嘘ミキクラ 身を隠すようにして廃ビルの階段を上がる。
埃を被った廊下の隅で小さく痩せた野良猫が軽い足音で通り過ぎていった。暗がりからなぁう、わぁん、と成猫らしい声がする。親猫と合流したのか。歩を進めると別の野良猫が通路の隅で毛を膨らませて威嚇していた。少し来ていなかったうちにすっかり野良猫の住処になってしまっているようだ。確かに不法侵入は此方の方に違いないので、伝わらないとは分かっていつつも「すみません、お邪魔しますね」と小声で会釈した。猫はそんな事は知らずに走って行った。そんなものだろう。目的の部屋の前に着くと安全靴が床の硝子を踏んでざらついた音を立てる。とっくに来訪は知られているだろうが、ノックを三回。お邪魔します。錆びた鉄扉を開けると耳障りな音がした。油を注して整備したいが三木が勝手にやればまた少し怒った顔をして、それから恐縮するんだろうな。困り顔で辿々しく言葉を探しながら怒る姿が目に浮かぶ。嫌われるのは本意ではないのでやるならバレないようにしないとな。
三木の心中など知らない廃墟の仮宿人はやはり起きて待っていて、少し眠そうな顔で微笑んだ。
「オハ…ヨウ?オハヨウ、ゴザイマス、三木サン」
「こんばんは、おはようございます。お邪魔しますね」
廃墟の襤褸のカーテンを背景に立つ吸血鬼に、微笑んで軋む鉄扉を閉めた。
持参したのはスーパーのビニール袋。中身は惣菜ではなく手作りの料理が入った特大のタッパーが詰まっている。打ち捨てられていたテーブルを適当に起こして拭いた上にタッパーと使い捨ての紙皿を並べると、簡単な食卓の完成だ。目の前にはそれを有り難そうに食べ進める吸血鬼。
「オイシイデス。コノ…オ肉…オ肉……?Paste……?」
「それは餃子ですね。そのデカイやつは前に話したお隣さん…吉田さんの自信作だそうですよ。その隣の小ぶりのやつは俺作です。変わり種もあれば良いかと思ったので中身はウインナーチーズとカレーもあります」
「ギョウザ…コレモ…!?薔薇!薔薇ノ形デス…!?」
「ハハッ、意外と簡単ですよ。中華屋で働いてた事もあるんで。俺はやっぱり吉田さんの巨大餃子の方が迫力あって好きですけどね」
廃墟に電子レンジなんてものは無い。保温シートで包んで三木のできる限りの速度で急いだとはいえ多少冷めてしまったそれを、目の前で切り分けた時の彼の嬉しそうな顔と言ったらなかった。吉田さんが見ていたら大喜びでおかわりを作りそうだ。
クラさんのためにニンニク抜きのタネにしたので大丈夫ですよ、だとか、吉田が『僕も噂のクラさんに会ってみたいですねえ』と羨ましそうにしていたことを話しながら、三木は空いたタッパーを手早くテーブルの隅に片付けて皿に新たな餃子を盛る。ア!私ヤリマス!ハハッ残念、もうやっちゃいました。人の気配のしないコンクリートの墓場のような街の片隅で飛ばす軽口ではないような気がした。ひどく穏やかな空気が心地良い。暫くシビアな任務が続いたせいか蓄積した鉛のような疲労が溶けていく気がする。三木はタッパーと一緒に運んできた酒の缶を傾ける振りをして、「ウーッ、次、私ガ三木サンノオ皿ニ入レル、シマス…!」と意気込みながら食べる手を止めない吸血鬼を見た。
三木が箸で一切れを口に運ぶ間に、向かいの吸血鬼は三木が持参した木製のフォークで一際大きな餃子の欠片を一口で頬張ってしまっている。大きな口を開ける姿も下品には見えないのは、厳かな雰囲気さえ感じる彼の立ち居振る舞いのせいか。オイシイデス、と三木が教えた拙い日本語を唱えて目を輝かせる表情は厳かと言うよりむしろ小さな子供のそれに見えるけれど。
