いつの日か -最終章-春の海の水温は低い。
飛び込めばショックで心臓麻痺、あるいは低体温症により、いずれ意識を失う。
だから、この温かさの正体が分からなかった。自分の首と背中にふれるこの温もりは何だ?
「副官」
かつての自分を表す言葉に副官は我に帰った。すぐ目の前には、穏やかな海が広がっている。自分は尻もちをついてしまったようだ。
「副官」
聞き覚えのある声に副官は目を見開いた。背後から抱きしめている男が言っているのだろうか?副官は恐る恐る後ろを振り返った。
「…………長官…?」
そこには、いるはずのない男の姿があった。白髪混じりではあるが、髪と瞳の色は赤い。30年が経ち、老いたその姿は、これが夢ではなく現実であることを物語っていた。
「…………ドラコルル長官…?」
副官は再度、目の前の男の名を呼んだ。
「なんだ?」
ドラコルルが答えた。その瞬間、副官の目から涙があふれ出た。夢でも幽霊でもないのだ。
「なんだ、会って早々また泣くのか?」
ドラコルルも目を潤ませながら、笑った。
「また?」
「拘置所の渡り廊下で会ったときもそうだっただろう?お前は口を塞がれていたのに、涙を流して私の想いに答えてくれた」
「そんな昔のことを覚えてくださっていたのですか」
副官の言葉に、ドラコルルは顔を曇らせた。
「……いや。今日の今まで忘れていた。街を歩きながら、ようやく思い出した次第だ…」
「無理もありません。30年も前のことです。忘れて当然ですよ」
「30年…」
ドラコルルは目を見開いた。謹んで刑を受けるべく、執行のその日まで生きることを決めた。だが、何もすることがない日々の中で、いつしか日にちを数えることに意味を見出せなくなっていた。まさか30年も、刑の執行を待ち続けていたとは思わなかった。
「…私は30年もあそこにいたのか。…将軍については何か知っているか?」
ドラコルルは副官に問うた。
「…俺も数ヶ月前に外に出されたばかりなんです。必死で情報を集めましたよ。過去の新聞を見るに、裁判から5年後に拘置所内で病死なさったそうですが…」
副官が静かに答えた。
5年後といえば、ちょうど自分が病床の将軍に会った時期と一致する。もう先が長くないであろうその姿を、間近で見た身としては、その情報の信憑性は高そうだ。
「あなたも20年前に亡くなったことになっています」
副官がドラコルルを見つめた。
「死刑判決から10年後に、刑が執行されたと。俺がそれを知ったのは、つい先日です。もうショックで立ち直れなくて…」
「そうか…」
だからこいつは、死のうとしたのか。ドラコルルは先ほどの副官の行動を思い出した。
風と違って3月の太陽の光は暖かい。ドラコルルの顔に当たる光が、わずかにオレンジを帯びていることに気づいた副官は、口を開いた。
「長官。この後はどこか行く予定でも?」
副官の問いにドラコルルは答えた。
「いや…。身一つで拘置所から出されたからな。どこにも行くあてはない」
「よかったら来ませんか?俺の家に」
副官の言葉にドラコルルは驚いた。
「…家があるのか」
「こう見えて、仕事もしているんです。貧乏ですけどね」
「本当に社会復帰しているのだな。私も何か職を探すか」
「来週あたり、保護司のところに行きましょう。きっと助けてくれるはずです」
「保護司?」
ドラコルルの問いに副官は笑顔で答えた。
「いい人です。元ピシア隊員の生活を支援しているとか。あなたにも会ったことがあると言っていて…」
そこまで話し、副官はハッとした。ドラコルルの死刑執行の情報を信じることが出来なかった自分が、最後に頼ったのがあの男が持つファイルだった。そこには確かにドラコルルは死亡したと書かれていた。
…しかし今、目の前にいるのは間違いなくドラコルル長官…。
思考が追いつかない。一体、何が本当の情報なのか。
言葉を途切らせ、何かを考えている副官の様子を察し、ドラコルルは口を開いた。
「副官、帰ろう」
副官がドラコルルに目を向けた。
「もう若くない。これ以上、海風にあたっていては体を壊しそうだ」
副官はドラコルルをじっと見つめた。夢でも何でもない。ただ奇跡が起きた。長官は生きていて、自分は釈放された。それだけだ。
「はい!」
副官が笑顔で返事をした、そのとき。
_ドン!!
