ずっと共に、永遠に。 うだるような暑さ。
季節は刻々と過ぎ行き、気がつけば梅雨の始まりを迎えた。
「暑いな…。そろそろクーラー付けようよ」
いかにも嫌な感情を顔に出しながら青年は隣を歩く相手に声をかける。
「そうだな。でもまずは扇風機の掃除が先だ」
言葉をかけられた相手はハハッと笑いながら背中をポンポンと叩く。
他愛もない会話を交わし、軽くはしゃぎながら雨が襲う前に家路へと急ぐ。
ここを曲がって公園から近道をしよう。大通りから行くよりかは幾分か早く着く道だからそれをよく知っていて。
パサッ。
角を曲がろうとした時、視線の端に何か動くものが落ちたような気配が。
微かな音を鳴らした正体は栞に近いサイズの紙切れで、表面に鮮やかな青と紫の紫陽花が咲いていた。
「ん、」
それをKKはそっと拾い上げる。
昨日の雨で濡れたのか僅かに湿り気が残る栞に触れると、じんわりと赤いインクが浮かび上がり、いかにもおぞましい風貌の文字が現れた。
ーーー厄介な奴だな。
KKの霊力に反応した呪いの文字。その筆の行く先を眉一つ動かさずに凝視し、隣で暁人は静かに息を殺す。
しばし眺めていると、ゆるゆると紫陽花の上に走る赤い文字がようやく姿を現した。
「『水無月結婚式場』か…」
一目で読める字にまとまり、端からゆっくり読んでみると結婚式場のチラシのようなものだと分かる。
暁人も横から顔を覗かせ、同じように赤い文字を読み上げた。
「でもここら辺に結婚式場なんてあったっけ?」
「確かにそうだなぁ。辺りには大きな建物なんて無いし、」
まず、この式場の名前すら聞いたことがない。
この近辺に住んでいれば地図やお店、建物の形も覚えてくるはず。慣れてきた二人にとって初めて聞く名前に違和感を覚えたのは勘として正しかった。
『いづき、あきと…さま、と、』
誰だ。
知らない声が呼ぶ暗闇の奥。気づけなかった気配にじりっと身を構えると、命の宿らない温度で何かが再度口を開く。
『けぇ、けぇ、さま…です…ね』
ぬめっとした尾を引く口調が気持ち悪く、知るはずのない二人の名前を呼ぶ。表示は影に隠れて読むことが出来ない。
「これって僕達を呼んでる?」
「多分な。あまりいいものは感じないが」
視線を目の前の何かにじっと刺したまま二人は会話を続ける。
あの夜に戦ったマレビトが一時期居なくなったと思っていたが、ここ最近ぽつぽつと現れるようになっている。それは梅雨と雨が力となって彼らを呼び寄せているのか定かではないが、できれば会いたくない。早く帰ってじとっと纏わる汗をシャワーで洗い流して、冷蔵庫で待つビールを楽しみたいものだ。
しかし、この目の前の妙なマレビトからは一切の殺気が感じられない。
状況が読めない中、KKは無言でこくりと頷き、それに続いて暁人も首を縦に降った。
『…こち、らへ』
左手で促す。その先は見間違えないはずのレンガの壁だが、ぼわっと下から赤い靄が現れ、もやもやと一つに固まると扉の形に変身した。
ギィー。
勝手に扉が開き、マレビトは中に入るよう再度促す。
これは二人を捕まえようとする罠か、はたまた暇つぶしとして面白がって現れた妖怪の一種か。どちらにせよこの扉の向こう側に行かないといけないのは目に見えて分かる。
「行かないと駄目か…」
「だな。そうと決まればさっさと終わらせるか!」
「なんかKK楽しんでない?」
ちらりと隣に目配せをすれば、楽しくなってきた時の嬉しそうな表情を浮かべて子供のようにウキウキしているKKが居るので、それを見ると暁人はもう何も言えなくなっていた。
「…分かったよ、行こう」
暁人はポケットに忍ばせた麻痺札を指先でそっと数え、いつでも取り出せるように出口に近い所にスタンバイ。
さっさと歩くマレビトの後ろを重い足取りで着いて行った。
だいぶ歩いた頃、ぽかんと空いた天井の高いフロアに三人は到着した。
また現れた扉。今度は黄金の装飾が施された枠に天使や妖精のモチーフが散りばめられた扉の上。室内の暗さと扉の明るさのコントラストが目に痛いほど差し込み、凄いと独り言まで出てきそうなほど。
ただ不思議な点とすれば、赤と青。
二つの扉が並んでいること。
マレビトはそれぞれの扉の前に一人ずつ立たせると、終始沈黙を貫いてばかりの口を開いた。
『おフタリには、この、』
がさがさとノイズが入って聞きづらい内容を一つずつ拾う。
『あ、と…けっコン、じぎを、あげても、ライマす』
いきなりさっき会ったと思えば何を言い出すのか。ぽかんと口を開けて状況を全く理解できない二人に、マレビトは扉の上にそっと指を指す。
