プロポーズは突然に。『本日の特集です。日本が同性婚を法的に認め、憲法や法律も見直されてから早くも一年が経ちました。この一年で世の中はどのように変わっていったのでしょうか…』
「あっという間だな…」
ズズッとマグカップに入ったコーヒーを啜る。今日はKK様特製インスタントコーヒーだ。一味も二味も違う。と思いこめばリッチになる、はずだ…
「暁人のおかげでインスタントコーヒーじゃ物足りなくなっちまったな…コーヒーなんてどれも同じだと思ってたんだが…」
やっぱり豆にこだわって丁寧に淹れたもんとは味も香りも全然違う「最近のインスタントコーヒーは美味しいから侮れないよ!」なんてアイツは言ってたが…まぁ手軽さを考えれば確かになかなかのもんか。
『今ではシングルファザー同士やシングルマザー同士の結婚も多いんですよ。私もそうなんですが、お互いの苦労が分かち合える家族がいると精神的にも楽です。不安なことも減って笑顔も増えました』
「ほぅ、うまく使ってんだな」
法律なんてもんはうまく使ったもん勝ちだ。良くも悪くもな。
『僕達は事実婚です。結婚しないの?とはよく聞かれますが、お互いに縛られるのがイヤで。でも最近はそういう人も多いので、納得してくれますよ。やっぱり好きなように選べるって良いですよね』
「多様性ってやつか、時代は変わったんだな」
なんでもない日常も変わっていく。いつの間にか常識が非常識に、非常識が常識になる。そんなもんと言えばそんなもんだが。
『やっぱり一番嬉しかったのは家族になれたことです。法的にも認められるのは本当に嬉しいです…』
「家族…か…」
何か変わるのか?自分が失ったものをもう一度得れば…いや、余計な負担を与えるだけだ。
「それにもう、俺にそんな資格はないだろ」
別にそこにこだわらなくたっていいんだ。今は多様性の時代なんだから…
マグカップにわずかに残ったコーヒをグイッと飲みこんだ。
『速報です。有名タレントのーーさんが、撮影中に倒れたとたった今報告がありました。脳卒中の疑いがあるとのことで、現在は病院に搬送され手術中とのことです』
『まだお若いのに、心配ですね…』
『最近は若い年代でも発症するケースが増えてるそうで…』
「大変だな…」
朝から不穏なニュースに心配しながらゆっくりとお茶を啜った。
「ねぇ、KK」
「んー?」
「結婚しよう」
突然のプロポーズにお茶を吹き出し、盛大にむせた。
「うわっ!大丈夫!?KK」
誰のせいで…というかコイツは今、プロポーズ、したのか?誰に?
「ゲホッ…なん、つった?今…お前…」
「え?だから大丈夫?って…」
「ちっげぇよ!!その前だよ!!」
声を荒げると、何故か姿勢を正し始め今世紀最大のイケメン顔で俺を真っ直ぐ見ながらもう一度答えた。
「KK。結婚しよう!」
「お前…正気か?」
「なんで!?すっごく真面目だし、とても真剣だよ」
「ふざけてるだろ」
罰ゲームか何かか?それともドッキリか?なんにせよ、突然プロポーズなんて…
「ふざけてなんかないよ。僕は本当に結婚したいと思ってる。KKとね」
グッと力の入った目で見つめられ、思わず怯んでしまった。なにもかも見透かされそうだ。
「何で…そんな急に」
今までそんな素振りは見せなかった。
「急じゃないよ。実はここ一年色々考えてたんだ」
「考えてた?」
「うん、一年で色々変わっただろ?僕の周りでも結婚したって人が増えてさ…それから色々調べて考えてきた」
コイツは別に結婚なんて考えちゃいない。考えてたとしても別の選択をすると思っていたが…だが、本当にそれでいいのか?
