月下の夜想曲【三夜目】藍曦臣は、霊力の制御の修業のために夜狩りをして旅をしていた。
鉄紺の旅装束の仙師の噂は、瞬く間に世間に広められた。
笠を深くかぶって、布面をつけているため顔はわからない。
しかし、見える目元は涼やかである為か色男とされていた。
そんな鉄紺の仙師は、月に一度蓮花塢から外れた雲夢の町に通っているという。
紫の花を求めて、もう半年近くは経っているのではないだろうか。
花が咲いている妓楼は、江宗主が楼主を務めている妓楼であった。
色を売らずに芸を売る妓楼だが、そこは美しい妓女ばかりが集まっている。
彼女たちに陳情を申し上げれば、蓮花塢に届く事もあってか人気の店だ。
「こんばんは、竜胆」
「今夜も来たんですね」
「おや、つれない。何か月も通っているのに、まだ花のかんばせは見せてもらえない?」
「規則ですからね」
藍曦臣は、竜胆の顔を初日の時にしか見ていない。
ぷいっと背中を向ける彼女を、後ろから抱きしめる。
数か月通って、ようやくこうして触れる事を許してくれた。
「それに、私の舞を見ても『まるで江宗主の剣術みたいに美しい』とか言われて喜ぶ妓女がいるとでも?」
竜胆は、振り返って藍曦臣のきれいな形の鼻をつまんだ。
「私にとっては、最高の誉め言葉だと思うんだけど」
「ことあるごとに、江宗主みたいだとか言われる身にもなってみてください。
貴方は、私じゃなくて江宗主に懸想をしているのかのように感じますわ」
ふんっと、顔をそむける。
藍曦臣は、竜胆を褒める時に事あるごとに江澄のようだと褒めるのだ。
竜胆を褒めているようで、江澄を褒めているように聞こえてならない。
他の妓女たちも『あれはないわぁ』『ばれてるんじゃない』『いやあれはばれてない』と噂している。
竜胆が江澄でなければ、すでにぶちぎれて出禁になっていただろう。
竜胆を膝にのせて、首元にほほを摺り寄せる。
「そんな顔をしないで、ここにいる間は竜胆の事だけを愛していたいんだ」
「あなたに、そんな事を言われて、落ちない女はいませんね」
「現にあなたは、落ちてはくれないだろう」
腰に手をまわして、わざとらしく大きくため息をつく。
藍曦臣が通ってから、半年近くの数か月。逢瀬は六回ほどだったか、竜胆が座敷に出るという三日間すべてを買い取っていた。
地位も名誉もあって財もある、ただそれを振りかざすような男でもなければ無駄遣いをするような男でもない。
竜胆は、けして安くはないというのに簡単に指名してくる。
藍曦臣曰く「もう何十年も私欲で散財したことがないから、溜まっている」と言ってのけた。
「君を私のものにできたら、どれほどに幸福なんだろう」
「残念ながら、それはあり得ませんね」
こうして抱きしめあっているのに、竜胆は藍曦臣に対してつれない態度をとり続ける。
最初は、隣にも座ってはくれなかった。
月に一度のこの逢瀬は、藍曦臣にとっては楽しかったのだ。
竜胆は、まさに理想の女性だった。本当に、江澄が女性になったかのような人。
一か月の間で旅をした事を話をした。土産だと言いながら、装飾品を渡してきたり服を送ってきた。
竜胆は……というより、江澄はそれを藍曦臣が来るときに身に着けてるが、丁寧にしまっている。
袖を通してしまったのは仕方がないけれど、いつか藍曦臣が飽きたならそれらすべてを返そうと思っていた。
「来月」
「ん?」
「来月、私は姑蘇に帰ろうと思う。霊力も安定して操る事もできるようになったし、何より見分が広がった」
「それは、宗主のお役目に戻るという事ですか?」
「……うん」
藍曦臣は、竜胆の胸の中で頷いた。
「というより、君と遊んでいた事が叔父上にばれた。長老ばれるのも時間の問題かもしれない」
「それは、大変ですね」
「だから、ね?私と姑蘇に帰ろう?」
どこかで聞いたことあるセリフだな、おい。
江澄は、竜胆である事を忘れて表情を無くした。
来月と言えば、姑蘇藍氏が主催する清談会がある。もうそんな時期か、と思った。
「無理を言わないで、沢蕪君」
「何が無理なの?」
「ここはどこ?私は何?」
子供をあやす様に、竜胆は藍曦臣の両手を挟んで見つめる。
ここは妓楼で、竜胆は妓女だ。と言おうとしたが、そうではない。それは、この店の表の顔。
「雲夢江氏の見張り台で、貴方は筆頭仙師」
「その通りです」
「三日間しか座敷に出ないのは、貴方が仙師として夜狩りをしているから」
「理解していらっしゃるなんて、素晴らしい人ですね」
正解だとばかりに、藍曦臣の髪を撫でた。
「私を見受けしたいという殿方は、何人もいました」
嘘ではない。今まで、竜胆に魅了された客は何人もいる。
けれど、竜胆は頷くことはしなかった。
その理由は―――……。
「心に置いた方が、居るのです」
