仙人の恋人2魂が抜けたようだと言うのは、この事だ。
雲深不知処の近くの骨董店のカフェでバイトをしたいと、両親に申し出たのだ。
隣には、あの藍曦臣。両親は、この人の事を覚えていた。
そりゃ、覚えているだろう。終身契約なんて、結ばされたのだから。
「つまり、うちの晩吟を入学したらバイトで雇いたいと?」
「はい。
元々雲深不知処でも教鞭をとっていた事もありますし、
彼に学園での勉強を遅らせるようなことはしません」
人の好い笑顔で、押し切ろうとする曦臣。
まるで父親が、晩吟に助けを求めるように見つめてきたので、
膝の上で拳を作って隣に座っていた曦臣との距離を詰めた。
すると眩暈を起こしたのか、父親は母親に倒れこむ様に寄りかかった。
もはや母親に、泣きついているように抱きしめて肩に顔を埋めている。
冷めていると思っていた夫婦であったが、信頼関係が築けていたらしい。
仕方ないだろう。これ以上両親に金銭的な負担もかけたくないし、心配もかけたくない。
「いつかは、こうなると思っていましたわ」
己の頭を押さえながら、父親の背中を慰めるように撫でる母親。
「ですが、いささか性急すぎませんこと、藍宗主」
「ええ、虞夫人。私もそう思います。
彼が、成人するまでは、お二人に預けたままにしようと思っていました」
ぐいっと、肩を抱き寄せられる。
その行動に、母親の眉が中央により縦皺を作った。
曦臣の言動に、怒ったのだ。まるで、晩吟は元々曦臣のモノのように言われたから。
「徐々に手を出すつもりなんで、ご安心ください」
「そんな事を言われて、安心できるわけないじゃない!!」
「そ、そうだ!藍宗主!」
がばっと母親から離れた父親は、目の前のテーブルに手を置いた。
「君は、そんな事を言う人じゃなかったはずだ」
父親の言葉に、曦臣は余所行きの笑みから悪人のような笑みに浮かべかえる。
こんな顔ができたのか、と見とれている。
それは、晩吟だけではなく、両親も同じだった。ただし、眼差しにこもった感情は違うが……。
「千年も生きれば、悟りもしますよ。目の前に愛しい人が現れたなら、特にね」
藍氏の愛情という執着を、甘く見てはいけない―――低くそう告げた。
父親は、ぐっと奥歯をかみしめた。
曦臣からあふれ出る霊力に、押しつぶされないようにするのが精いっぱいだ。
「おやめなさい。藍宗主」
「すみません、虞夫人」
霊力が収まっていくのを感じて、父親ががくっと倒れそうになる。
それを母親が、支えてソファーに座り直させた。
毅然とした態度をとっていた母親も、うっすらと汗をかいている。
「曦臣さん」
「うん、ごめんね」
両親の前で、甘ったるい微笑みを浮かべると自分の指で唇をなぞった。
それを、やめてほしい。まるで、キスされていないのに、キスをされている気分になってくる。
顔を赤くして曦臣を見つめていると「晩吟」と、父親が泣きそうな声で呼びかけてきた。
そちらを見れば、すでに泣いている。
「こんなに早く、晩吟をお嫁に出すなんて。
厭離よりも早く私たちから巣立ってしまうだなんて……」
「あなた、藍宗主だって物理的に晩吟を食べるわけじゃないから大丈夫よ」
ぽんぽんと慰めになっていない言葉を、夫に投げかける。
晩吟は、首を傾げた。
「曦臣さん」
「なにかな?」
「物理的に食べるってどういう意味ですか?」
解らない事は率直に聞いてみる方が、後々面倒にならない。
三人が三人とも、そのままの体制で固まった。
「そ、それは、おいおい教えましょうね」
曦臣の言葉に、父親は泣いていた。
―――晩吟は、曦臣の見送りに門の前まで来ていた。
「父さんが、あんなに泣く姿初めて見た」
「まぁ……晩吟は私の夫になるからね」
