全ての貴方が祝福されますように。教会の鐘が鳴る。
カソック姿で振り向く。一瞬黒杭時代の自分を幻視する。懐かしい故郷の土の匂い。手の中には杭がある。
ーーーすぐに我に帰る。
ここはビルの屋上である。200年前のルーマニアでは、ない。握っていた拳を開いた。足元ではクラージィが引き千切ってやった下等吸血鬼の腕部が灰になってあっという間に強風に攫われていくところだった。吸血鬼の聴覚が地上の喧騒を捉え、屋上の端へ寄ってみる。眼下には吸血鬼対策課の制服を着た男女が何人も集まって来ているのが見えた。下等吸血鬼に囚われていた成人や子供たちは皆一様に屋上に倒れ伏している。じきに発見されるだろう。
クラージィが街を歩いていたところで路地の奥から子供の母親を呼ぶ悲痛な声が聴こえたのだ。目をやると母親が縋り付く幼児の手を振り払いふらふらと人形のような足取りで異形の手を取ろうとしている所だった。クラージィの背丈の数倍はあろうかというその吸血鬼は襤褸を纏って人間のような背格好に見えたが、覗く顔と母親に伸ばす手は人間のものではなかった。クラージィが駆け寄ろうとすると吸血鬼は母親の身体に前腕を巻き付けてビルの壁伝いに上方へ飛び上がろうとした。おそらくそれが『狩り』の方法だったのだろう。咄嗟に軟体生物じみた脚部のうちの1本を掴み、そのままクラージィもビルの屋上へ引き摺り上げられたのだった。
あの子供が通報をしてくれたのだろう。昏倒したままの下等吸血鬼の本体はそのままにしてよさそうだった。問題は、彼等が此処に辿り着く前にどう退散するかだ。吸血鬼が吸血鬼を退治したとなると多少面倒な事になるんですよ、というのは退治人も兼業している友人の談だ。場合によっては見つかる前に退散しちゃった方がいいかもですね。彼は博識なので現代文化に疎いクラージィはいつも舌を巻く。
…さて、とはいえ此処から見つからずに降りるのは骨が折れそうだ。
クラージィは飛行がまだ上手くはない。この高さから直接地面に落下するのは無理ではないが無傷とはいかないだろう。このような夜半ではビルの内部も施錠されているだろうが、どうにかなるだろうか。眠り込んだ被害者達に爪先がぶつからぬようにしながら踵を返そうとしたところで、
「ハロー」
ご真祖様がいた。
視線を戻した先に立っていた長身の影に驚きで数センチ浮き上がった心地がした。ご真祖様が表情を動かさないままフランクに片手を挙げている。その後ろでノースディンが腕組みしてクラージィを見ていた。
「…棲家にいないと思ったらこんな場所にいたとは。わざわざご真祖様がお前を迎えるのに一緒に赴いてくださったんだぞ。また面倒ごとに首を突っ込んでいたのか」
「今日おヒマ、…なのはノースディンから聞いてる」
闇夜の如きマントが翻り、気付けばクラージィはノースディンとまとめて真祖に抱えられ空を豪速で飛んでいた。
数秒後に到着したのはヴリンスホテル。たくさんのプレゼントと、いつかノースディンに紹介された何十人かの一族の吸血鬼たち。まさか忘れていたのか、とノースディンが呆れた顔をした。
「言っておくが、控え目にしたほうだぞ。他の連中も来たがったが、お前が恐縮するからと以前面通しをした者達だけにした。来年は覚悟しておいた方がいい」
「まだ合ってないみんなの末っ子を祝いたい!ってブーイングの嵐をノースが凄い剣幕で説得していたもんねえ」
「ドラウス…………!!!!!!」「あっ秘密だった?ごめんあんまり頑張ってたから教えてあげた方がいいと思っt」
宴は賑やかだった。
その後、クラージィは夜明けよりも数時間早くノースディンの居城へ連れ帰られた。腹が減っただろう、と人間の料理を並べられる。宴で出たものでクラージィが口をつけられたのは酒と果物のジャムくらいだった。お前も食べないか、と聞くと苦い顔をされた。出されたホールケーキは猫のマジパンが乗っていた。
『来週の食事会はもっとデカいケーキ作りましょうね』