「KKは?」
情報がうまく処理しきれないが、しかしここで勢いに任せて返事をするわけにはいかない。
「別に結婚だけにこだわらなくてもいいんじゃないか?」
「確かにそうだね。他にも選択肢はある…僕もこのままでもいいかなって考えてた」
「じゃあ、なんで…」
「家族になりたい。KKと。恋人のままじゃなくて家族になりたいんだ」
「家族…」
暁人が俺と家族になりたいと思ってくれていたのは素直に嬉しい。だが、俺にもう一度家庭を持つことが許されるのか…?
「けど、俺は残りの時間が限られる。単純に寿命で考えれば俺が先に死ぬ。そうなったら俺は責任を取れない」
もし、俺が死んだらそのあとは?暁人はそれでも耐えられるのか…?
「それは今でも同じ状況だよ。付き合う時からその覚悟はできてる」
確かにそうだ。でも明らかに違う。
「家族になるってことは俺が死んだあとも色々と面倒を見なきゃいけない。まだ未来があるお前にそんな余計な負担、俺はかけたくない」
暁人はうーんと考え始めた。
やっぱり面倒じゃないか?ぽっくり死ぬならまだいいが介護しなきゃならなくなったらそれこそ自由な時間は減る。
「あぁそうか…なるほど。それは良いね」
「は?何がだ?」
「だからさ、それって一緒のお墓に入れるってことだよね?」
コイツ…本気か?俺でも一緒の墓に入りたいなんてプロポーズでは使わないぞ。
「暁人。一応墓は誰でも入れるぞ」
「そうなの!?でも、一応ってことは手続きとか色々面倒でしょ?」
「まぁ、多分…てか、本当に俺と同じ墓に入りたいのか?」
「もちろん!それに…」
「それに?」
「さっきKKはさ、自分が先に死ぬって言ってたけど、僕だって事故や病気で先に死ぬかもしれない。実績もあるしね。そういう時にさ、僕のことをよく知る人って家族以外にはKKしかいないんだよ。よく知らない親戚に僕の遺骨を預けたくない」
「…俺たちは終活の話をしてんのか?」
「でも大事だろ?お互いに身寄りがないんだしさ」
「まぁ、たしかに…」
死んだあとのことなんかちゃんと考えたこともなかった。刑事時代の時は遺言書を書くことはあったが…どっかでのたれ死ぬか、最悪エドがなんとかしてくれるか…
「こうやってこれからのことを考えた時、恋人って意外と曖昧だなって思ったんだよね。でも結婚して家族になったらさ、お墨付きがもらえる感じがして…お墓も一緒に入れたらKKと一生を過ごした証がしっかり残るんじゃないか?ってね」
暁人はこんなに真剣に考えてるっていうのに俺はまだ迷っている。
本当にいいのか?家族になることは正しいのか?
「KK。どうかな?」
しっかりと目を見つめてくる。多分暁人なら俺が迷ってることも、その理由もなんとなく分かってる…それでも俺を捉えて離さない。
俺は…
「…やっぱり俺はお前の未来を奪ってしまう気がして…」
「僕はKKと一緒に未来を考えたい」
いつの間にか手を握られていた。徐々に力の入る手から暁人の真剣な思いが熱を伝って流れ込んでくる。逃げられない。
俺は…!