さっきまで無かった所に先程の栞と同じ赤い文字が浮かび、ミミズのように壁を這うと少し長い文章が現れた。
「『結婚式を挙げないと出れない部屋』…?」
頭にはてなマークを浮かべながらKKは浮かぶ文章を口にする。
「結婚式、か…」
謎に思いながらも妙に落ち着く暁人の心。結婚と聞いて嫌な気がしないのは何故か?むしろ別の感情が沸き立つような音が聞こえ、隣で悩む彼にバレないようにぐっと心臓の辺りを抑える。
『それでは、ご、ジュンビ、を…』
マレビトがハンドサインで指示を出すと、強い力で襟を引っ張られ二人はそれぞれの扉の中へ体を吸い込まれる。
「のわっ!!暁人っ!!」
「KK!!」
大丈夫だ!絶対助け、る。
KKが最後に言い放つ言葉を聞くこともなく、眩しい光に包まれながら何処かへ導かれて。
自身の力を入れることもままならず、二人は導く光に体を預けることしか出来なかった。
これは夢だ。
深呼吸して開く三度目の瞼。
やはり変わらない光景。
首を回して辺りを伺うも、何度も正しい位置に頭を戻される。
『もう少しで終わりますから辛抱してください』
淡々と語りながら手際良くヘアセットを行うスタッフの表情は覗うことが出来ない。
それはそうだ。この部屋には〈鏡〉が無い。
建物に入って別々に引き剥がされたと思ったら、上着を脱がされ軽くメイクを施された。
着させられたのは白とグレーの色合いのタキシード。勿論今まで着た経験は無く、何故か自身のサイズに丁度合うように仕立てたられた上着に袖を通すと、ほのかに漂う花の香りが鼻孔をくすぐる。
終わったら次はヘアセット。
ワックスを手のひらで十分に伸ばして前髪を持ち上げられると、てきぱきと手際よくオールバックが完成。
何故自分たちが選ばれたのか?と疑問を投げかけても、目や鼻がないのっぺらぼうの顔を持つスタッフは無言のまま手だけ動かすのみ。
「…本当に式を挙げたら出れるんですよね?」
疑いの眼差しは晴れない。
コクリと軽く頷くだけで、人ならざるスタッフは暁人の髪に最後の櫛を通した。
準備が終わった。
言葉はなくともスタッフが道具をがちゃがちゃと片付ける音で察する。
『こちらへ』
覇気のない冷たい台詞に促され、今までいた部屋とは違う扉の前へ移動する。
聞けばこの奥にお相手の方が待っているとのことで、考えただけでドキリと胸の奥が高鳴る。
いったいどんな顔をしていて、どんな格好なんだろう。
今自分が着ているものと同じか違うか。はたまた純白に包まれたお姫様のような姿でも面白いから見てみたい。茶化したら高速で怒りの拳が飛んで来るのは避けられない。
でもこれだけは分かる。扉の奥の彼は。
「ちゃんと迎えてあげよう」
呼吸を深く吸い込んで吐き出す。
慣れない蝶ネクタイに胸筋の膨らみが抑えられて苦しい。
落ち着いて、落ち着いて。
ゆっくりと言葉を反芻し自身に言い聞かせながら、暁人は扉のドアノブに手を掛けた。
一方、その頃。
「どうなってるんだ、一体…」
まさかこうなるなんて予想だにもしていない。
こちらも服を変えられ椅子に無理矢理座らされると、瞬きをしたときにはハードワックスでつんつんと短い髪の毛先を遊ばせてヘアセットが終わっていた。
「おい、タバコ位吸わせろよ」
イライラを抑えきれずに手だけ動かすスタッフにタバコを要求する。
『あと少しで終わりますので』
虚しくも要求は無視され、こちらも淡々と準備を進めるだけのからくり人形。
ハァとひとつ深いため息を付くと、汚れた鏡を凝視してどうにか姿が見えないか自身を探る。それでも、自身はおろかスタッフすら映らないまま。
「全部白か」
視界の範囲に入るのはシャツやベスト、ジャケット、パンツに靴まで眩しいほどの『白』で統一されたフロックコートで、唯一ネクタイの色が『水色』
これから始まる式に身がきりりと締まるような音がする。
『あちらの準備が出来たようです』
部屋の隅にぽつんとひとつある赤いソファに促され、静かに腰を下ろす。
目線の右には大きな扉。聞けば向こう側に相手がいてすぐに会えるそう。
「……ハァ」
無意識に落ちる溜息。
KKは今までになく変な気持ちに包まれ、手に汗握るほど緊張していた。
相棒、そして気の許す相手のおめでたい姿が扉隔てた一枚向こうに立っている。
見たいような見たくないような、複雑な心境を抱えて。でもここを超えなければ何時間、いや一生出れない可能性もある。
着飾った自分の姿を見て幻滅しないだろうか?不安だけが脳裏をよぎる。
(格好いいよ、KK!!)
