いつの日か -長官-主文
被告人を死刑に処する
ドラコルルは独房の壁にもたれながら、目を閉じた。
あれから5年が過ぎた。死刑の判決を受けた当初は、こんなにも心は穏やかなものなのかと、自分のことながら驚いた。大罪を犯したのだ。国民の傷も深い。執行はすぐだと思っていた。しかし、判決から5年たった今でさえ、なおも自分は生きている。
…殺すのなら、すぐにすればいいものを。
時おり、湧き出る苛立ちの気持ちにドラコルルは舌打ちをした。死への恐怖がないわけではないのだ。あらゆる希望を捨て、死にゆく者としての覚悟を持とうにも、それを維持することには限度がある。ほんのわずかな希望が湧きあがるたびに、それを押し殺さねばならない。執行の命令は当日の朝に告げられるというが、かれこれ5年。何もすることがない部屋の中で、いつになるとも分からない刑の執行を待つというのは、想像以上に精神を蝕む。
…あいつは元気だろうか。
恐怖に心がのまれてしまいそうなときは、副官のことを思い出す。
最後に彼と会ったのは、彼が刑務所へ移送される直前だった。彼は、口を塞がれていたが、それでも暗号を使って自分の想いに答えてくれた。もう二度と会えないことは分かっている。そこに希望はない。だが、副官のことを考えるだけで、この冷めた心がほんのりと温かくなる。副官の命を守ることができた、その事実だけがドラコルルには誇らしく感じられるのだった。
「1432号。出ろ」
ふいに呼ばれた自分の番号に、ドラコルルは目を覚ました。窓からは、朝日が差し込んでいる。
…ついに来たか。
ドラコルルは立ち上がった。いつもならば起床後の点呼があるだけだが、今日は独房の外に出るよう指示があった。これから自分は死ぬのだ。
看守に連れられ、廊下を歩く。この無機質な拘置所の廊下ですら、今日で見納めなのかと思うと、全ての風景がやたら鮮明に感じられた。
いくつかの角を曲がり、渡り廊下に差しかかる。ここは5年前、副官と想いが通じ合った大切な場所だ。差し込む太陽の光に、思わず目を細める。だが、ドラコルルは違和感を感じた。
…この先にあるのは玄関と管理棟、医療棟のはずだが?
死刑の執行が為される部屋は一部の看守以外、極秘だと言われている。こんな表立った場所にあるのだろうか?
そのまま渡り廊下を通り、ドラコルルは管理棟へと足を踏み入れた。だが、どこの部屋に通されるわけでもなく、ひたすら廊下を歩かされる。
ついには医療棟へと変わり、ようやく一つの部屋の前で看守は立ち止まった。
「特別面会だ。時間は30分。お前のことを呼んでいる」
そう言うと、看守は扉を開き、ドラコルルに中に入るよう促した。
どうやら今日は命をながらえたようだ。ドラコルルはホッと安堵の息を漏らした。看守に言われた通り、部屋に足を踏み入れる。
ーギルモア将軍…!!
ドラコルルは目を見開いた。4畳半ほどの部屋は個室で、壁際にベッドが一つ置かれている。その傍らにはいくつかの医療機器が、並べられていた。
ギルモアはベッドの上に横たわっていた。もう四肢を動かすことも難しいのだろうか、痩せた手足に拘束具はつけられていない。片方の手には点滴の管が伸びている。その目はうつろだ。
ベッドの上の老人の姿に、ドラコルルはギルモアの死期が近いことを悟った。
「将軍…」
ドラコルルはギルモアに近づいた。ピクリとギルモアの指先が動き、うつろだった目がゆっくりと声の主の姿を探す。
「来たか…」
ギルモアの目がドラコルルの姿をとらえた。
「…拘置所もずいぶんと寛大な措置をしたものです。また生きてあなたに会えるとは思いませんでした」
「…あいかわらずだな」
ギルモアは力無く笑った。
「元気そうで何よりだ。わしはこんな体だというのに」
「元気に見えるだけですよ。5年前、死刑判決を受けました。執行はいつかと、毎日生きた心地がしません」
ドラコルルの言葉に、ギルモアの顔から笑みが消えた。ドラコルルはさらに続けた。
「副官は終身刑です。恐らくは、我々の他に死刑判決を受けた者はおりません」
しばらくの沈黙ののち、ギルモアが口を開いた。
「…お前はこの結末に納得しているのか?」
ギルモアの言葉にドラコルルは答えた。
「納得もなにも、我々は負けたのです。もちろん悔しさはありますが、今さらどうしようもありません。ただ死を待つのみですよ」
「負けたことではない。自分だけが、あの大統領に殺されることに、満足しているのかと聞いておる」