綺麗な所作とは裏腹に信じられないような量の餃子を平らげていく吸血鬼の嬉しそうな顔がやけにちかちかと眩しく見えて、三木は目を細めた。先週修繕した蛍光灯が不調だっただろうか。このビルはめっきり使われなくなって配線設備もイカれていたので三木が整備交換した。電気系統には問題無かった筈なんですけどね。視線を戻すと吸血鬼は三木の手製の餃子に幸せそうに舌鼓を打っていた。やはり酷く眩しく感じた。奇妙な事もあるものだと思う。
それにしても、と。
別人みたいだな。三木はつくづく思いながら餃子を咀嚼する。
…あの満月の夜に見た姿とは。
*
その日は、廃墟になって久しい街の中を進んでいた。
三木カナエは退治人の中では至って平凡だ。巷のレッドバレットやその弟君に比べれば秀でた才も無ければ単身で吸血鬼共を圧倒し士気を高めるような華も無い。だから、できることと言えば顔の広さを利用した情報収集と地道な退治、あとはそのサポートくらいのものだ。
老朽化して鉄骨が剥き出しになったビル壁に隠れるようにして、端末を確認する。吸血鬼の能力の痕跡があったと報告があったのはこの辺りだ。この区域の住民は数年前の吸血鬼との大規模交戦を機にすっかりシェルターに避難してしまった。もう誰一人住人はおらず、専ら犬猫や下等吸血鬼の住処になっている。うらぶれた廃墟街だが、まだ吸血鬼対策課が管轄している区域内だ。高等吸血鬼の根城にされることを警戒して、ある程度の能力以上の吸血鬼の反応や能力の痕跡があればこうして退治人が駆り出される。
三木への今回の依頼は偵察だった。まだ被害も報告されていない、小規模な痕跡ーーー不自然に氷漬けになった草花や僅かな交戦の跡の、大元を探る事。
とはいえ偵察とは口ばかりで、可能なら討伐して来いーーーというのは暗黙の了解である。吸血鬼との対立が深まるばかりの昨今、退治人使いが荒いと文句の一つも言いたいところだが、三木としては金さえ貰えればそれでよかった。ギルドもまた三木のそういう気質を理解しているからこんな依頼を出すのだろうが。
痕跡からして氷の能力だが、決めつけるにはまだ早い。氷系統の能力といえば吹雪の吸血鬼を思い出させる。つくづく嫌な能力だ。吹雪の吸血鬼と言えば古き血の中でもトップクラスの危険度になる。仮にあの厄介な血族繋がりの案件だとしたらSランク相当の退治人が動員されるレベルの危険なネタではあるのだが、上位ランクの退治人は他の危険度の高い区域の警戒に当たっているせいで人手が足りないらしい。まあ人手なんて年中足りていないようなものだから今更だが。
都市から外れた場所にある無人区域の偵察なら、確かに三木程度が無難だろう。時折廃墟に住み着いた野犬や動物が彷徨く気配を感じ取るたびに、懐の手鏡を取り出して確認した。鳥獣に変化している可能性もある。油断は出来ない。
建物があれば中に生き物の痕跡が残っていないか調べつつ、慎重に次のブロックへ移る。外への警戒も忘れない。
そうして数軒目。民家らしい小さな家屋を調べ終わったところで、三木は外に出ようとしていた足を止めた。
ーーーいる。
獣の類じゃない。それは闇に溶けるような黒衣を着て二足で立っている。明らかに人型、しかもこの距離でもそうと分かる程度にはそれなりに長身の男だ。音を立てないように鏡に姿を映す。
予想の通り、男の姿は鏡に映らなかった。
吐き出しかけた息を飲み込んで、慎重に鏡を仕舞う。
俺で勝てるか?まあ無理でもどうにかやるが。死んでも後に情報さえ残せれば良い。死んだ後の資金は弟と祖母に全て渡るようにしてある。一突きで心臓を狙えれば御の字だけどな。そううまくいけばいいが。三木は銀の短刀を胸の前に構えて死角から飛び出した。いけるか。そう思ったが、本能的に脚を止めていた。
三木の首に、鋭利な物が突きつけられている。