ぼんやりと浮かぶのは、相棒のキラキラした眼差しと肋骨が折れそうなほどのハグ攻撃が物凄い勢いでこちらに飛んでくる姿だ。
「…ウダウダ考えてても仕方ねぇか」
ふわりと口角が上がり、少しだけ悩んでいたモヤが晴れたような気がする。
今日くらいは、こういう経験を楽しんでもいいのかもしれない。
扉の向こう側で動く靴音に耳を澄ませ、KKは真剣な眼差しで暁人を待つ。
ガチャ。
重いドアノブの回る音が、部屋の中にひとつ響いた。
その瞬間だけ時間が止まったような、いつもの数十倍の遅さで地球が回っているようなおかしな感覚に包まれる。
互いに緊張を掌に握りしめ、吐く呼吸と併せて重い扉が開いた。
「K、K…」
不安を拭えない瞳に飛び込んできたのは、無意識に目を細めてしまうほど眩しい白。
赤いソファーに不機嫌そうに座るKKは髪型から靴の先までまるで別人のように化粧を施され、彩られ、これから迎える式に向けての格好が完成していた。
零した言葉を拾う余裕も無く、暁人は初めて見る恋人の姿から視線を外すことができない。
「おい…。俺の格好、そんなにおかしいか?」
穴が開くほど見つめる年下の相手になんだか照れくさくなり、KKは頭をガシガシと掻きながらソファーから立ち上がった。
そういう暁人も白一色に包まれて、二人を繋ぐ水色のワンポイントがリンクコーデを揃えて恥ずかしくも嬉しさがひしひしと込み上げてくるようだ。
その間、何の一言も暁人の口からは出てこない。
「似合ってるぜ、暁人」
彼の少し歪んだ襟を直し、ニヒッと悪戯っ子のように口角を上げると暁人の頭をポンポンと撫でる。いつも通りの仕草は平常心を保つために自身に言い聞かせているルーティーンで、意外と奇妙な光景に先に慣れたKKが暁人を落ち着かせようとした行動の一つだ。
どうにかして落ち着くだろう。簡単な気持ちでそう思っていた、が。
ポロッ。
見開いた瞳から溢れた一粒の涙。
決壊した涙腺から溢れ、頬を伝う雫は段々と数を増し、粒が大きくなり、せっかく綺麗にメイクされたファンデーションを流れた筋の部分だけ落としていく。
実際、泣いた姿をKKに見せるのは初めてで、自身もここまで大量の涙を見るのも初めての光景だった。
「ど、どうした!?どこか痛いのか?」
KKは焦ったように彼の顔を覗き込むと、ふるふると暁人は首を横に振った。喉を詰まらせ、声を殺し、荒ぶる呼吸を必死に抑えようと肩で深く息をする姿に、ここに来るまでに食べたものを一つずつ思い浮かべた。
豚骨ラーメン、バニラアイス、いちご大福にチーズハットグ。
聞いただけで胸ヤケがしそうなメンツだが火を十分に入れたものばかりで、生魚や賞味期限切れの料理は食べていない。腹が痛くないのは理解した。
だがどうして、怪我をしていないのに泣いているのだろうか。まずこんな妙な事に巻き込まれて無理矢理に近い形で着替えさせられ、挙げ句の果てにはこの後結婚式を挙げるという内容が心底嫌になってしまい、抑えていた感情が一気に溢れ出たのか。
(嫌だよな…。俺なんかと結婚式なんて)
この数秒で頭をフル回転させ、なんとか結論付けて暁人が涙する理由を見つけ、言葉を飲み込む。
そりゃそうだ。
元はと言えば赤の他人で、しかも最悪な状態で出会ってしまったのだから。たった一夜過ごしたとはいえそこまで感情が込められるはずもない。
あいつの体が一番落ち着く、と言った自身の方が彼に依存しているのではないか、とKKはたまに不安になる時がある。まだ未来ある若者の道筋をこんな中途半端な生き方しかできない泥臭いおじさんが邪魔をしてもいいのか。
唯一の引っ掛かりはまだ心臓の端っこに残ったまま。
でも、聞いてみたい。今なら少しだけ、真意に近づける気がする。そう決意するとKKは一つ息を深く吐き出し、暁人の頭を再度ゆっくりと撫でた。
「ごめんな。変なことに色々巻き込んじまって」