『おめでとうございます』
とチョコプレートには書かれていた。前者はチョコペンとは思えぬほど精緻に、後者は所々ふにゃふにゃと曲がりながら丁寧に描かれていた。これを渡せとしつこく頼まれた、とぼやくノースディンの声色は意外にも穏やかだった。
室内には紅茶を注ぎケーキを取り分ける音と、暖炉の火が弾ける音、ノースディンの古書を捲る音だけがあった。
沈黙が落ちる。
にゃぁ、と口を開いたのはノースディンの使い魔だ。クラージィにも最近漸く彼女の言葉がなんとなく分かるようになってきた。《今日はどうだった?》
「そうだな、正直、驚いた」
「そうだろうな」返事をしたのはノースディンだった。声色に笑いが多分に含まれている。「お前のことだ、自分の誕生日など気にも留めないだろうとは思っていたがーーー」
「違うぞ?」
「は?」
「覚えていたさ。お前が私に与えてくれた大切な日だ。覚えているとも。
驚いたのは、まさか祝ってもらえるとは思っていなかったからだ」
誰かの誕生日を祝った覚えはある。孤児院の愛すべき血の繋がらない弟妹たち。教区で産まれた赤子。思い返せば数えきれないほどだ。ーーー自分が祝われたことは無い。誕生日など知る筈もなく、必要性も無かった。菓子を用意される事も、大きくなったと撫でられる事もない。祝福されたこともない。私は守るべきものを守るためだけに生きていられれば良かった筈だった。
クラージィのためだけに用意された宴はーー祝福は、初めてだった。
あまりにも温かかかったのだ。
あまりにも穏やかな心地だったのだ。
目を伏せる。クラージィがまだ弱く幼かった頃。院の子供達皆が懐いていた慰問のシスターがいた。夢想の中の幼い彼は彼女に抱き締められ、頭を撫でられている。よく頑張りましたね。貴方は此処にいていいのですよ。彼女は耳障りのいい声で子守唄を歌う。暖炉の前を、彼女の膝下を歳下の子供達に譲り、弟妹達が抱擁され物語を読んでもらっているのを眺めるだけの幼い彼はそこにはいなかったが。
ーーーそんな仮初のものよりも。現実はずっと温かい。
ノースディンがカウチから立ち上がる気配がしてクラージィは顔を上げた。微笑んでいたクラージィは、ノースディンに胸元のタイを引かれるままに立ち上がらせられ、静かに目を剥いた。何か怒らせるようなことをしただろうか。真剣なノースディンの視線に怒気の色は見付けられなかった。
「…タイが曲がっているぞ」
「……なんだ、そんなことか。それならもっと穏便に教えてくれればいいものを」
「それだけの筈があるか馬鹿者め」
手を取られて、指に牙を立てられた。痛みで反射的に手を引きかける。掴まれた手に引き戻された。「…ふん。普段はこんな野蛮なことはしないが」
ノースディンが口元に残った血を舐め、それから背を屈めてクラージィの手の甲に口付けた。あまりにも手慣れた所作で、まるでこの男のためだけに存在する行為ではないのだろうかと思った。指の咬み傷はもう塞がりつつある。
「今のはお前への意趣返しだ。まずひとつ、私や一族の皆はそのように軽薄ではない。それからもうひつとはーーー、私の愛し子であるお前を、他でもないお前が低く扱う事は赦さん」
ノースディンの赫い目が此方を見ている。
暫くはどちらも口を開かぬままだった。
「………何か言ったらどうだ」渋々と唸ったのはノースディンだ。愛し子。ノースディンが婦女を口説く時の文句は幾つか耳にした事はあったが、自分に向けて告げられた事はない言葉だった。ぅるるるにゃぁ、と使い魔が呆れたように言った。複雑なニュアンスが入り混じった声色は初めてで、クラージィには彼女の言葉の意味を掴みきれなかった。「…本当は後から、もっと気の利いた事を言うつもりだった」ノースディンが眉尻を僅かに吊り上げていて、もしや彼女に何か弁明をしているのか。ふっ、と思わず笑いが出た。
「何だ」
「いやすまない、今のは、もしかすると、口説かれているのか私は」
