音楽は君と共に 三話どこに向かっているのかも、分からない。
息が切れても、何があっても、足が止まることはなかった。
息を切らして、ようやく止まる。
ここはどこだろうか──小高い丘の上のようで、公園みたいなところまで来ていた。
雨宿りに子どもたちが遊ぶドームのような遊具の下に入り、足を抱える。
寒い。
気温もそうだが、心の方がもっと寒かった。
「……寒い……」
今までも、心が寒い時はあった。
だが、そんな時でも唯一心を温かくしてくれるものがあった。
四歳のころに出会った、一人の男の子。
優しい顔をしていて、綺麗な青色の瞳をしていた。
その子が奏でる、ピアノの音が好きだ。
今でも鮮明に、あの音色を思い出すことができる。
だと言うのに、その旋律は届かなかった。
「……寒いよ……梓」
どうして名前が出たのか分からない。
分からないが、でも口から出したかった。
彼なら、もしかしたら助けてくれるかも。
いいや、助けになんて来ない。こんなところ、分かるはずがない。
全て、自分のせいだ。
両親の気を引こうとして、横断歩道に走って入っていった。
車に轢かれかけたって言えば、心配して少しは構ってくれるかもしれないと。
だが、そこに突っ込んできたのは猛スピードで突っ込んできた車だった。
音に気づいた時には遅くて。
何かに押しのけられて、凄い音が鳴って一瞬時か止まった。
目の前には、本来死ぬはずだった自分ではなく血だらけの兄が横たわっていて──。
「うっ、うぅっ……」
膝に顔を埋めて小さい声で泣いた。
誰にも聞こえないように、どこにも響かないように、小さく、小さく。
だが、そんな自分を否定するように声が聞こえた。
「……やー……奏夜ーっ……!!」
雨の音で、声が半分かき消されていたが聞こえる。
確かに、梓の声だ。
「あ……ず?」
「奏夜……いた! 奏夜!」
走ってきた。自分よりもずっとずぶ濡れで。
「っ……なんで……」
「え?」
「なんで、俺なんか探しに来たんだよ! 放っとけば良かったのに!!」
「そんなこと……」
「お前だって、アイツらから俺の昔のこと聞いたんだろ!? 軽蔑しただろ!? 呆れただろ!! 俺のことなんか……っ、嫌いになっただろ!!」
感情のままに、色んな言葉が出た。
違う、別に梓を否定したいわけではない。
否定したいのは、多分自分自身だ。
「俺は兄貴とは違って出来損ないなんだよっ!! 愚図だ!! どうせ両親もいらない子だって思ってる!! 俺の都合なんか何も考えてなんかいない!! 俺はっ……」
次の言葉が出る前に口が塞がれる。
「……言わせない。ダメだよ、そんなこと言っちゃ」
梓が抱き締めて俺の口を腕で塞いで止めていた。
…………。
乾きかけていた奏夜の口を、梓の濡れた制服の袖が再び湿らせる。
「……ダメなんだよ、自分を否定したら」
「でもっ……」
「僕は、奏夜のことをそう思ったことはないよ。既に舞衣姉ちゃんから聞いてるもの、奏夜のこと。でも、僕は……奏夜を否定したことなんて一回もないでしょ?」
「……っ」
優しく微笑んで、梓は続けた。
「僕は奏夜のことを軽蔑も、呆れてもいない。家族なんだし、大好きだよ」
「……え……」
「僕のピアノを愛してくれる人だから」
「ッ……!」
「愚図でもない、出来損ないなんかでもない。奏夜には、奏夜にしかできないことがあるじゃないか。いらない子なんかじゃないよ、僕には必要な……大切な人だ。だから、自分を受け入れて」
「あ、ず……あずぅっ……」
子どもみたいに大声で泣きじゃくるのを、子どもをあやすようによしよしと頭を撫でる梓。
きっと、寂しかっただろう。
とても、辛かったのだろう。
すごく、苦しかっただろう。
全てを受け入れるのは、奏夜だけではない。
梓も一緒に受け止めてあげれたら、きっと。
「…………"止まない雨はないし、明けない夜もない"」
「…………」
「僕は、奏夜じゃないから奏夜の想いとかは分からない。けれど、奏夜のことを"助けることはできる"」
かつて、親友からもらった言葉。
「奏夜のことを"分かることだってできる"かもしれない……親友が、いなくなるのは嫌なんだ」
あの時の、あの言葉。
今の梓にはひしひしと感じた。
あの時の、全てに絶望して嫌になって何もかもから逃げたくなった時。
あの時、親友がしてくれたように。
「……僕が……」
グッ、と奏夜に見えないように梓は拳を作った。
「僕が、奏夜を守るから」
「……うん……」
梓に縋るように抱きつく彼は、まるで子どものようだ。
頭を撫でてから、雨が止んだのを見て二人は顔を合わせて笑った。
「……帰ろう、僕らの家に」
「……おう」
……………………。
しばらく経ちずぶ濡れで帰った結果、二人は舞衣にこっぴどく怒られた。
学校まで迎えに行ったにも関わらず、出てこない二人を心配してあちこち奔走してくれていたらしい。
「もーっ……」
「ごめんなさい……」
「ごめん……でも……舞衣姉」
「なぁに?」
「……ありがと、心配してくれて」
「ふふっ、どういたしまして」
奏夜の頭を撫でてから舞衣は食卓へと向かった。
「ご飯にしよっか、二人とも雨でびしょ濡れだったからシチューにしちゃったよ、夏なのに」
「シチュー? マジで!?」
「わぁ、舞衣姉ちゃんのシチュー美味しいから楽しみだな」
「ふふんっ、そうでしょ〜? さっ、先に宿題しておいで!」
「はーい!」
二人で元気に駆け出す。
上の階へと向かう彼らは、夕日のように明るく輝いていた。
終