「…キレイ、だ」
鼻をぐずっと鳴らしながらようやく見せた言葉。
目や鼻の頭は真っ赤に腫れ、少し落ち着いたのか涙は先程より止まっていた。
「カッコい、い…。それに…」
ヘへッといつものように微笑むと、KKの手をそっと握る。
涙なのか汗なのか湿って温度が高く、それに応えるようにKKも自身の右手を重ねた。
「夢を、見てたん、だ…。
同じ道を二人で、歩き、たいって」
予想していなかった発言にこちらも目を見開き、KKは静かに後の言葉を待つ。
「叶わないって、思ってた。けど、今目の前にいるKKは、僕の、僕のぉ~」
止まったはずの涙がまた溢れ、ぐずぐずに目と鼻を鳴らしてまた赤く染まる。
「わ、分かったから!せっかくのいい格好が台無しになるぞ?」
十分伝わった暁人の思いにKKはより強めに背中をばしりと叩く。大量の涙を流しながら、いつの間にか暁人は笑っていた。
「涙はもう少し先に取っておけよ。これから始まるんだ」
「うん…。我慢す、る」
よし、と肩にポンと手を乗せ、優しい眼差しで暁人に笑って見せる。緊張をしているのは自分も同じ、でもこの先の儀式は笑って過ごして。
そうしたらあっという間に時間が経ってこの部屋から出られるから。全て言わなくとも、強い視線がそれを物語る。
ポーン。
『準備が整いました』
木琴のチャイムが鳴り、今までのマレビトや顔無しスタッフとはまた違う透き通った声のアナウンスが部屋の中に木霊する。
また現れた新しい扉。
テレビや映画で見るような、黄金色に輝いて重厚感が漂い、明らかに他とランクが違う佇まい。
背が小さめのスタッフが二人、扉の両サイドにスタンバイし、片方ずつのドアノブを抑える。ゆっくりとした足取りで二人はその扉の前に歩いて行った。
『合図をしたら扉が開くので、開いたらそのまま真っすぐ歩いて下さい』
声は綺麗なのに淡々と事務的に話す音がここは日常と違う場所と分からせる。勿論、こちらの心情なんて興味のない怪物なのだから淡々と喋るのは当たり前のことで、唯一人間の心を持つ暁人とKKだけがそこで生きる証なのだ。
『いきます。
3、
2、
1、
それでは、どうぞ』
ゆっくりとしたカウントの後の冷たい指示でスタッフは扉を開き、中から白く眩しい光が二人の視界の色を無くした。
ふわり。
まだ戻らない景色より先に飛び込んできたのは、甘い花の香り。
どこかで嗅いだことがある、懐かしく温かい。今の季節にピッタリ合った、花の名前は何だっけ。
「暁人、いるのか…?」
不安そうな声で尋ねてくる。あぁ、KKだ。ここにいたんだ。
そうだ、変な建物に入って結婚式を挙げないと出れないって言われて着替えて今ここに。
僕、さっき泣いたんだよね。顔パンパンになっていると思うけど、KKはそれでも笑ってくれて。
まだ始まる前なのに他人事のような、むしろ終わった後のような妙な感情が暁人の中を巡り、近づいてくるKKの気配すら読み取れない。
「おい暁人!!」
「うえっ?あ、あぁ、ごめん」
聞けばこの空間も特殊なマレビトが作った結界だから少なからず変な影響を受けることがあるそうで、暁人は一瞬取り込まれそうになっていた。呼び戻したのは、大切なKKの声。
「気をしっかり持つんだ。じゃないとここに体も魂も取り残されるぞ」
「それは嫌だな。だってまだKKと行ってないお店や景色とか沢山あるから」
「お、おぅ…」
こういう場面でもさらりと格好いいことを言える暁人の度胸を見習いたい。ちょっとだけKKは虚しさに包まれた。
色が戻った辺りを見渡してみる。
何も物がない、真っ白な部屋の中。立ち止まっていては埒があかないので花の香りを頼りに歩いていくと、青と黄色のモザイク柄に装飾されたタイルが地面に一つ埋め込まれていた。
明らかに怪しい。だがここしか突破口はない。