「そうだと言ったらどうする?」
ノースディンの顔がぐっと近くなった。反射的に下がろうとして脚がカウチにぶつかった。片手は恭しく掴まれたままだ。婦女をエスコートするように腰を抱かれている。私はしばし視線を彷徨わせ、少しの間考えてから、ーーーふーー、と漸く詰めていた息を落とした。ぴくりとノースディンの眉が跳ねる。意外にも相手の感情の機微に敏感な男である事を私は知っている。
「……そうなのか。いや、私は。うん、浅ましいな」
「…なんだ今度は。それはどういう意味で………いや分かった。お前は圧倒的に言葉が足りない。きちんと詳細を言え。事と次第によってはこの一帯が永久凍土になる」
「もう半分なっているようだが」
先程から窓は風に叩かれてガタガタと音を立てている。外の吹雪を思い、後でドラルク達に謝罪しておかなければなと思った。この要因は私にもあるのだろうから。
「…いや、なんだ。先程の宴の時に、一族の皆に口々に祝福されてな。」
「当然だろう、そのための宴だ」
「…それが、ーーー…以前もお前は私を彼等に会わせる時に、正装を仕立ててくれただろう。その時の私の装いが…その、『独占欲が丸分かりで楽しい』『自分のものアピールが激しすぎる』『あのノースディンが漸く身を固めたんだな』と…皆が口々に言って…違うと否定しようとしたのだが、皆の喜びように言い出す事ができなかった。先程もそうだ。『あの古典主義の好きアピールは露骨で面白い』『愛されているね』と。………その、お前をよく知る人たちがあまりにも自信に満ちた顔で口々に言うので、まだお前に告げられてもいないのに、私はお前と私は既にそのようなものなのかと、すっかり勘違いを。いやはや浅ましいな。恥ずかしい限りだ」
「 」
ぱりん、とどこかの部屋の窓が割れた音がした。轟々と風雪が強まっている。ぷし、と使い魔の彼女が暖炉の前でくしゃみをして、呆れたように尻尾で床を叩いた。
紅茶は酒に変わり、今度はノースディンの自室で酒を交わしている。二人で膝を突き合わせる構図に変わりは無いが、間にあるのが小さなテーブル一つである分、先程よりも距離が近い。酒を飲むだけなら場所を移さなくともいいだろうと問うてみたが、何事もなかったことにされては堪らないからな、と意地の悪い笑み混じりに返されたのでこうしている。熱い酒が心地良い。
「ーーーそれにしても、実際に祝われ愛しまれるというのは…幻覚よりもずっと温かく嬉しいものなのだな」
「そうだろうーーーーーーーーーーーー…………ちょっと待て、幻覚とはなんだ」
「幻覚は幻覚だが…ああ、まだ言っていなかったか?
お前とご真祖様が迎えに来る直前に私が退治した吸血鬼の能力だ。擬態して対象に居心地のいい幻想を見せて夢に捕らえ、抵抗の意志を削いでから吸血する類の生物だったらしい。幼い私を、昔憧れていたシスターが抱き締めてくれる夢を見たのだ。そんなものを見るとは、私もまだ未熟なのだなと思ったよ」
「……………お前も、それで、…夢に囚われたのか」
ノースディンが珍しく酷い痛みを堪えるような顔をした。言葉を選んでくれたのだろう。私は酒を傾けて瞬きをした。「いや?」
「は?」
「夢自体は幻覚とすぐに分かったので、シスターを殴って現実へ戻った。それ自体はよかったのだが…囚われていた一般人のうちの一人がな…『爆乳でヨシヨシして赤ちゃんプレイしてくれるボクのえっちなお姉さんを返せーッ!!』と子供のように泣いて抵抗してな……スーツを着た壮年の男だったのだが…人は見かけによらないものだな…」
相手は吸血のためにそのような幻覚を見せているのだと説得するのに随分と苦労した。厳格に見える恰幅のいい大人が子供のように地面に転がって地団駄を踏んで泣き喚く姿はちょっと引いた。
ところで私の理解の及ばない単語が多くあったのだがばくにゅうとはなんだ、と付け加えると、遠い目をしたノースディンが「人間の変態の妄言だ、気にするな」と眉間を押さえて言った。