「いてっ!」
後ろから下半身に何かがぶつかった。振り返ると4歳くらいだろうか、男の子が尻もちをついている。
「…っと。大丈夫か?」
副官が男の子に声をかけた。ドラコルルも振り向いた。
「こら!」
見ると、自分たちと同じくらいの年齢の女性がこちらに走り寄ってくる。おそらくこの子の祖母だろう。
「ダメじゃない。こんなところまで走っちゃ。人にぶつかるって言ったでしょ」
女性は男の子を叱った。そんな女性に副官は笑顔で声をかけた。
「大丈夫ですよ。子どもは元気がいちばんだ。おじさんは体が大きいから、君の方が痛かったんじゃないか?」
ドラコルルも女性に笑顔を向ける。
「本当にすみませんでした。お怪我がなくてよかったです」
女性は申し訳なさそうに頭を下げた。それから、顔をあげた。
「………………」
女性の目がドラコルルと副官の顔をとらえた。
ほ ん の 一 瞬 の 恐 怖。
2人の顔から笑顔が消えた。
「…あの、やっぱりどこかお怪我でも?」
心配そうに自分たちを見遣る女性の声に2人は我に帰った。
「………いや…」
ドラコルルは答えた。ドラコルルの言葉に、女性は微笑んだ。
「安心しました。ではこれで」
女性はペコリと頭を下げると、男の子と一緒にその場を後にした。
女性と男の子の後ろ姿を見ながら、2人はその場に立ち尽くした。
「……帰ろう」
沈黙を破ったのはドラコルルだった。
「…ええ。帰りましょう」
副官も答えた。黙ったまま、2人はゆっくりと歩き出す。
少し歩いたところでドラコルルが歩みを止めた。
「…副官。この街の地図は頭に入っているか?」
副官はドラコルルの意図を察した。
「もちろんです。よい道を知っています。この道は我々には明るすぎる」
「お待たせして申し訳ありません」
男は扉を開き、中にいる人物に声をかけた。
「気にしていない。久しぶりの拘置所はどうだった?」
「退職してから10年ですからね。そこまで変わっちゃあいません。知っている顔も多かった。事情を知る者は、皆、挨拶してくれました」
「それはよかった」
その人物は、緑色の瞳を細めた。男はコートを脱ぐと、紙コップにコーヒーを入れ、その人物に手渡した。
「ありがとう。3月とはいえ、まだ風は冷たいね」
「ええ。羽織るものくらい持たせればよかったと、あの男を見送ってから後悔しました」
「ドラコルルの様子はどうだった?」
その人物は問うた。
「…時というのは残酷なものです。長い拘置所生活の中で、年齢以上に老けて見えました。今、彼に会ったところで誰も分からんでしょうな」
「30年だ。その間、彼はただひたすら独房で刑の執行を待っていた。殺されるために生きていたんだ。私だったら耐えられない」
「パピ大臣」
男はパピを見つめた。
「大統領としての任期を終えたあなたが、法務大臣に就任したとき、私はピンときましたよ。死刑の執行は法務大臣の権限だ。よほど、ギルモアとドラコルルを死なせたくなかったのだなと」
「私が命令を出さない限り、死刑は執行されないからね。残念ながら、ギルモアは途中で病死してしまったが。ドラコルルの命を守るためにはこれしかないと思ったんだ」
パピは微笑んだ。不惑を迎えたその姿は、年相応に落ち着いているが、緑の瞳はあいかわらず美しい光をたたえていた。
「あれだけ怖い思いをされたのに大したものです。柱に括り付けられ、あと一歩で殺されるところだったのでしょう?」
男がパピに問うた。
「確かにね。でも、やるべきことは彼らの処刑じゃない。まずはピリカの復興が先だ。大統領任期が終わるまでの10年、私がすべきことは実にシンプルだった」
パピは続けた。
「他国と友好関係を築くこと。ピシアに人生を奪われた国民とその家族に、見舞金を支給し続ける仕組みを作ること。とくに後者は、ギルモアがとても役に立ってくれた」
男は黙ってパピを見つめた。
「さすがは独裁者だ。相当貯め込んでいたよ。10年、彼の財布の世話になった」
「ギルモアの財産が尽きた後も、社会復帰させたピシア兵の給料の一部を財源にするとは、よくお考えになったものです。おかげで、私の懐も温かい。妻と子どもは帰ってはきませんがね」