「か、考えさせてくれ…」
少しの沈黙が嫌に長く感じる。まるで時が止まったみたいだ…
「…分かった。無理じいはよくないね、ごめん。いつでも待ってる」
なぜ謝る?いや、謝らせたのは俺だ…
「すまん。突然のことで整理ができてない。ちゃんと考える」
「いいよ、気にしないで。別れる訳じゃないんだからさ」
ニコッと微笑んだが、フッと離れた手に僅かな安堵と寂しさを読み取った。
俺は…なんて情けないんだ…
「ん?なんか言った?」
「いや…あー、お茶のお代わりをくれないか?」
「あ。ごめん忘れてた」
「責任取ってくれよ」
「じゃあ、結こ」
「おい」
いつもの雰囲気に戻りホッとする。が、このままではいけないよな…
ブーブーブーッ
「あ、KKスマホ鳴ってるよ」
「ん?おお、ありがとう」
ピッ
『やあ、おはようKK。よく眠れたかい?優雅な朝食タイムを邪魔して悪いが、次の仕事の事で相談がある。このあとすぐアジトに来てくれ。相談内容はアジトにきてから話す。それじゃあ』
プツッ。ツーツー…
こっちも唐突だな。しかも暁人と違って俺の都合はガン無視ときた…まぁいつものことだが、今日は助かった。
「エド?」
「あぁ、今すぐアジトに来いとよ」
「そっか。あ、お茶どうする?」
「あー、飲んでく」
「むせないようにね」
「誰のせいだと思ってんだ?」
「ごめんごめん」
コップになみなみと注がれたお茶をむせないよう気をつけながら飲んだ。
「行ってきます」
「いってらっしゃい」
暁人が受け取ったコップにはわずかにお茶が残っていた。
「麻里…ついにさ、やっちゃったよ。KKにプロポーズ…」
KKが出かけたあと、一気に冷静になった。やらかしてしまったと気づいた時には何故か仏壇の前にいた。
「本当はもっとちゃんと準備してさ、タイミングもしっかり整えてから言おうと思ってたんだけど…」
いつも通りの景色。いつも通りの朝食。いつも通りの…
「ニュースでさ、若いタレントさんが病気で倒れたってやっててさ。もしかしたら僕も明日にはいなくなるかも…って考えたら、つい…」
「父さんと母さんだったらなんて言うかな…」
頼るように両親の指輪に振れると、手が重なるような感覚と背中を包むような暖かさを感じた。
応援されている。そんな気がした。
「ありがとう…僕、頑張るよ」
なんでこんなにこだわるのか正直自分でもよくわからない。でも諦めたくない。
「っと、いけない。出かける時間だ!」
でもなんとなく、いけそうな気はするんだ。手を繋いだ瞬間、確かにKKは迷っていたけどそれ以上に嬉しい気持ちが流れてきた。
「いってきます!」
並んだ指輪が光を反射してキラキラと輝いていた。
「ありがとうKK。それじゃあ、今回はその方向で進めよう」
「おう、了解」
仕事の打ち合わせは終わった。が、やけにKKがチラチラとこちらを見てくる。
しかし、こちらが目を向けると逸される。かと思えば、声をかけてくれと言わんばかりに頭を抱えて唸っている…
これが俗に言う構ってちゃんというやつか…面倒だ。
「KK。何か問題でもあったのか?」
バッ!と上がった顔の側に「待ってました!」という吹き出しが見える。これは仕事の問題ではなさそうだ…とても面倒だ。
「あ、いや、その…仕事関係じゃないんだが…実は今朝、暁人にプロポーズされて……」
なんだそんなことか。つい最近、日本でもようやく同性同士の結婚が法的に認められたらしい。昨日ニュースでも取り上げられていたな。
「そりゃよかったじゃないか、お幸せに。ところでこの前の依頼の件なんだが…」
「おい!話を終わらせるなよ!」
話題を逸らせなかった。
さすがにあからさますぎたか…仕方がない、ちゃんと聞いてやろう。
「仲人の相談には乗るが、ボクは適任ではないと思うよ」
「いや、そうではなく…」
ふむ、この様子だとまだOKをしていないな。仕方のないヤツだ。
「キミのことだ。おおかた、ひよって答えを先延ばしたんだろ。暁人の人生がどうのとか言って…」
「ひよっ…!そりゃ大事だろ。付き合うとは訳が違うんだからよ…」
と、言いつつ目が泳いでいる。本当にひよったのか?