ギルモアはドラコルルをしかと見つめた。
「健康な人間が、…あるいは生きたいと思っていた人間が、ある日突然死ななければならない。死ぬことは罰ではなく、生きたいと思っていた被害者の無念を身をもって知る最後のチャンスである。この考え方こそが死刑の本質だ。死刑囚は健康でなければならない。生きたいと思っていなければならない。拘置所側もわしを生かそうと必死だが、もはや治る見込みはない。近いうちに病死だ」
ギルモアは続けた。
「わしがこんな体になった以上、執行はいつまでも延期だ。だがお前は違う。お前だけが、国家によって殺される。それに納得しているのかと聞いておる」
ドラコルルは目を伏せた。ピリカは健全な法治国家に戻ったのだ。
おそらくギルモアの命は長くない。ギルモアが言うように、ギルモアは病死、自分は刑の執行によって死ぬのだろう。同じ死であっても、死刑の本質に照らし合わせれば、この意味は全く異なる。
「ドラコルル」
ふと呼ばれた自分の名に、ドラコルルは顔をあげた。ギルモアに名を呼ばれたのは初めてだ。
「あのときも、わしは一人で逃げた。お前はわしを逃がすための時間稼ぎをしようと、勇敢に巨人どもと戦った」
ギルモアはドラコルルを見つめた。部屋に入ったときはうつろだった瞳には、今、確かに光が宿っていた。
「そして今もまた、わしは一人で逃げようとしている。お前にだけ、死刑執行の重みを背負わせようとしている。…恥ずべきことだ」
ギルモアの目に宿る光が揺らめく。
「ドラコルル…」
ギルモアの体が揺れた。その瞬間、ギルモアの目から、涙がこぼれ落ちた。
「最後にお前に会えてよかった。すまなかった」
『お前、結婚はせんのか?』
『あいにくまだその気はありませんので』
『局長のところの娘さんが、お前と同い年だ。よい縁談だと思わんか?』
『そのような方法で出世したくはありません』
『お前は妙なところで真面目だな』
独房へと戻されたドラコルルはその場に座り込んだ。かつてギルモアと交わしたさまざまな会話が、何度も頭を駆け巡る。
ギルモアがいつからああなってしまったかはもはや定かではない。どんなに忠誠を誓おうが、自身の能力を認めこそすれ、決してこの心を信じてくれることはなかった。おそらく自分はあの男にとって、ただの駒で、大切な部下でも何でもない。だからあの男は最後に一人で逃げたのだ。一度は国の頂点にたった軍人でありながら、その国をも捨てようとした。なんとも無様な姿だった。
ー無感情
将軍に対する気持ちはその言葉がいちばん合っている気がする。怒りも悲しみも感じない。
自分は将軍にひたすら尽くした。だが、あの男から信頼は得られず、最後には見捨てられた。将軍のことだから、裁判でも自己保身に走ったはずだ。あの男は絶対に部下を守らない。
それなのに、涙を流して謝罪する姿に、この冷めた心が揺さぶられたのはなぜなのか。
恐らく将軍と会うことは二度とない。
街への監視を徹底し、わずかな疑惑でさえ見逃さず、国民を処刑しようとしたあの男が、最後に死刑の本質を説いてきた。
誰も信用しなかったあの男が、戦いの最後に部下を捨て己だけ逃げのびようとしたあの男が、今になって自分の身を案じてきた。
責任をとれないことを恥だと言っていた。
「あなたともあろう方が、最後の最後に私の心配ですか…」
ドラコルルは静かに笑った。
「病死する以上、自分には責任が取れない。だから、その責任を私に託すと。それが申し訳ないと。そうおっしゃっているのですね」
ドラコルルは目を伏せた。
これは命令だ。殺されるために生きろ。そうして刑が執行されたとき、ようやく無念のうちに、この世を去った人間の魂が救われる。ピシアがしたことの責任が果たされるのだ。
『お前は妙なところで真面目だな』
昔、ギルモアに言われた言葉を思い出す。
「…あなたの最後の命令、しかと受け止めました」
ドラコルルは顔をあげた。
「絶望の中で、元気に生きてやりますとも。刑が執行されるその時まで」
「1432号。出ろ」
ドラコルルは目を開けた。いつかの日と同じように窓からは朝日が差し込んでいる。
看守に連れられ、ゆっくりと廊下を歩く。いくつかの角を曲がると渡り廊下に差しかかった。
…見覚えのある風景だな…。
はるか昔、ここを通ったような気がする。いつだったかは分からないが、なぜかここがとても大切な場所のようにドラコルルは感じた。
…今日は点呼がない…。なぜだ…?
