、シマボシの使っている机の隅に置いた。
「少し手を借りますよ」
促すように手を上に向けて彼女の方に差し出すと、戸惑いつつもシマボシは従い、彼女自身の手をその上に乗せた。
「何を、」
「調査隊はジブンたちイチョウ商会のお得意様ですからね。ちょっとしたサービスですよ。使い方を教えて差し上げます」
「あ、ありがとうございます」
軽く挟むように手を固定し、もう片方の手でクリームを少し多めに手にとる。跪き、乾いた手の甲にそれを丁寧に塗り込んでいった。
「一度にそんなに沢山使うものなのですか」
「こまめに塗りなおすのも手間でしょう」
「でも、乾くまで何も触ることが出来ないのでは」
「時々これを塗りなおして、ついでに少し休憩するのもよいと思いますよ。ほら、良い香りもしますし疲れもとれるのでは」
自分と比べれば随分と小さい手は、ウォロのものとは違ってずっと室内にあったにも関わらず、ひんやりと冷たかった。冷え性なのか、それならば懐炉や手袋なんかも買ってもらえるかもしれない。
「そういえば、『手が冷たい人は心が温かい』という言葉はご存知ですか?」
「初めて知りました」
「シマボシさんの手は随分と冷たいのでその言葉を思い出しました」
クリームが浸透し、既にしっとりと水分を含んだ彼女の手の甲を軽く撫でた。
「アナタは周囲が思っているよりも案外、優しい人なのかもしれませんね」
悪い人でないことは知っているけど怖い。感情が分かりにくくて心の内が読めない。シマボシを指してそんなことを言う人間を今までも何人も見てきた。ちょうど、勘の鋭い者がウォロを指して言う言葉と似たようなことを。だからこそ僅かながら、親近感のようなものさえ覚え始めていたのかもしれない。何度も顔を合わせても、未だに堅苦しい態度を崩されたことがないにも関わらず。
「……そうですか」
驚いたようにウォロの顔を見て目をしばたたかせた彼女は、ただそれだけを小さく呟いた。どことなく嬉しそうだったと感じたのは、自分の思い込みなのか事実なのかは分からない。だが、されるがままだった小さい手に、わずかに握り返すような軽い力がこもったのは確かだ。
彼女も何かを言おうとしているのが分かった。雑談に、雑談を重ねようとしているのかもしれない。ウォロはじっと、彼女が話し出すのを待った。
しばらくして、彼女がおもむろに口を開く。
「その理論だと、貴方は私が思っているよりも、冷たい心を持っているということになりますか」
彼女なりに不慣れながらも冗談を言おうとした、ということは理解できた。
「ウォロさんの手は温かいので」
酷い冗談じゃないですか、ジブンはそんな人ではありませんよ。
こう、笑い飛ばされるとでも思っていたのだろう。自分だってそうするつもりだった。
「アナタの手が冷たいからそう感じるだけなのでは」
「……どういう意味ですか」
「ジブンの手が温かいということが、です」
何てことないように返したつもりだった。だが、シマボシの表情にさっと緊張が走る。
「すみません、気分を害してしまったのなら謝ります」
「すぐに撤回するようでは上手な冗談とは言えませんね」
「わかってます、ほんとにそんなことないってことは……」
こうも慌てられると、こちらは少しばかり冷静さを取り戻すことが出来た。
「怒ってないので落ち着いてください。ただ、少しだけがっかりしただけです。アナタにそんな風に思われてたってことが」
もちろん、シマボシが自分に対して「冷たい人」.などと思っているわけがない。彼女は自分を信頼しているし、優しい人だと思い込んでいる。そうでなければあのような冗談は口にしないだろう。ただ、自分と彼女の間には、彼女自身さえ気づいていない薄く堅い壁があるようだ。
ウォロは未だに動揺を見せる彼女の顔を見上げ、笑いかけた。
「……っていうのも冗談ですよ。本当に何も思ってませんって」
「本当ですか?」
「シマボシさんが焦って謝っているのが珍しくて、楽しくなってしまっただけです」
そう伝えると彼女は僅かにむっとしたが、そもそも自分の発言が招いたことであることを思い直したのか、すぐにその表情は消えた。
「でもアナタが冷え性なのは事実ですよ。今度、懐炉や手袋なども持ってきます。お得意様が体調を崩されては困りますからね」
「……お気遣い痛み入ります」
「そろそろ、もっと気楽に喋っていただいても良いんですよ」
ウォロは呆れたように少し微笑んで、手を離す。膝に置かれたままだったもう片方の手を取り、手首を掴んで手の甲を上に向けたまま先ほどと同じように固定した。
「もう片方の手も塗っていきますね。力を抜いていてください」
まだ、時間はある。これからゆっくりと崩していけば良い。