大人が二人ほど立てる大きさのタイルに、タイミングを合わせて乗ってみた。
その時だった。
ブワッ。
突風がどこからともなく吹き込み、黄色いかけらを巻き込みながら小さな竜巻となって二人を襲う。
飛ばされないように顔を腕で覆い隠しながら、風が止むのを待つ。
どれだけ経った頃か。
ゆるりと止む風に安堵し先にKKが目を開けると、言葉の前にごくりと喉を生唾が通り過ぎる。
「う…わ」
ちょうど近いタイミングで暁人も腕を下すと、目の前に広がる光景に片言の感嘆詞しか口に出せなかった。
風が過ぎて運んできたもの。
目の前一面に満開に咲き誇る、紫陽花の海。
青や薄紫、ピンク色の小ぶりな花々が密集し、白い部屋をキャンバスに仕立てて鮮やかに彩る。
普段は赤のバージンロードが、紫陽花に囲まれた花の一本道に代わっていた。
一歩、また一歩、足を踏み出す。
二人が歩く先を開くように紫陽花が踊りながら通路を開ける。まるでおとぎ話の世界に迷い込んだような、くすぐったい感覚に自然と笑みが零れる。
ちらりと横目で見やると、先ほどまで真っ赤になりながらぐすぐす泣いていた恋人が楽しそうな表情で紫陽花の海を眺めながらこちらの視線に気づいたのか、ふふっと笑ってみせた。
「こんなにたくさんの紫陽花、初めて見たよ」
「小さい頃、お寺や山の斜面に紫陽花を植えて住民に開放して見せてたおじいさんがいたな」
「何それ、どこかの昔話?」
「おいおい。俺は昔を生きてた人だぞ暁人クン?」
軽口を叩けるほど回復し、ハハッと笑い合いながらバージンロードを歩く。静かにするより、このほうが心地がいいのかもしれない。
普通だと親族と一緒に歩くのが正しいが、今ここには二人しかいないものでその実現は叶わない。まず、現実世界でも親戚や親族の縁が絶った二人には、どうしても〈二人で〉バージンロードを歩くしか手段が無かったのだ。
話しながら歩き続け、気が付くと少し高くなった丘の上に台があり、恰幅のいい赤いオーラを身にまとったマレビトが二人を手招きし、優しく微笑みかける。
よく見たことのある、お金を大量に褒美としてくれる少し強いマレビトを忘れるわけもなく。苦い顔を浮かべたがそのマレビトが神父さんの代わりだと理解し、二人はそっと台の前に立ち止まった。
『伊月暁人さん、KKさん。
あなた達は、病める時も健やかなる時も…』
バリトンの色気を放つ低音でゆっくりと誓いの言葉を読み上げる。静かな口調が会場の雰囲気としっくり合っていて、癒しのオーラすら見えてくるようで。
『これを愛し、これを助け、
その命ある限り心を尽くすことを、誓いますか?』
最初に暁人をちらりと見やる。感情がまた溢れ出たのか、鼻を鳴らしながら涙を流していた。
「はい、誓い…ばす」
こくりと一つ静かに頷くと、今度はKKのほうに顔を向ける。
「…誓います」
遥か昔に同じようなことを言って、愛を誓い合った瞬間もあった。しかしそれは過去の話で今は状況が違う。
隣で立って自分の代わりに涙を流してくれる相手は相棒であり大切な人で、恋人と呼んでも間違いではない相手。
言葉を発した時の落ち着き具合やざわりと鳴る不穏な音は微塵も無いのが不思議で、KKはこの光景を客観視できる余裕まで持っていた。
『それでは、誓いのキスを』
さぁ、ここまで来たらいよいよ式はクライマックス。
並ぶ姿勢からKKは暁人の目の前に立ち、ぐしゃぐしゃになった頬の涙をそっと拭う。彼の涙腺は今日の出来事で完全に崩壊したようだ。
「お前なぁ…また泣いてるのか?色男が台無しだぞ」
照れたような表情を浮かべ、息を吐くと覚悟を決めたように目を閉じる。
「KK…」
呼吸を正し、ぎゅっと目を瞑る恋人の頬に手を添えると、優しく語るように暁人は彼の唇に口づけを落とした。
幸福が二人を包み、天からの光が祝福を与えると神父役のマレビトは大きく手を広げ何かを叫ぶ。
