Nが足りなくなった三木がクラさんにNを貰って甘やかされるミキクラ、にしたい話 新横浜の夜はクラージィには些か眩しすぎる。
吸血鬼が出るからと子供を家にしまい鍵を掛け、暗く恐ろしい夜から身を守っていた200年前とは何もかもが違う。月が上りきった夜半だというのに街には様々な様相の人々が忙しなく行き交っている。
疲れた顔で先を急ぐ男の上着の皺の数。華美な装飾に身を包んだあの婦女は待ち人を探すように雑踏に何度も視線を投げながら頻りに腕時計を確認している。店の前に立つあの青年が取り落として道に広がった広告の枚数まで。視界に入る全ての情報が強烈すぎるほど次々と思考に刻まれていく感覚にはまだ慣れそうになかった。時折目眩を覚えることもあるが、目新しい光景はいつもクラージィを楽しませてくれるので嫌いではない。因みに目の前に聳えるこじんまりとした建造物の窓の中で明かりがついているのは52枚。一番下の階には婦女や女児の喜びそうな洒落た装飾の店が構えられている。ドラルクが「此処のブラッドジャムが絶品なのですよ、因みに血液の入っていないスコーンやクッキーも中々お勧めです、私の腕前ほどでは無いですが」と言っていた小さな店だ。あの窓の明かりの向こう側で夜も忙しなく人間や吸血鬼たちが混在して生活をしているのだと思うと奇妙な心地がする。良き時代だ。
要するに、今のクラージィは昔に比べて少しばかり眼がいい。目も眩むほどの雑踏の中で行き交う人々の顔も、道端の植え込みに成った蕾の数までよく見える。そのお陰もあるのだろうか、と思案する。
クラージィには情人がいる。
神に仕え、杭を握っていた200年前には想像もしなかったことだ。悪魔を祓う事に身命を捧げ散っていくと疑いもしなかった身には全てが初めての事だった。高速で動く鉄の車も、吸血鬼と人間が共存する街も、食事を共にし笑い合うことができる友人がいる事も。ーー更にはその友人から密かに懸想され、紆余曲折の末に共通の隣人に背中を押されるどころか突き落とされ、自分がそれを喜んで受け入れるなどとは、想像もしなかった。人生とは、いや吸血鬼生というべきかもしれないが、つくづく何が起こるか分からないものである。
それも、彼は、かわいい。かわいいと言うと本人からは変な顔をされ、もう一人の友人からは暖かい微笑みを貰ったが、これだけは譲れない。クラージィの知らない事を何でも親身に教えてくれ、何でも驚くべき技量と知識で器用にこなし、時折「悪いことしちゃいましょうか」と悪戯を考えついた子供のように笑って食事の前に菓子や氷菓を食べて怠惰にする楽しさを教えるような男は、「その評価はちょっと複雑ですね…」ときまりの悪そうな顔をした。吉田が微笑ましいものを見る目をしていた。
話は戻るが。
この街で彼を見ない場所はない。それほどに彼は多くの場所に身を置いている。けれど決して事務所を構える彼の美しい青年退治人のように目立つことはない。クラージィは彼のそのような生き方をとても勤勉で優しい男だとも思っている。
とはいえ、彼自身は当然、一人しかいない。彼が200年前にいた教区に住まう人々よりも遥かに多い人数が棲む街では人混みに紛れる彼を見つける事はそうない、筈である。
そのはずなのだが、行き交う人の波の中で、短い黒髪を七三分けにした、すらりと手足の長い体躯は、クラージィにはよく目に付く。情人ということを抜きにしても同じマンションなので顔を合わせるのは必然なのだが、街中にいてもこんなにもあらゆる場所で彼の姿を目にするとはと、最初の頃は感嘆したものである。
先週は三度。クラージィが勤務する店の窓の外を行き交う姿を見たのが一度。退治人姿で何やら端末越しに忙しそうに会話をしながら早足で行きすぎていた。二度目は先日できたばかりだと謳っていた真新しい店のオープニングスタッフに駆り出されている姿を遠目で見た。それから、買い出しの際に黒い退治人服姿で険しい形相で何かを追い掛ける姿を見たのが三度。彼は口元を押さえていて、更にはヨセフの高笑いを遠くで聴いた気がするので何が起こったのかは何となく察された。あまりに必死の様子だったので加勢すべきかとも迷ったが、仮にも勤務中であったのと、その後VRCの搬送車が凄い速度で横を通り過ぎて行ったのでクラージィが関わることはやめた。ヨセフも多少落ち着いてくれたらいいのだがとは思った。
更にその前にはクラージィ達の居住するマンションで、隣人の吉田の部屋の前でピザの宅配をしている姿を見た。吉田の部屋ということはすぐ隣は彼の自室であるはずだが、此処も配達圏内なのだろうか。つくづく勤勉だ、と感心した事を思い出す。
そして今。何やら困っている様子だった臥れた顔の男と、その話に耳を傾けていた私との間にやんわりと割って入った細身の長身の姿を見た。瞬きをする。
「あー、すみません、この人、俺達の連れなので、他の方にしてもらえますか」