退治人服の襟に隠れた急所を、ぞっとするような冷気が舐めた。ああこれ直撃してたらヤバかったミキね、と他人事のように思った。
氷の杭だ。
反射的に得物を抜いたのだろう、吸血鬼は振り返ったまま氷の杭を三木の胸にあと数寸というところで突きつけたところで止まっている。吸血鬼特有の赤い瞳が驚きに見開かれていた。獲物を目の前にした吸血鬼にしては幼い表情だ。これが演技だとしたら随分人間じみた吸血鬼か、余程人間を欺く事に長けているかどちらかだろう。そうやって油断した退治人から死んでいったのを幾らでも見聞きした。念には念を入れたほうが良さそうだ。
三木は一飛びで後退し、懐から聖水の小瓶を頭上へ投げた。中空に投げ出された今となっては三木の耳には届かないが、赤い硝子製の小さなそれはチチチチチ、と微かな電子音を立てていたに違いない。ギルド所属の退治人兼発明家・メドキの手で最近開発された対敵性吸血鬼用の仕掛けが施された聖水瓶は、正確にその仕掛けを起動してーーー空中で破裂した。ざあ、と硝子の破片と同時に聖水が天気雨のように降り広がった。吸血鬼が「■■■ッ、」息を呑む音がする。咄嗟に倒壊した瓦礫の影に隠れたらしい。そう簡単に行くとは思っていなかったが不意打ちも通じないとなると少し嫌になりそうだ。
「これは、ッ、偵察代だけじゃ、割に合わないミキねぇ、ーーと…っ…!」
聖水の雨が完全に止む前に、長刀を抜いて吸血鬼の懐へ突っ込んだ。これは跳びずさって避けられたが、蝙蝠になったり空を飛ぶ様子はない。好都合だ。「■■■■■、」吸血鬼が何事かを三木に向かって訴えているような気がしたが此方としてはそれどころじゃない。三木も日本人にしては上背があるほうだが、その三木とさして変わらないように見える。その体躯が、まるで訓練を積んだ退治人のような身のこなしをするのだから勘弁してほしい。その上氷の能力持ち。とんだ外れクジだと笑い出しそうになる。大物と正面からぶつかってどうにかできる自信はないが、腕一本切り落とすくらいはしておけるだろうか。もう一度飛び出そうとして、凍りつきそうなほどの猛風がぶつかってきて三木は蹈鞴を踏んだ。やばいなこれは。耳くらいは持っていかれるかもしれないと覚悟したが、突風と共に吹き荒れた恐ろしい大きさの雹はどれも三木の耳やら頬やらのすぐ側を掠めて行くだけで直撃はしなかった。偶然か、遊ばれているだけか。転がっていた瓦礫を力任せに蹴り撥ね上げる。暴風が一瞬遮られた隙に、三木は手近な廃墟の中に転がるようにして身を隠した。大きな会社か何かが入っていたビルなのか、幸いな事に前面に張られていたらしい硝子戸はすっかり割れていたお陰で覚悟していたような怪我は無い。さてどう切り抜けたもんかね、と顔を上げた先で。
散乱した硝子やら聖水やら雹やらが月の光を反射する中に立ち尽くした吸血鬼は、両手を上げて、それから手の中の氷の杭を霧散させた。満月のおかげか、暗闇でもその吸血鬼の顔が三木からもはっきりと見えた。
両眉を下げてーーー三木が拍子抜けをするほど困り果てた顔をして。死の宣告をする訳でも、人間への怨嗟を吐く訳でも無く、まるで友人に語り掛けるような声色で吸血鬼の口から出たのは、先程から繰り返し聞いた音の羅列だった。
「■■■■■、」
その時になって初めて、仕事の一環で数ヶ国語のビジネス用語を頭に叩き込んでいた三木は、その吸血鬼の言語がラテン系のーーーロマンス言語の部類であることと、仕事用の端末の中にある翻訳アプリの存在に、漸く思い至ったのだ。
*