「懐が温かいだと?嘘を言うなよ」
パピが男を見つめた。
「知っているよ。君は釈放されたピシア兵のために、部屋、家具家電の全てを用意している。全部、見舞金から支払っているのだろう?」
「幸い、署長の仕事は失わずにすみましたのでね。金には困っていません。彼らに還元した方がよほどピリカの復興を助けるのではないか。そう考えただけですよ」
「優しいね君は」
パピはじっと男を見つめた。
「…ピシアに家族を殺された君が。そのファイルにドラコルルが死亡したと、偽の情報を記入するくらい彼を恨んでいた君が。なぜ今になって、彼の釈放を申し出たんだ?」
パピは傍らのファイルに目をやった。
「そのファイルこそが本物の情報だ。やっぱり許せないんだろう?ドラコルルにも本当は死んでほしかったんじゃないのか?」
「……遺族感情というのは複雑です。苦しみぬいて死ねと思うときもあれば、そんなことを思う自分は、なんて酷い人間なのだろうと葛藤する。許すことも前を向くこともできない自分を見て、死んだ家族は悲しむのではないか?いや、仇をとってくれと願っているのではないか?その繰り返しです。そんなことをずっと考え続けるんです」
パピは黙り込んだ。
法務大臣に就任した20年前、遺族の感情を考慮してドラコルルの死刑が執行されたと、偽のニュースを流した。だが、拘置所に勤務するこの男は、その情報がフェイクであることを知っていた。30年を経て世代交代も進み、人々にとってクーデターはもはや過去の出来事となっている。
しかし、この男だけが30年もの間、葛藤し続けていた。
「…しかし時間というのは残酷だが不思議なものです。独房でただ1人、何年も刑の執行を待つあの男を見て、恨みの気持ちも薄らいできた。あとは副官の存在が大きい」
男は笑った。
「拘置所時代に彼は一度、自殺未遂を起こしている。理由はドラコルルを守るためです。副官の釈放時に、少しはましになったかとドラコルルの死を伝えてみましたが、あの死にたがりは30年たっても全く変わっていなかった。保護司としても、危なっかしくて見ていられませんでした。もうドラコルルに託すしかないと。そう考えた次第です」
「遺族である君が、彼を自由にしたんだ。文句を言う人間なんていないさ。世間的には、ドラコルルは20年前も前に死んでいるしね」
男は微笑みながら、視線を落とした。
「…細々と生きていくのでしょうね。彼らは」
男は続けた。
「来週あたり、副官がドラコルルを連れて私のところにやってきそうだ。果たして、どんな顔をして会えばいいのやら」
「無理して会わなくてもいいんじゃないか?また葛藤することになるだろう?」
「それを承知で、私は退職後に保護司になることを決意した。元ピシア隊員専門のね」
男は、視線をもとに戻した。
「おそらくこの気持ちはずっと続く。殺したいほど憎んだ彼らの支援をやり続けなけれはならない。それが」
男はひと呼吸おいた。
「……私が、2人へしたことの償いになる。…そう思いながら、私は生きていくんです」
パピは男を見つめた。
「…生きていけばいいさ。君も彼らも」
緑の瞳が美しく揺らいだ。
「君が彼らに何をしたかは詳しくは聞かないよ。誰にでも後ろめたいことはあるものだ」
「あなたにも?」
男の言葉にパピは笑った。
「もちろん。事実、私はドラコルルの刑が執行されたと、国民に嘘の情報を流した。嘘をつかないことを信念としてきた私が、とんでもない嘘つきだ」
「私も含め、あの拘置所の職員がひと言情報を漏らせば、あなたはおしまいですね」
「そこは君に感謝している。遺族である君が了承してくれたこと。そして、君が素晴らしい部下に恵まれたこと。君の人柄のおかげだ」
「……守秘義務は守れと。そう言い聞かせただけですよ…」
男は黙りこんだ。
パピは自分に感謝していると言っているが、その気持ちを素直に受け取ることが出来ない。30年前、自分は恨みにかられ、ドラコルルを犯した。部下たちの不正を知りながら、副官が暴行を受けることを黙認した。仕事を失うことを覚悟で内部告発したものの、処分は厳重注意のみという甘いものだった。
元ピシアの人間の立場が、いかに弱いかを思い知った出来事だった。
