恋 恋愛感情というものはよく知っていた。
舞台の上で演じることが多かった。
だけどそれは、僕の知っている恋愛感情とは、どこか違うような気がしていた。
舞台の上で演じている時、いつもどんなことを考えてる? そう自問自答しようとしたけれど、不思議と慣れ親しんだその問いにすら、とうとう答えることができなかった。
三年の夏休みが目の前に迫っている。
去年も一昨年も、とても楽しかった。仕事の合間を縫って友人と遊びに行ったり、初めての体験をたくさんさせてもらった。あっという間だった。きっと、今年も。
そんな夏休みも、今年で最後だ。
そう思うと、どうしても感情的になってしまう。
はばたき学園での生活は、入学前に想像していたものとは随分と違っていて、まるで一生分の学校生活を送らせてもらったような気がしていた。充実、していた。〝学校生活〟がこれきりだとしても、きっと後悔はないと思った。
「この夏はなにか予定とかあるのか?」
御影先生と下校していると、ふと夏休みの話題になった。
「劇団の稽古があります。あとは、去年行ったナイトパレードや、花火大会にも行きたいです」
「おっ、いいな〜。あいつら誘って行ってこい」
「はい。御影先生もぜひ」
「俺もいていいのか?」
「もちろんです。御影先生も一緒なら、きっと、もっと楽しい。みんなもそう思っているはずです」
「そうか。……ありがとな」
嬉しそうに笑って、大きな手で僕の頭を優しく撫でる。この人以外の大人に、こうやって頭を撫でられたのはいつだろうと考える。稽古が上手くできた時。初めて主演を演じた時。あの時、どうやって両親は僕を褒めただろう。……なぜだろうか、そんなに遠い昔でもないのに、思い出せないのは。
そんな僕でも、御影先生の前では一人の学生になれたような気がした。子供になれたような気がした。
そんな御影先生とも、もう少しでお別れだ。僕は卒業するのだから。
「夜ノ介?」
三年に上がってすぐ、進路について聞かれた。同級生との話題でも、進路について話すことが増えた。
卒業を意識してから、ずっと胸に引っかかっていることがある。
これはおそらく〝恋愛感情〟だ。
だけど、僕の知っている恋愛感情とは少し違う。
互いの立場だとか、運命だとか。自分の力ではどうしようもないような、大きな波に翻弄されて、阻まれて。それでも相手を恋い慕う――。健気で慎ましい。その姿が人の胸を打つ。
……〝いい子〟でいれば、きっと、御影先生は僕に笑いかけて、こうして頭を撫でてくれる。それはきっと幸せなことで、何物にも代えがたいもので。
だけど、そんなもの、関係ないと。
そう思う自分もいる。
「御影先生」
「ん……? どうした?」
この言葉を口にしてしまったら、きっとこの居心地のいい関係は終わる。これまで積上げてきたものを壊してしまう可能性もある。それでも。
「僕は、御影先生が好きです。御影先生とずっと一緒にいたい」
壊れた先にあるものを、この目で確かめたいと。
はじめて、そう思ったんです。
〇
御影先生に想いを伝えてから、明らかに避けられている。
こうなることは予想していた。むしろ、意識していなければ気づかないほどの、本当に些細な変化だった。
(本当に、お優しい)
拒絶されて、二度と笑いかけて貰えないことだって覚悟していた。だけど御影先生はそうしなかった。戸惑う様子はあったけれど、僕の気持ちを受け取った上で、〝よく考えてみろ〟と言った。
だけど、幾度想いを巡らせても、答えは一緒だ。
この人とずっと一緒にいたいという気持ちは変わらなかった。
「御影先生」
「っ、夜ノ介……」
「どこにもいないので探しました」
僕の教室にいる御影先生は新鮮だ、と、ふと思った。とうとう三年間担任になることはなく、授業は理科室だったから、この教室で話すことはほとんどなかった。
「どうして、ここに……?」