困っているので話を聞いてほしいと私に懇願していた茶髪の男は、罰の悪そうな顔をして言葉を濁し、早々に踵を返していった。不幸がどうの、浄水器がどうのと言っていたが大丈夫だったのだろうか。私でよければ話を聞こうと答えると嬉しそうに破顔してそれではあちらで話でも、と言っていたが。もうクラージィの助けは不要ということなのかもしれない。
近くなので久方ぶりに彼の顔がよく見える。
黒いワイシャツの袖を幾らか折っているのは、夏も終わりかけなのに連日蒸しますね、とぼやいていたせいだろう。三木が目を細めて「ああいうのはスッパリ断ったほうがいいですよ、まあクラさんらしいですが」と苦笑し、それからお久しぶりですと付け足した。その後ろで、お疲れ様です、と吉田が顔を出して笑っている。私はきっちりと頭を下げてオツカレサマデス、と漸く噛まずに言えるようになった挨拶をして微笑んだ。
*
「このお酒、美味しいですねえ。チョコレートにもよく合います」
「チョコレート、美味シイ。コレ、私、好キデス」
「流石三木さんチョイスですよね。美味しいお店もよく知ってますし。これ予約数ヶ月待ちは当たり前で相当並ばないと買えないって部下がぼやいてた気がするんだけどなァ…」
「ヤッパリ三木サン、凄イデス!チョコレートモ美味シイ」
「うんそうですねえ。あー、本人も聞いてれば良かったんですけどねぇ」
ねえ?と吉田が優しい目で同意を求めてきたので、ソウデスネ!と私も笑う。ドライフルーツとナッツの乗ったチョコレートは美味だ。保存食としても良い干した果実は、嘗ては稀に退治任務の先で僅かばかりの礼として差し出された事もある。貴重な甘味を、少しずつ食み恵みに感謝したことを思い出す。が、やはり昔に比べれば味も見た目も違う。初めて口にした時は目を見張るほど美味しく、これほど美味なものだったかと目を丸くしたのを覚えられていたのだろう。
グラスを手にしたまま動かなくなって久しい黒い頭髪の旋毛を見る。
チョコレートを持参した当の三木は、卓の上に臥すようにして珍しく静かな寝息を立てていた。静かな、というよりもほとんど無音に近く、吉田が何度か「だ、大丈夫?生きてます?」と心配そうにしていたりもしたが。何度目かの確認を経て漸く安心して見守ることを決めたようだ。クラージィはチョコレートを齧って舌鼓を打った。やはり美味しい。
「こんなに酔い潰れるのも珍しいですよね。クラさん今ほっぺたとかにチューしても起きないんじゃないですか?」
「ム、合意ナイ。ムリヤリ、駄目デス」
「えー、喜ぶと思いますけどねえ」
キャッ、と酒を手にしたままの吉田が頬を染めて女人のように笑う。そういうものなのか。吉田が言うのならそうなのかもしれないと思った。クラージィには恋人同士の振る舞いというものがまだよく分からない。堅物だ、面白みがない、などと200年前に言われたことがある自分の考えなど当てにならないものだ。
「ムゥ……ジャア、起キテル時、聞イテシマス。チャント」
「ワァ、カッコイイ」
ぅう、うーん、と三木が微かに声を漏らしたので、吉田と顔を見合わせた。起きた気配は無い。しー、ですね、と吉田が苦笑する。私は神妙な顔で頷いて、数枚目のチョコレートをすっかり咀嚼してから、三木の青白い寝顔を見た。
三木は勤勉だ。どんな仕事も呼吸するようにこなす姿は純粋に尊敬に値する。おそらく、身に染み付いているのだろう。だから、どこで見る三木もごくいつも通りに振る舞っているように、見えた。だかやはり、小さな違和感が落ちる。クラージィが難しい顔をしていたからか、吉田がこれも食べます?とカットフルーツの皿をこちらへ寄せてきた。
「やっぱり、ちょっと違いますよねえ、三木さん」
カットされたオレンジを手に取ったクラージィに吉田が言った。ぱ、と顔を上げると吉田が眼鏡の奥で苦笑していた。あー、眉間に皺寄ってますね、夢の中で聞いてるかもしれませんね、と三木の薄く隈のできた寝顔を指してほにゃと笑った。
違和感をうまく言葉にできそうになく、私は牙を持て余して口の中をもごもごとした。ここ暫くの三木の目が、嘗て神に救いを求めて告解に訪れた人々の目の昏さによく似ていた、などと。どのように口にすればいいのかクラージィには分からない。吉田が、しー、と本日二度目のジェスチャーをしてから、実はですね、と静かに言った。
「クラさんが来る前も、すごく偶にですけど、あったんですよ。本人は至っていつも通りなんですけどね?ただ珍しくいつも見ないくらい酔い潰れて帰ってきてたり、あとはなんでかボールペン売り場でじっと立ち尽くしてるのを見たり。ちょっとただならない様子だったから心配だったので、そういう時には三木さんのところにいつもより多めに宅配をお願いしてみたりしてたんですけど」
働きすぎが原因ならちょっとよくない方法なのかもしれないですけど、心配でねえ。僕のところならちょっと気も手も抜いてくれるかもしれませんしね。そう言って吉田は空のグラスの中で氷をカラカラとちいさく揺する。
「でも、今回はクラさんがいてくれるので安心ですね」
「ワタシガ」
「はい」
よかったですねぇ三木さん、と吉田が三木の青白い寝顔を見て優しく言った。