Feed acolid and starve a fever「103.3°F(39.7℃)」
体温計を読上げたヴォックスは、へニャリと眉を下げ苦笑した。
目の前の薄っすら上気した頬、潤んだ青翡翠の瞳、緩く緩慢な動作、浅い呼気。久方の逢瀬に、己へ向けられた愛心だと心踊らせた結果がコレだ。
「おー。ダリぃはずだわ」
フラフラと左右に揺れながら当の本人はぽやぽやと言葉を紡ぐ。手にしたアップルジュースの入ったグラスから、パキンと氷の割れる音。
◆
夏も終わり、他国からの印象に違わぬ曇天と霧に沈むこの国は、ともすれば豪雨に見舞われる事も少なく無い季節に突入した。来月には、32°F近く迄気温の下がる日が増えるだろう。
ドアから滑り込んで来たミスタは、冷たい秋霖が辛うじて形を取って居ると云った形貌で、牡丹鼠色の頭から爪先までしょぼ濡れていた。
「濡れた〜!」
「何処ぞで雨宿りでも出来ただろうに」
「逸るキモチを抑え切れずにやって来た恋人を歓迎する優しさは無いの?」
「良いから風呂に入れ」
せんきゅぅ〜。と風呂場に向かう水跡と服を回収しながらUtilityRoomに向かう。作業台にポケットの中身を広げながら、良くスマホが無事だったなと呆れる傍らで、己の元へと急ぐ様に莞爾として笑ってしまう。
キッチンに戻ったヴォックスと、バスローブに包まれたミスタがリビングのソファに身体を投げ出すのに然程の時差は無かった。
透き通る琥珀色の液体に氷とストローを飾り付け、ロー・テーブルに配す。
「ヴォックス、機嫌イイじゃん」
「まぁ、出会い頭に可愛い科白を聞かされればそうなる」
ふーん?隣に腰掛けたヴォックスの膝に両手を揃え、猫の様に下から見上げるミスタの演技力に笑いながら、頬に手を揃え引き寄せると、案外素直に身を寄せた。
ホカホカと温かい身体からは、自分のグルーミングサプライの香りが立ち昇り、所有欲を刺激する。抵抗しないのを是として瞼、鼻先、口元に軽いキスを落とせば、はぁ。と熱い吐息が漏れる。
もう少し。薄く開いた唇から口腔に舌を伸ばし、軟らかな粘膜、舌裏の血管の脈動をなぞり熱く戦慄く反応を愉しむ。
「…熱過ぎる」
「ん…えぅ?」
◆
ミスタの口腔から深部体温の異常を感じたヴォックスが唇を離すと、ミスタは不服そうに眉間にシワを寄せて肩口に額を擦り付けた。ぎゅっと抱込みながら人のタンパク質の熱変成はどれ位だっただろうか。一度壊れてしまうと戻らない筈等と記憶を掘り起こす。
「ミスタ、熱を測ろう」
メディカルボックスの端で白く光を反射する銀色の金属を閉じ込めた硝子筒を取出し、アルコールで消毒してから、腋窩に挟む。あぁ、電子体温計も用意した方が良いな。と頭の片隅にメモしながらムズがる小動物を再度抱き抱えて愛やす。
そして冒頭に至る。
「良く来てくれた。と言うべきか」
「急に寒いとは思ってた」
会話しながらヴォックスは、手持ちのピッチャーを全部(といっても3つしかなかったが)引っ張り出して、かの島国の南端の島で作られている塩と砂糖、レモンやライムを加えた水、オレンジジュースをいそいそと用立て、バゲットやジャムと共にベッドルームへ運ぶ。
ミスタがグラスの氷をガリガリとかじり終える頃、有無を言わさずベッドに放り投げた。
「う。やだ」
頭の半分が無くなってしまったかの様にふわりと思考が奪われていて、子供の様な語彙になったミスタが訴える。
ベッドの上に、シーツと上掛けで固定されて、放置されるのは、嫌だ。
今日、目覚めた時から背骨が凍り付いた様に冷たくて、其処から肩甲骨、頸や心臓へと冷気が侵食して行く様に恐怖した。
はやく、はやく。きっとヴォックスに抱き締めて貰えば大丈夫。その一念で雨の中走ったのだ。
肉屋の冷凍庫に閉じ込められたみたいな悪寒が再び襲って来て、奥歯がカスタネットみたいに乾いた音を叩く。
寒いのは背筋だが、ぎゅっと痛む胸を守る様に身体を丸める。幼い頃からずっとそうして耐えて来た姿勢だった。
「少し詰めてくれないか?」
ヨイショ。とミスタの位置をずらし、ヴォックスが身体を横たえて、すっかり同衾の体制となる。
「WTF?!」
「Relax.I'm here.ずっとベッドで過ごすのも悪く無い」
これから頭痛や目眩が起こるかもしれないからちゃんと報告する様に。なんて言いながら額の汗を拭いて、背中に手が置かれ。ゆっくりと脊髄に暖かい何かが注がれて、網の目の様に広がりゆくのを心地良く感じながらミスタは眠りに付いた。
コトリと腕の中に落ちたミスタの背骨から頸をゆっくりと擦って緊張を解いて遣りながら、ヴォックスもまた、気を張り詰めていた。人は弱い。寄生虫・細菌・真菌・異常プリオン・ウイルス。「疫病」と呼ばれたそれ等に寄生されると、ほんの少しの条件下で直ぐ生命活動を停止する。脆い、儚いと達観するには愛着を持ち過ぎてしまった。
350BPMを超える拍動が、こめかみの血管を押し上げピリピリとした熱を伝え、僅かな容態の変化を見逃さんと息を詰める。
二人が極限の精神緩和状態となった人の免疫機構の強さを知る迄、あと数刻。
雨は、まだ止まない。