「二人のこれからに、幸運が訪れますように。ささやかな祝福を送りましょう!」
バリトンボイスと共に咲き誇る紫陽花の小花がひとつずつ離れ、花吹雪となってあたりをくるくると踊り散る。
白い部屋を鮮やかに彩り、筋となって二人の周りを囲むと、ぶわっと天に向かって花のシャワーを浴びせた。
あれから、どれだけ時間が経ったのか。
式を終えた二人はあの暗い路地裏に自動転送されたようで、先ほどまで来ていたタキシードやフロックコートは無くなり、元の服に戻って現実へ帰って来れた。
「夢だったのかなぁ…」
ぽつりと呟く。沢山泣いたせいで鼻が詰まってまだ呼吸がしにくい状態が続いているが、口調は落ち着いている。
確かにあの部屋に連れていかれて、簡易的ではあるが結婚式を挙げた。指輪交換は無いものの、誓いの言葉やキスの感覚まで怖いほど覚えている。
現実だったのか夢を見ていたのか、それを知る術は無いのだから何とも言えない複雑な心境だけがそこに残る。
ガサリ。
一服しようと自身のポケットに手を突っ込むと、煙草の箱とは違う感触が指に触れ、その何かをそっと取り出す。
それは、ここに入るきっかけになった紫陽花の栞。
「意外と夢じゃないかもしれないぜ」
書かれている文字を見てフッと笑うと、それを暁人に差し出す。
『末永くお幸せに』
さっきまでのおどろおどろしい筆跡とは違う優しい筆筋で文字が浮かび、体験した結婚式が実際に起きたことだと確信づけることが出来た。
「KKのタキシード、格好良かった」
思い出したように微笑むと、真っ赤になって照れるKKの頬をそっと撫でてみる。
変わらない温度、少し乾燥した肌、細かい傷が多く、何度も戦いを乗り越えてきた証。愛おしい彼の晴れ姿を一番に見ることが出来てこれまでにない幸福感に包まれ、本当に時が止まってほしいと思ったほど。
「あ、あぁ…。お前も、まぁ、似合ってた…ぞ」
ありがとうの代わりに差し出される右手。そっと握ると、優しく握り返してくれる。
照れ屋で不器用なKKの気持ちに今ようやく気付けた気がした暁人は、もう一度KKの唇にキスを落とす。嫌がりはしない、二人だけの唯一の時間。
名残惜しそうに唇が離れると、暁人はゆっくりと口を開く。
「ちゃんとしたプロポーズは、別の時に言わせて」
ぽかんとだらしなく空いた口をぱくぱくさせ、まったく理解出来ない様子のKKに次いで言葉をかける。
「しっかり指輪も用意してさ。式場も借りて新婚旅行も行きたいよね」
「ま、待て…。何でそうなる、っ」
ずいっと真っ直ぐ貫く視線の強い熱。言葉に一つも嘘は無く、真剣な気持ちでKKに詰め寄ると、返す言葉が思い浮かばなくなっていた。
「ゆっくり考えようよ。僕らにとって大事なことだから一緒に決めたいんだ。ね?」
二人の今後を考えた先の結果。マレビトによって引き起こされたトラブルがまさかの展開に発展するとは、当時の自分は微塵も考えていなかっただろう。暁人の発する単語を一つずつ飲み込み、考え、ゆっくりと理解したように一つこくりと首を縦に落とした。
「…帰るぞ」
熱いままの今の顔で暁人を直視することが出来ず、繋いだままの手を引っ張ると、KKは家のあるアパートの方面へずいっと歩き出す。
急いだら転んじゃうよと困ったように笑う恋人の声を背中に聞きながら、これから起こる様々な出来事を想像してみた。過去は無くなったが未来は作れる。二人がこれから永遠の愛を誓うのも決まっていたような、そんな気がして。
「今度はウェディングドレス来てほしいなぁ」
「似合うわけないだろ。まずおじさんのドレス姿を見て誰が喜ぶんだよ…」
「え?僕が見たいよ、大事な晴れ姿」
肩を小突き合いながら家へと歩みを進めて。日が落ちかけて夕方を知らせる影が二人の後ろに細く長く伸びる。
いつか伝えたいプロポーズ、贈られる指輪のことを考えながら、今日はゆっくりと帰ろう。
End