「暁人にとって家庭を持つってのは特別なことだろ?老い先短い俺が暁人と結婚するなんて…」
「適任だと思うがね」
「どこがだよ!?責任取れないだろ!!俺の方が先に死ぬ!そのあとはどうする!?」
「はぁ…責任だなんだと言っておきながら無責任なヤツだな。今更暁人の人生がどうのなんて…矛盾している。付き合って何年目だい?」
「それは…」
「覚悟ができていないのは君の方だろ?KK。一体何に対してそんなに怯えている?」
図星を突かれたのか。苦虫を噛み潰したような顔をしている。
「俺は…別に、そんなんじゃ…」
あからさまに顔を逸らし、吐き出す言葉も尻すぼみになってく。これは別の問題がありそうだ。
「結婚をするということは家族になるということ、つまりお互いの人生の責任を持つということだ」
「だから、そう言ってるだろ…!」
「話は最後まで聞くものだ、KK。だから恋人のままでいれば無駄な責任を負わなくて済むと考えたんだろ?浅はかだな…」
暁人なら上手く引き出すんだろうが、ボクはそういうのは得意じゃない。少し煽って感情を出してくれればいいが…
「俺は…!俺は、暁人の未来を思って…」
「未来を思って?で、あればそもそも付き合うこと自体が間違っている。中途半端な支えはお互いの為にはならない。それとも?君はお情けで付き合っていたのかい?」
「違う!!断じてそんなことは!!」
「で、あれば何故だ?何故逃げる?」
「それは…」
まったく、強情なヤツだ…今に始まったことではないが。
「暁人はキミを簡単に捨てるような薄情なヤツなのかい?」
「そんなことはない!逆だ」
「なら、何故恐れる?」
「…俺は、恐れてるように見えるのか…?」
「あぁ、かなりね」
「そうか…いや、そうだな。俺は恐れてる」
何かに気付いたのか、やっと本心を吐き出し始めた。自分でもどういう状態かわからなかったんだな。
「いや、暁人を信じていないわけではないんだ、むしろ暁人しかいないと思ってる」
「そうだろうな」
「でも、いざ結婚を考えると怖くなる…自分でもよく分かんねぇんだ」
「ふむ…ではなぜ付き合うのは大丈夫なんだ?」
「何故って…あれ、何でだ…?」
なるほどな…
「KK、それはトラウマだ」
「トラウマ…?」
「そうだ。キミは過去の結婚や家族に対して自分自身が思っている以上に傷ついている。だからこれ以上傷つかないようキミの心は防御しようとしている」
「そう、か…そうか…」
KKは胸に手を当て俯いている。
「俺は…どうしたら…」
「ボクは見ての通りカウンセラーではない。君の悩みを受け止めたり、的確なアドバイスもできない」
「そう、だな…」
こんな時、絵梨花や凛子がいてくれたらまた違ったんだろうが…もういない二人をあてにしても仕方がない。
「だが、一つ忠告しておこう。そのままでは確実に後悔する。また失ってから気づくことになるぞ」
「………」
まるでボクが悪者みたいだ。まぁしかしその面もある。はぁ、苦手なんだこういうことは…まだデイルが聞いてくれた方がマシだ。
「…キミなら本当は分かっているハズだ」
「…?」
「失うことを恐れ続けていたら、何も得られない」
「……!!」
「トラウマは確かに辛い。治療も難しい。でもずっと恐れていたら前に進めなくなる。どんなに辛くても己と向き合わなければならない。そうだろう?」
これはKKと暁人が教えてくれたことだ。ボクに足りない部分を二人は持っている。合理的なことだけが正しいわけではない。
「そうか、忘れかけてた…そうだな、そうだよな…ありがとうエド」
「はぁ、キミは全く…世話の焼けるヤツだよ」
「でもそういうところも案外好きだろ?」
