「おかえり」
「…ただいま」
七ツ森の顔には疲れが見えた。彼はここ暫く残業続きで、土曜出勤は常。繁忙期だから仕方がないと割り切ってはいるものの、心身の消耗は激しい。今日も休日出勤を終わらせてきたところで、平日よりは早く帰れているがそれでも時刻は21時をまわっていた。
「飯?風呂?」
「ふろ、」
絞り出した声に被さるように、きゅるる、と間抜けな音がする。風真は思わず吹き出して笑った。
「身体は正直なようで」
「…でも、これから準備してくれるんデショ?待ってるのも何か急かしてるみたいじゃん…」
この頃は帰宅時間が読めず、帰るコールが出来るのは会社を出てからだ。職場まで自転車で五分程のこの環境は有難いが、食事を準備してくれている風真には申し訳ないと、常々七ツ森は思っていた。
「すぐ出来るからいいよ。座ってな」
七ツ森は促されるまま、カウンターチェアに腰掛けた。此処からだとキッチンに立つ風真の手がよく見える。炊飯器の蓋が開き、ふわ、と嗅ぎ覚えのある香りが部屋に広がった。甘いケチャップの、何処か懐かしくてほっとする匂い。
「ケチャップライス?何で炊飯器から出てくるの?」
「簡易的だけど、炊き込みご飯みたいな作り方もあるんだよ。お前、何時に帰ってくるか分かんないし直ぐに温かいもの食べられた方がいいだろ?」
ふんわりと山なりに盛られたそれを横に置いて、フライパンに火をつける。冷蔵庫から取りだしたバターを、風真は少し悩んでから、ふた欠片、落とした。こんこん、と小気味良い音を響かせた後、卵がボウルに飛び込んでいく。更に少しの牛乳と、胡椒を数振り。菜箸がくるくると回って、白と透明と橙色の渦を作る。
「とろとろ?」
「…とろとろ」
風真はくすりと笑って、卵液を温まったフライパンへ流し込んだ。軽くかき混ぜ、揺すり、直ぐに火を止める。チキンライスが盛られた平皿は美濃焼で、青い釉薬の濃淡が目立つ。風真はそこに半熟卵を滑らせた。空に浮かんだ月みたいだな、と七ツ森は思った。そして、先程まで外にいた筈なのに、今夜は月が見えたのか、満月なのか三日月なのか、そんな事も分からない事に気がついた。
「出来たぞ」
「サンキュ、いただきます」
うるさい腹に急かされ、慌てて一口。そのたった一口で、いつもより淡い味のチキンライスとか、バターの強く香る卵とか、そういったものから風真の優しさが伝わってくるようだった。満月はあっという間に半月に、三日月に、そして新月になった。
「早食いはよくないんじゃないのか?」
「…美味すぎるんだもん」
七ツ森は、空になった皿を受け取る風真をじっと見た。
「なんだよ」
「玲太、俺のお嫁さんにならない?」
風真はたまらずまた噴き出した。そして、七ツ森の何度目か分からないプロポーズに、何度目か分からないキスで答えた。