思考の鈍くなった頭で、なんとか過去の記憶を思い起こす。歩きながら、ようやくドラコルルは思い出した。
「…今日が執行日というわけですか…」
隣を歩く看守に目を向ける。長い拘置所生活のせいで自分も年をとったが、この看守も年配だ。すれ違った何人かの看守が、この男に挨拶をしている。自分と変わらないゆっくりとした足取り、顔に刻まれたシワに、この男が相当なベテランであることがドラコルルには感じられた。
ドラコルルが発した言葉に、看守は立ち止まった。看守はじっとドラコルルを見つめている。自身を見つめる看守の姿に、ドラコルルは拘置所のルールを思い出した。
…そうだ。私語厳禁だった…。
長い時間、自室にいたからかそんなルールすら忘れていた。しかし看守は、ドラコルルを注意することもなく、再び黙って歩き始めた。
渡り廊下を過ぎ、管理棟へ入る。いくつかの部屋を通り過ぎ、2人の男は玄関にたどり着いた。
「釈放だ」
看守が口を開いた。
「ピリカは復興を遂げた。馴染むには時間がかかるだろうが、達者で暮らせ。…それと」
看守はドラコルルを見つめると、優しく微笑んだ。
「副官を頼んだぞ」
ほおにかかる冷たい風に、ドラコルルは目を閉じた。長らく風というものに当たらなかったせいなのか、身一つで拘置所から出されたせいなのか、外の空気は、今の自分にはひどく冷たく感じられた。
街の風景は、ずいぶんと変わっていた。かつてピシア本部があった場所も、ギルモアの官邸があった場所も、今は取り壊され別のビルが建っている。まるでクーデターの事実などなかったかのように、ピシアが存在した数々の痕跡はことごとく無くなっていた。
だが、今、目の前にある海は、あのときと変わらない。優しい太陽の光の下、穏やかにその波をたたえていた。
…なぜこんなところに来てしまったのだろうか。
ドラコルルは目の前の海を見つめた。
この場所は、自分が負けた場所だ。負けなしと言われた自分が、屈辱にも地球人につまみ上げられ、全面降伏を申し出た場所だ。二度と見たくもない場所のはずだった。だが、そんな場所に自分は今、立っている。
『副官を頼んだぞ』
拘置所を出る直前、あの看守に言われた言葉が、頭から離れない。はじめは何のことだか分からなかったが、街を歩き、かつてピシアが存在した事実を思い出した。そういえば、そんなやつもいたなと、副官の存在を思い出した。大きな体のわりに俊敏な動きをする男。脳みそまで筋肉かと思えば、他人の意図を読み取る力に長ける男。
上官を守るために、無謀にも巨人に立ち向かう男。
そんな副官に自分は恋をした。愛していた。
だから最後に手紙で想いを伝えた。
『またこの場所で会おう』
記憶をたどり、かつて副官と交わした約束を思い出す。記憶が正しければ、あの男は終身刑のはずだ。あれから何年たったかは分からない。ただ、彼が終身刑である以上、二度と外に出ることは叶わないのに、この場所に来てしまった。どこに行くあてもなく、気がつけばこの場所に来ていた。二度と会えないことは分かっているのに。
「私は約束を守ったぞ」
ドラコルルは独りごちた。かつて嘘つきと言われた自分が、彼との約束だけは守りたいと思った。だが、ここに彼の姿はない。
「私の下に長く居過ぎたな。お前まで嘘つきに成り下がったのか…?」
ドラコルルは目を閉じると、静かに笑った。ほおにかかる風は、あいかわらず冷たかった。
しばらくして、ドラコルルは目を開いた。
…いつまでも感傷的な気分にひたっていてはいかんな。これからのことを考えねば…。
ドラコルルはその場に腰を下ろした。そのとき、背後で誰かが通りすぎるのをドラコルルは感じた。
目を向けると自分と同じ年頃だろうか、壮年の男の後ろ姿が見えた。ずいぶんと背が高い。だが、その後ろ姿に覇気はなく、歩いてはいるものの、手はだらんとして力は込められていない。まるで心あらずといったような、体だけが護岸を目指して歩いているような、そんな様子だった。男は歩きながら、小さな声でつぶやいた。
「あなたは最後まで嘘つきだ。この場所に来たのは俺だけじゃないですか…」
ドラコルルは男の言葉に耳をすませた。この男も、誰かに約束を反故にされたのだろうか?
「長官からの手紙、本当に嬉しかった。あなたも俺と同じ気持ちだったなんて、それこそ奇跡だと思ったんです。でも、あのときは言葉で伝えることができず申し訳ありませんでした」
…長官?…手紙?
ドラコルルは目を見開いた。後ろ姿ではあるが、3月の冷たい風に前髪が揺れていることが分かる。白髪混じりではあるが、その髪の色は青い。
「長官。お待たせして申し訳ありませんでした」
ドラコルルは立ち上がった。自分はこの男を知っている。護岸ギリギリに立つこの男に、今すぐ声をかけなければならない。直感で感じた。
「今度はきちんと口で伝えさせてください。あなたに守られた命、粗末にしてすみません。会えたら思いっきり叱ってください」
ドラコルルは駆け出した。
男が膝を曲げる。その輪郭を涙が伝っていた。
次の瞬間、男の足が地面から離れた。
「やめろ!!…副官!!」
春の海の水は冷たいはずだった。
肩に伸ばされた手はとても温かかった。
つづく