雨音「はい、では、そのように」
通話を切ってから、日が傾き始めていることに気がついた。
両手に下げた袋には、劇団で使う小道具や、生活に必要なアイテム、小物まで詰まっている。
生徒会の仕事がない日に溜め込んでいた雑用を片付けてしまおうと街へと向かった。目的の買い物を終え、あとはもう帰宅するだけだ。スマホを仕舞い、ゆっくりと歩き出した、その時だった。
「あれ」
ここ、どこだろう……。
街中で着信が鳴り、人気のない場所に移動してから応答した所までは覚えている。あの時、どう動いたのかよく覚えていない。そう遠くには来ていないと思うが、周りを見ても見覚えのない店や看板が立ち並んでいた。
はばたき市に来てからいろんな場所に足を運んだが、まだまだ知らない場所はたくさんあった。
幸いなことに、今日の予定はもうない。けれど明日も朝から団員との稽古がある。早く帰って、体を休めなければいけない。
連絡を取らなければとスマホを取り出した。
(……誰に電話をする?)
両親。団員。すぐにたくさんの人の顔が浮かぶ。僕の家にはいつだって人がいて、それが当たり前になっている。団員は皆、家族のように食卓を囲む間柄だ。幼い頃からの顔見知りも多い。若くして座長になった僕にも、皆は本当に良くしてくれている。
だけど……。
僕は通話を押すことなく、スマホをポケットに仕舞った。
(こんなことで、皆さんの手を煩わせるわけには)
知っている場所にさえ戻れれば、自力で帰ることもできるだろう。
道に迷うのは初めてではない。知らない土地ではよくある事だ。それでも、これまでだってどうにかしてきた。僕はもう立場だってある。
(ひとりでなんとかしなければ……)
僕ならできると言ってくれた。頑張れと応援してくれた。
この街で出会った、友人たちの顔が浮かぶ。クラスメイトも、生徒会の人たちも、街の人も。いつだって僕の背中を押してくれる。
皆の期待に応えたい。心からそう思った。
ビニールの袋を握り直す。
「……少し、買いすぎたかもしれません」
道に迷った時は大通りを目指すといい。または人の波をみつけ、それについていくといい。そうすることで知った場所に出られることがある。
人がいれば、道を聞くこともできる。
(あれ……)
大きな通りに出ると、辺りは影の濃い橙色に染まっていた。夕暮れの街並みには学生服やスーツに身を包んだ人々が足早に家路を急いでいる。顔は俯き、まるで急かされているように足を進める。言葉はない。いや、どういうわけか聞こえない。ザワザワとした音が耳を覆うようにまとわりついて離れない。
誰も僕を見ようとしない。
嫌な汗が流れた。
(道を、尋ねなければ)
そう思うのに、やけに喉が渇く。耳にまとわりつく音がどんどん大きくなっていく。人の声のようにも聞こえていたそれは、やがて大粒の雨が地面を叩きつける音へと変わる。
(僕は、どこに行けばいいんですか?)
大雨の中では、誰の声もかき消されてしまう。
僕の声だって……きっと……。
不思議だ。家に帰ればたくさんの人がいて、学校へ行けば友人たちがいる。ひとたび舞台に上がれば、たくさんの人が歓迎してくれる。こんなふうに孤独を感じたことなんてないはずだ。
ザーザーという水音が、僕と世界を遮断するように木霊する。
雨など降っていない。なのに、まるで冷たい雨に晒されて、芯から体が冷えていくようだ。両手を握りしめ、指先を絡ませる。ほんの少しの暖を逃がすまいとするように。
しばらくそうした後、僕はゆっくりと足を進めた。立ち止まっていても仕方がない。
夕焼けが真正面に移動している。
まぶしい。目を開けていられない。
目を瞑ると、とうとう世界は曇天に塗り替えられてしまった。薄暗くて冷たくて、重たい雲が頭上を覆う。僕も、皆も、街も、世界も、すべてを飲み込むかのように。
(だれか)
僕は無意識にかすれる声を吐き出した。その時だった。
「――――夜ノ介! ここにいたのか」
空間を切り裂くような声だった。
ハッとして顔を上げると、夕焼けを背にした御影先生が僕に向かって手を振っていた。
「あ……」
冷えきった指先から、ふっ、と力が抜けていく。
「御影先生……?」
雨音が遠くなった気がした。
――――不思議だ。まるで、上から大きなもので包み込まれているようだ。
いつものように笑顔を浮かべた先生が、両手に荷物を抱える僕の目の前に立ち、そのひとつをひょいと抱える。
彼はとても背が高い。目の前に立つと、御影先生の影にすっぽりと覆われてしまった。
「どうして、ここに……」
「さっき劇団の人に会って、お前の帰りが遅いって聞いてさ。またどっかで迷ってんじゃないかって心配してたぞ。着信、気づいてるか?」
「え、あ……っ」
言われてスマホを取り出すと、団員の数名から不在着信が届いていた。
「すみません、ご心配をおかけしました」
探しに来てくれたのだろうか。御影先生に深々と頭を下げる。
「おう。早く帰って安心させてやれ。……その前に」
「ん」
御影先生の大きな手が近づいてきたかと思うと、指先で僕の目元を拭った。僕は泣いていたのかもしれなかった。
「ここまでで大丈夫です。ありがとうございました」
送ってくれた御影先生に深々と頭を下げる。まだ心配そうな顔をしていたけれど、ここからの道は分かりますと伝えると「そうか。気をつけて帰れよ」と言って笑ってくれた。
この人のそばにいると不思議と安心できた。
そうやっていつも笑って、僕を迎え入れてくれる。
「はい。もう迷いません」
来てくれるとは思わなかった。
でも、来てくれたのがあなたでよかった。
空を見上げる。すっかり夜が広がっていた。けれどもう、雨は降りそうにない。