教室にいるかもしれないとは思った。だけど、それは御影先生のクラスだと思っていた。
問いながら扉を閉めると、御影先生はハッとして僕を見た。
「……ここから、外を見ていたんだ」
そう話す御影先生の隣に並ぶと、そこからはちょうど学園の門が見えた。明日から夏休みだということもあって、帰宅していく生徒たちの足取りは軽やかだった。その楽しそうな声とは裏腹に、彼らを見つめる御影先生の表情はどこか寂しげだ。
「ほら、明日から夏休みだろ? 夏休みの学校って、静かで、案外寂しいもんなんだぜ。いつも生徒たちがいて賑やかだからかな、余計にそう思うよ」
「…………」
「ま、仕事はたんまりあるんだ。園芸部にだって毎日顔出すし……寂しいなんて言ってられないんだけどな」
「……あ……」
僕は浮かない顔をしていたらしい。御影先生が安心させるように笑いかけ、いつものように頭を撫でてくれた。
(久しぶりだ)
実際にはたったの数日だった。だけど、僕は御影先生に避けられるようになって、寂しいと思っていた。
御影先生も、今こんな気持ちなのだろうか……。
「僕も、御影先生に会えないのは寂しいです」
「お……? おう」
「夏休みも、その先も。卒業しても、御影先生と一緒にいたいです」
「……っ」
大きな手がぴくりと反応する。離れてしまう、そう思った瞬間に体が動いた。
「! 夜ノ……」
離れた手が行き場を失う。僕は御影先生を繋ぎ止めたくて、ひらりと舞うネクタイを掴む。
逃げるのが上手い人だ。きっと少しの油断も許されない。
僕のその行動が意外だったのか、御影先生は驚いた様子だった。
(ああ、恋愛感情というのは、きっとこういうものだったんだ――)
抗えないのは運命なんかじゃない。
自分自身の気持ちだ。
ネクタイを引き寄せ、唇を奪う。
一瞬だけ触れた肌はとても熱くて、じわりと肌に溶けて広がった。そしてかすかに震えたのがわかった。
やのすけ、と僕の名前を呼ぼうとしたその声が甘みを帯びて僕の鼓膜をくすぐる。そこから全身に熱が広がるようだった。初めて聞く、御影先生の声。姿。そのすべてが僕を動かしている。
もう一度触れたい、と思った。身を引く御影先生に体を寄せて、角度を変えて唇に触れる。体の底から湧き上がるような高揚感に身を委ね、さらに深く求めようとした時だった。
「……! 御影先生……」
あっという間に体を引き離されていた。両手で僕の肩を掴み、「あーー……」と唸り声のようなものを上げながら俯く御影先生を見つめる。
「……すみません」
口をついてでたのは謝罪だった。困らせてしまうだろうということは、僕にもわかっていた。それでも止められなかったのだ。
御影先生が、あんな顔をするなんて。
「いや、謝るのは俺の方だ。夜ノ介」
「はい」
「気持ちは……嬉しいんだ。だけどな、その……俺は教師で、お前は生徒で」
「はい」
「お前には未来だってある……」
「はい」
「本当に分かってんのか?」
頷くだけの僕に、御影先生が呆れたような視線を向ける。
「ええ、分かっていますよ」
彼が〝運命〟を言い訳にしようとしていることが。
それでも。
「それでも、そんなにも可愛らしい顔で言われてしまっては、本心だとは思えません」
「……っ!?」
「御影先生。僕、よく考えてみたんです」
よく考えろ、と御影先生は言った。それはきっと〝考え直せ〟という意味だった。
――あなたはきっと、僕の未来を案じているのでしょう。それでも僕は。
「僕は、あなたと共にいる未来がいい」
「……!」
「それが答えです」
揺れる瞳を真っ直ぐに見つめる。
御影先生は僕よりもずっと大人だ。きっと、いろんなものが足枷になってしまっている。その狭間で揺れているこの人を、どうにか繋ぎ止めたいと思う。
僕に触れようと迷う手が止まる。
だけど、僕の心はすでに満たされていた。
御影先生の頬が染まる。瞳は濡れていて、今は僕だけを見つめている。
そう、抗えないのだ。恋というものは。