「でも、俺がお婿さんになるのはまだ先なんだろう?」
「はい、君には私と同じ仙人になってほしいので」
曦臣は振り向いて、晩吟の手を握り額に口づける。
その行動をとられるのは、初めてのはずなのにどこか懐かしい。
唇にキスをしてくれない事が、もどかしく感じる。
出会って数日、こうして直接会うのは二回目くらいなのにどうしてこんなに切なくなるんだろうか……。
「手を出さないって言った」
「ごめんね、許して」
晩吟がすねるように唇を尖らせると、指先でそれをなぞる。
そう言いながらも曦臣は、晩吟の唇に同じものを触れてはくれなかった。
******
曦臣は一人カフェのボックス席のソファーで、大きくため息をついていた。
店の電気は、柔らかなオレンジの光を放っている。
テーブルに置いてあるのは、自身で淹れたお茶であった。
晩吟の両親には、実は前世の記憶があった。
まだ江楓眠が、雲深不知処の生徒だった頃に迷い込んだのがきっかけだった。
彼の霊剣と再会して記憶を取り戻したのだ。
それから、同じく雲深不知処に通っていた虞紫鳶に告白して結婚した。
紫電はその時に返そうかと思ったのだが、紫電が離れてくれなかったのだ。
『きっとこの指輪は、阿澄を待っているのでしょうね。あの子が、貴方に託したと言うならあなたが今の主だわ』
紫鳶は、そう言って受け取る事をしなかった。
二人の間に、江澄が生まれると言う保証はないのだと、彼女の寂し気な微笑みを思い出す。
それでもあの夫婦の間には、厭離と晩吟が生まれた。
晩吟は、何の因果か邪崇に狙われる事が多かった。
紫電に導かれて、襲われていた所を助ける事が出来た。
晩吟を見て、江澄だとすぐに解った。教えてくれなかった事を恨むことは無かったが、邪崇に狙われているのなら教えてほしかった。
生傷も絶えず泣く晩吟が哀れで、『守り切れないのなら、私が守る』と無理やり契約書を書かせた。
強引な事だったが、それしか晩吟を守るには方法がないと思ったのだ。
晩吟が幼い頃は、ただ純粋に守りたかっただけだ。
だが、成長した晩吟を見た瞬間に心が暴走した。
やっと、やっと会えたのだと忘れかけていたその姿に、心が歓喜した。
そして、晩吟の中には江澄が確実に存在している。別人として扱おうとしたけれど、彼は本人だったのだ。
まだ目覚めていないだけ……。
こんこん、と窓ガラスがたたかれる。
外を見れば、黒いコートを着た青年が立っていた。
弟は一緒ではないのかと、目配せしたがどうやら一人らしい。
カフェの扉の鍵を開けると、黒いコートの青年……魏無羨が入ってきた。
先ほどまで座っていたボックス席に案内して、自分用に淹れてあったお茶を差し出す。
「どうも、義兄さん」
「どうしたの」
「江澄が、雲深不知処に通うって聞いたから俺も変化の術で、一緒に通おうかなっておもって」
にかっと笑う無羨に、曦臣は力を抜いて背もたれに寄りかかる。
「江澄じゃない、晩吟だ」
「どっちも本人だ」
「だけど、今は晩吟なんだよ」
曦臣は譲れないように、無羨に言い聞かせた。
聶懐桑が中等部に入学したときは、少しの興味しか示さなかったというのに……。
やはり、無羨にとって江澄は特別だったのだ。
勿論、弟の忘機とは違う意味でだ。
「晩吟は、この店で働いてもらう事にしたよ」
「え?」
「あの子を、仙師にする。いや、仙人にするつもりだ」
曦臣の言葉に、無羨の瞳が赤く染まり替わる。しかし、曦臣の霊力は冷泉のように静かで冷たく彼の霊力を抑え込む。
「危険にさらすのか」
「二度と喪わないためだよ」
冬が開けたばかりの寒い夜空に冴え冴えと輝く月のような瞳は、目の前の暁の瞳を見つめた。
ぐっと無羨は、奥歯を噛む。
「私だって、道侶と一緒に生きたいと願っているんだよ」