「え」
「一人で盛り上がっている所、悪いのだけれど私はあなたを想っていない。
さっさと宗主にお戻りなさい。もう夢から覚めるべきですよ」
竜胆はそう切なげに微笑んで見せてから、男の膝から降りた。
藍曦臣は、彼女の羽衣を掴んだ。
「どんな人なのか、聞いてもいい?」
「踏み込んでくるんですね」
「私は、訳が分からないまま失うのは怖いんだ」
お願いだから、教えてくれないか。と、藍曦臣は懇願した。
「あなたに、とてもよく似ていました」
竜胆は、そういって立ち上がると羽衣を残して部屋を出た。
「まって」と声を上げて追いかけようとしたが、目の前で扉を閉ざされる。
遠ざかる足音を聞いて、また拒絶されたのだと実感した。
「仕方がない」
竜胆の言う通り、藍曦臣は江澄に懸想をしているのだろう。
彼女を代用品のように扱った自分の報いだ。
藍曦臣は、大きくため息をついてから持っていた羽衣を抱きしめてその場に座り込んだ。
「藍宗主、失礼しますよー……って、うわ、何ですか。そんな所に座り込んで」
戸を開いたのは、梓観世だった。
入口の前に座り込んでいた藍曦臣を、一度立ち上がらせて座布団に座らせる。
「竜胆が飛び出してきたので、驚きました。喧嘩でもしました?」
「見受けの話をしたんですよ」
「それは、また……断られましたか」
「はい。私によく似た方を好いているのだと言われました」
苦笑にも似た笑みを浮かべると、梓観世は腕を組んだ。
梓観世は、藍曦臣が竜胆を見受けしたいんだろうなとは推測していた。
彼が、彼女と話す時はとても楽しそうだったのだ。
勿論江澄だという事に気付いていないが、江澄のようだとほめたたえて。
普通の妓女なら、そんな男は勘弁だろう。
「今夜は、竜胆の代わりにお話をしましょうか」
「ん?」
「なに、ちょっとした可愛い初恋のお話ですよ」
梓観世は、部屋の装飾品として飾ってあった二胡を取り出して膝に乗せる。
「楽器をたしなむのですね」
「私も一応姑蘇に行きましてね。藍悠瞬殿から、仕事の合間に教わったのです」
「悠瞬から」
「ええ、もう一人いらっしゃいましたけどね」
二胡は、藍曦臣の再従弟の得意な楽器だ。
「藍宗主には、お耳汚しかと思いますが」
そう言って、梓観世は二胡を奏で始める。
これは、当時よくある話と、前置きをして彼は語り始めた。
「今から、十七年ほど前の事。
家族はおろか一族も故郷も温氏に焼き払われた少女が一人おりました。
一緒に逃げたはずの義兄とは途中ではぐれ、先に逃げている姉とも合流ができません。
女で一人では、一族の仇もとることも家族を悼む事はできない。
兄も姉も見つからないと絶望し、入水をしようとしたそうです」
藍曦臣は、身に覚えのある物語に目を丸くした。
悲し気な曲調が、華やかな曲調に代わる。まるで、少女の心が華やいだように。
「そこに一人の青年が現れて少女に『死んではならない』と告げたそうです。
弔うためと当面の生活費にしろと、青白の石でできた簪と上着を与えたそうです。
少女は、その青年に恋をしましました」
ゆっくりと流れる華やかな恋の曲は、切ないモノになった。
「彼女は、その方の名前を知りません。
ですが、渡してくれたその上着と簪は特別なモノで学があれば誰でも身元は解るものでした。
少女は、彼の人活躍を聞けば喜びました。
遠目で見る事もあったそうですが、駆け寄る事はしなかった。
その人にとっては一時的な同情なのだとわかりきってましたからね」
二胡は弦を震わせるのを止まる。
じっと、梓観世が藍曦臣の顔を直視しているように感じた。
けれど何かを探しているようで、視点が定まらない。そして、いつものように顎から下を見つめた。
「やはり、顔が解らないというのはこういう時に不便ですね」
「……」
「感情を読むなら、顔を見るのが一番解りやす。けれど、私にはそれが解らない。
だから、貴方が今どんな顔をなさっているのか、どんな感情なのかは読み取れません」
諦めた時の金光瑶が浮かべた笑みを、梓観世は浮かべていた。
自分ではどうにもできない事を、諦めたそんな顔だ。
藍曦臣も同じような顔をした事があったし、きっとさっきも同じ顔をしていただろう。
「彼女は、三回ほど縁談が来ましたがすべて失敗しました。
それからはこちらで、簪と上着を心のよりどころにして生きております」
「そんな、だってあれから十七年ですよ?」
「そうですよ」
梓観世が、笑みを消した。黒曜の瞳が、藍曦臣を試す様に見つめていた。
「夢を見ていたのは、どちらだったのでしょうね」
三日間の宿代は貰っているから、期間は泊ってもかまわない。
けれど、竜胆とは会わせることはできないと、言い放った。
その後、藍曦臣は清談会まで竜胆と会うことは無かった。