夜の帳の中、小さく虫の音が聞こえる。
(そろそろ寒くなってきたな)
虫の音をBGMにそんなことを考えながら文庫本を読んでいたところ、手元に置いていたスマホが着信音を奏でた。
――今から帰ります
その、一言だけのメッセージ。確認した風真はほんの少し口角を上げ、返信を送った。
――『わかった。夕飯は?』
そのまましばらくスマホの画面を見つめ、既読表示がつかない事に小首を傾げた瞬間、ドアの鍵が差し込まれた音がした。得心がいった風真は肩をすくめて玄関へ向かうと、時を同じくしてドアが開いて恋人である七ツ森がよろめきながら入ってきた。
「んー……ただいまぁ」
「ったく。帰るってメッセージはもっと早く送ってこないと意味ないだろ」
「だって、解放されたのがマンションの入口だったからぁ」
予想通りアルコールの匂いを纏いながら自分にしなだれ掛かる七ツ森に、風真は肩をポンポンと優しく叩きながら軽く抱きしめる。
「そっか、接待お疲れ。夕飯はどうする?」
「ちょっとだけお腹すいたかも……」
「わかった。じゃあコンタクト外してメイク落としてこい。用意しとく」
「サンキュ。カザマぁ、愛してる〜」
「はいはい」
頬に柔らかいものが押し付けられ、そして七ツ森は風真の言う通りに洗面所に歩みを進めた。残された風真は玄関にぼとぼとと散らかった七ツ森の靴やカバンを拾い上げ、宣言通り夜食を用意するためにキッチンに移動していった。
風真の命令通りに身支度を整えた七ツ森はまだふわふわとする意識を飛ばさないよう気をつけながらダイニングへと入る。そんな七ツ森に風真は笑い混じりで声をかけた。
「ナイスタイミング」
それと共に七ツ森の前に置かれたのは丼鉢に半分ほど盛られた白米にどうやら夕飯のおかずだった鮭を解したものを乗せたそれだった。風真が柔らかく淹れたての緑茶をそれに注ぎ入れると茶の爽やかなそれと鮭の香ばしい匂いが七ツ森の鼻を擽る。丼の横に小鉢に入れた漬物とチューブのワサビとを添えて、風真は七ツ森の向かいに腰掛ける。
「いただきます」
「召し上がれ」
ワサビをほんの少し丼の縁に出し、鮭と共に緑茶に混ぜ込むと黄緑色の緑茶にオレンジ色の脂が浮かび、ワサビの爽やかな匂いが立つ。木製のレンゲスプーンで一すくいして息を吹きかけて冷まし、口に運ぶとなんとも言えない温かさが体に広がった。
「あー……沁みる……」
「そりゃよかった」
「食べたら一緒に寝よーね」
「酔っ払ってる時はしないぞ」
「わかってまーす」
風真がくすりと笑うと、それに釣られてか七ツ森もくすくすと笑い出す。先程感じた部屋の寒さはもう感じない。それは緑茶の湯気のせいではないことは風真自身がよく分かっていた。