薄汚れて瓦礫の転がる部屋の中には野良猫達が我が物顔で寛いでいる。餃子をすっかり平げきった目の前の吸血鬼は廃墟を一週間ほど毎に転々としているーーー因みに全て三木の紹介した、人間にも吸血鬼にも見つかりにくい立地にある廃墟だーーーのだが、何故か行く先々で先住の野良猫達に好かれるらしい。三木が手土産に持ってきた猫缶に食い付いている野良猫達の背を控えめに撫でている姿は危険な吸血鬼には到底見えなかった。
『私は君を害する気は無い。』
そう弾き出した翻訳アプリの画面と吸血鬼の顔とを見比べ、それが本心だと結論付けるまでに、思いのほか時間は掛からなかった。
何でも吸血鬼は元は悪魔祓いを生業としていた聖職者で、死の淵で『吹雪の悪魔』に吸血鬼にされ、眠りにつき、目覚めた時には既に見知らぬ地に一人で居たのだという。その言葉を全て信じるべきかどうかを判断する為だと自分に言い聞かせ、三木は独断でギルドへの報告を取り辞めた。人の好さそうな吸血鬼の本質を見極める事にしたのだ。
思い返すほどに吸血鬼の先程までの攻撃が全て三木を傷付ける気がなかった事に合点がいったが、いや、油断させて背後から喰らい付いて一滴も残さず飲み干して人間を嘲笑するのが吸血鬼だ。能力を向けてしまってすまなかったとアプリを介して三木の負傷をひどく心配していた姿に絆された訳では無い。きっと無い、筈だ。
そうして吸血鬼ーーークラージィと名乗った、いかにも聖職者らしい名前の男は、三木の放ってしまった聖水の火傷を治療しながら、廃墟を転々としつつ身を隠すに至ったのだ。
因縁ある吹雪の悪魔を今度こそ討ち滅ぼす為に捜して此処まで来たのだと、ある時クラージィはアプリ越しにそう打ち明けた。
その道中で人間を害する吸血鬼を阻む為に交戦したり、生物の匂いを嗅ぎつけてきた野犬達を追い払ったりする為に已むなく慣れない氷雪の能力を使った事もあったと語られ、三木は嘗て報告のあった能力の痕跡の理由を知ったのだった。
日常会話が全て翻訳機頼みでは不便だろうと、三木が弟の使い古しの幼児向け教本を持参して日本語を教え始めたのもこの時期だ。それを機に三木達は少しずつ様々な事を語らうようになった。この頃には、三木がクラージィに適当な人間の食料を持ち込むのがすっかり当たり前になっていた。初期にクラージィの治癒の遅さを心配した三木が持参した豚や牛の血液を見た彼の、ますます青褪めた顔は未だに脳裏にこびり付いている。血を飲む気は無いのだと申し訳なさそうに吐露した彼に、じゃあ俺飯持ってきますね、ついでに俺も此処で偶に食べてもいいですか、と口を開いてしまったのも世話焼きの性分として仕方がないことだろう。それからはあっという間の事だった。
三木の住むアパートの気のいい隣人に、偶然大量の買い込みで膨らんだビニール袋を見られた事も。
珍しいですねと目を丸くした隣人に話の流れで久し振りに料理を作ること、友人に差し入れをすることを隠すべき箇所は隠して話した事も。
「あ、僕も最近よく料理を作り過ぎちゃって困ってたんですよ。僕もそのお料理一緒に作ってもいいですか?アッ勿論そのお友達と三木さんさえ良ければ、ですけど…!」という提案に、一度だけだと頷いた事も。
挙句クラージィが隣人…吉田作の巨大料理をいたく気に入り、じゃあ今回だけ、というのがずるずると続いて、今では吉田も趣味の巨大料理を毎回喜んで食べてくれる姿も知らない友人『クラさん』の感想を楽しみにしている事も、全て今思い返せば必然の流れだったのだろうと苦笑したくなる。
三木は窓ガラスもなく襤褸のカーテンが引っ掛かっているだけの傷んだ窓に目をやり、すっかり月の翳った空をぼんやりと眺めた。