「…私は感謝されるほど、できた人間ではありませんよ…」
男は静かにつぶやいた。
「ピリカは自由な国に戻った。君が自分のことをどう思おうが自由だ。もちろん周りが君のことをどう思うのかも」
パピは男に告げた。
「私とて、そうだ。ある者から見れば、クーデターの首謀者すら許した心優しい人間。だが、別の者から見れば、死刑執行の命令を下すことが出来なかった臆病者。解釈はそれぞれでいいんだ」
「…あなたから見れば、私は心優しい人間というわけですか」
「違うな」
自嘲気味に笑う男を、パピは静かに見つめた。
「君には、もっとふさわしい言葉がある。君は…」
緑の瞳が優しく光った。
「強い人間だ」
男と別れたパピは、道すがら、かつて自分が地球でドラコルルに言った言葉を思い出していた。
『ドラコルルよ、君が一度でも約束を守ったことがあるか?』
約束は守るもの、嘘はついてはいけないと、大人は皆、そう言い、ドラコルルを罵った。大統領とはいえ、まだ子どもだった自分は、嘘をつかないことは正しいことだと思っていた。だが。
「ドラコルルの死刑が執行されただなんて、とんでもない大嘘だ。それに私はもう一つ、大きな不正をした…」
パピは静かにつぶやいた。
ピシアが敗北し、ギルモアとドラコルルに死刑判決が下されたとき、自分はまだ大統領の立場で、任期は9年も残っていた。当時の法務大臣は、すぐに彼らの刑を執行すべく、命令書にサインした。彼らの命は風前の灯火だったのだ。では、自分は何をしたか?
自分は、当時の法務大臣を金で買収した。
「情報操作と贈賄。とんでもない不正だ…」
薄暗い道を歩きながら、パピは肩を落とした。そのとき、前から歩いてくる2つの人影にパピは気づいた。
…なんだ?
恐らくは男性と思われるが、パピは違和感を感じた。2人は街灯の明かりを避けながら、下を向いて歩いている。内1人は、とても大きな体であるのに、その体は縮こまり、元気のない様子であった。もう1人の男も同様である。
…まさか。
2人の姿にパピは、ある二人組を思い浮かべた。じっと2人を見つめる。
年齢は自分より上だろう、決して若くはない。わずかに街灯に照らされた髪の色は赤と青だ。間違いない。ドラコルルと副官だ。
…会えたんだな。よかった…。
パピの顔に笑顔が浮かんだ。だが、ドラコルルと副官の表情は暗く、会話はない。下を向いたまま、まるで誰かに顔を見られることを恐れるかのように、街灯を避けて2人は歩いている。その姿にパピは理解した。
いくら自由の身になれたとはいえ、彼らは大罪を犯している。自分たちがどんな目で見られる存在なのかをよく分かっているのだ。バレる恐怖もあるかもしれない。
自分たちはもう二度と日向の道は歩けない。
そんな心情がパピには見てとれた。
「大丈夫さ。私も似たようなものだから」
二人組とすれ違ったそのとき、パピは口を開いた。
「君たちがしたことは、決して許されることじゃない。許さない人間もいるだろう。……だが許す人間、許そうと努力している人間もちゃんといる。君たちの罪は私も背負う」
二人組が足を止めた。
「前を向いて歩いていいんだ。償いの道は、私がひらいた。君たちはその道を歩けばいい。いつか笑顔で会えることを願っているよ」
パピはそう言うと、街灯の明かりの中を去っていった。
「今のは…」
パピが去ってしばらくしてから、副官が口を開いた。
「……パピだ」
ドラコルルが答えた。
「ずいぶんとデカくなりましたね…」
「もう40くらいだろう?……笑顔で会いたいと…。そう言っていた…」
「笑顔になれますかね、俺たちは…」
副官がつぶやいた。
しばらくの沈黙ののち、ドラコルルは口を開いた。
「自信はない。だが…」
ドラコルルは副官を見つめた。
「お前と一緒なら。私は、できると思う」
ドラコルルの言葉に副官は微笑んだ。
「俺もそう思います。時間はかかるかもしれませんが、少しずつ、一緒に償っていきましょう」
副官はドラコルルの手を取った。ドラコルルも微笑みながら、副官の手を握り返した。
2つの影が、街灯の明かりの下で優しく揺れていた。
いつの日か、2人が笑顔で日向の道を歩けることを願って
おわり