外は吸血鬼を駆逐しようと目を血走らせた退治人達と、人間を一人残らず殺して家畜にしようと牙を研ぐ吸血鬼達が跋扈している。三木もまた吸血鬼を敵とする退治人の一人だった。それが今や血液を飲まない変わり者の吸血鬼に手料理をせっせと運んでいるのだから分からないものだ。すぐ近くを薄茶の猫が通り過ぎて行ったので三木も屈んで手を伸ばしてみたが、さっと逃げられてしまって後には伸ばしかけた手だけが残った。動物の扱いにはそこそこ自信があるのだが、ここの猫は皆クラージィに驚くほど懐いているので仕方がない。
ーーー正直なところ。
猫を撫でるクラージィの、ほぼ治りかけた腕の火傷跡を見ながら、残った酒を煽る。
あの頃の三木は、自分の命なんてどうなろうと構わないと思っていたのだ。例え、いっそ死んでしまったとしても、だ。
祖母と弟は気掛かりだったが、金の蓄えは十分にある。
退治の仕事は好きだ。食い扶持も稼げるし、肉親の仇や自分達を脅かしていた吸血鬼を討伐した時の依頼人達の安堵の表情を見たり感謝の言葉を聴いている時だけは不思議と安心していられた。
弟のノゾミは立派に家庭を持ち、この混沌とした世界でも細々と食い扶持を見つけ生き抜いている。親友の神在月も最近は取材だなんだと危険区域に出て行こうとしているらしく危なっかしいところもあるが、作品が軌道に乗ってきているらしい。三木は恐ろしかった。逃げるように退治や依頼を詰めるだけ詰めた。間違って死んでしまってもまあいいかと思っていた。
…過去形だ。
それが今はどうだ。目の前の吸血鬼を通報しないばかりか生き延びるための食糧を提供しているなんて、目撃でもされれば三木は退治人資格を剥奪され下手すれば協力者疑いで尋問されてもおかしくない。祖母と弟にまで疑いが向けば目も当てられない事は理解している。理解しているが、クラージィの助けになりたい、彼に必要とされているのが心地いいと思っている自分がいる。不思議なほどの心地よさと幸福感。三木は温くなった酒を干し、今日もまた違和感を飲み込んだ。火傷が完治すればクラージィはこの地区からも離れまた一人吹雪の吸血鬼を捜しに発つのかもしれない。三木の刺さるような視線を感じたのか、クラージィが猫を撫でる手を止めて此方を見た。何故か息が詰まった。
「三木サン」
「…はい?」
「アリガトウゴザイマス。私、コノ国、何モ分カラナカッタ。ノースディンヲ探ス前二退治サレル、シテタカモ、シレマセン。ーーー三木サン会エテ、ヨカッタデス」
何が。
何が起こったのか。奇妙な声を上げなかっただけ奇跡だ。魅了か?クラさんに限ってそれはないだろうが。凄い衝撃だった。何だ今のは。
三木はくらくらする頭を抱え、止まっていた息を吸った。息を止めていた事を初めて自覚した。アルコールが回ったのか。そんな筈は無いが、血液が一斉に頭に上ってきている気がする。
「…三木サン?」
クラージィの声色に心配が混じった。三木は片手で顔を押さえた。発火しそうだ。
顔が熱い。なんなんだ。分かってしまった。いや、まさか。
ーーーまさか、俺は、クラさんに惚れてるのか。
クラさんが首を傾げて心配そうな顔をしている。かわいい。重症だ。
これはもう吹雪の悪魔の捜査協力だろうが何だってやってやるしかないじゃないか。耳まで熱いのを自覚して、三木はいよいよ頭を抱えた。クラさんが、ドウシマシタカ、猫撫デマスカ、と気遣う声が上から降ってくる。顔を上げられる気がしない。少しだけ待ってください今こっち来ないでくださいお願いします、と乞いたい気持ちを飲み込んで、「すみません少し酔っただけなので、大丈夫ですよ」と辛うじて片手だけを挙げてみせた。それだけで相当体力と精神力を消耗した。吹雪の悪魔の足取りの捜索からギルドへの身の振り方まで考えるべき事は山積みだが、今はとにかく平静を装って顔を上げるまでの方法を考えなければいけない。
固まってしまった三木の足元で、先程の薄茶の猫が頑張れ、と言わんばかりにすり、と脚に擦り寄った。