「あぁ、とても興味深いね」
「研究熱心なこった」
吐き出して多少スッキリしたのか、ボクのアドバイスがたまたま効いたのか、いつもの調子が戻ってきたな。
「今日は誰かさんのせいで喋りすぎた。喉が痛い」
「たまにはちゃんと喋んねぇと、いざって時に使いもんになんねぇぞ」
と、言いつつKKはお茶を用意してくれる。そういう所も憎めないな。
「エド、悪いな…世話かける」
マグカップを受け取り、ズズッと一口啜る。
「ボクも言いすぎた。慣れないことはするもんじゃない」
お互いに変わった気がする。以前は互いに腹を割って話すことをなるべく避けていた。それが気遣いだと思っていたし、大人だと思っていた。
けど、暁人が関わるようになってから化学変化が起きたようだ。彼は本当に周りをよく見ているし、よく気がつく。
だが彼はまだ若い、脆い部分もある。だからこそKKが必要なんだ。
KKは子供っぽい部分もあるが、やはり大人の余裕がある。経験値の差は大きい。
暁人は同年代と比べるとかなり大人っぽいが、だからこそ我慢して無理をしやすい。KKにはうまく子供らしい部分を引き出してもらいたいのだ。
「ボクは歓迎だ。むしろ、まだ結婚しないのか?と思っていたくらいだ」
「そんなに、か…?」
「あぁ。まぁ、キミが悩むのも無理はないが…」
「いや、俺も色々考えすぎてた。ちゃんと向き合うよ」
「そうしてくれると助かるよ」
残りのお茶を啜りながらふと時計に目を向けると、KKも釣られてそちらに目を向けた。
「っと…もうこんな時間か…」
「長引いたな。今日はもう帰って大丈夫だ。後はコッチで処理しておく」
「さっきなんか聞きたいことがあったんじゃねぇのか?」
覚えていたのか。そういう抜け目ないとこはさすが元警察官といったところだな。
「あぁ、あれは大したことじゃない。今じゃなくてもいいんだ」
「そうなのか…?」
「KK」
「なんだ?」
「無理はするな。ボクやデイルもいるし、今は暁人もいる。頼れるものは全部頼れ」
「…あぁ、そうだな」
ボク達は失ったものが多い。だからこそ互いに支え合わなきゃ簡単に崩れる。同じ過ちは繰り返しちゃいけない。
「ありがとう、エド」
「構わない。それよりも、早く帰って暁人とちゃんと話し合え」
「分かったよ」
ヒラヒラと手を振る。お互いにもう見送ることもない。ガチャッというドアの音を後ろでに聞き、KKは部屋をあとにした。
「…Good Luck…KK」
一人になった部屋で祈るように呟く。
KKがいなければ、このチームはとっくに終わっていた。彼が精神的な支えになっていたのは言うまでもない。
救われていたのは我々の方だ。
だからせめて彼に、幸せが訪れますように………
完全に見誤った…
ズキズキと脈を打つ頭痛が徐々に大きくなっていく。
僕としたことが、いつもの薬を切らしていたなんて…そんな日に限って忙しくなり、薬局へ買いに行く余裕もなくやっとの思いで帰宅した。
幸い薬箱に頭痛薬は残ってはいたが、痛みが激しくなってから飲んでも効果は薄い…
「う、ぐ、あ…」
光も、音も、匂いも…五感から感じる情報全てが痛みへと変換されていく。
一気に変換された情報が頭の中でガンガンと鳴り響き、今にも割れてしまいそうである。
「いっそ…」
いっそ脳みそを割って取り除けたら…
一層激しくなる痛みで涙が止まらず、酷い吐き気に襲われる。
「うっ…ぷ」
瞬間、口中に唾液がドパッと溢れ出す。
吐きそうになるのをなんとか堪え、ズルズルと壁をつたい身体を引きずりながらもなんとかトイレに辿り着く。
「はあ、はぁ…ゔっ、ぶっ」
「ぅっ、ふぅ…はー…」
少し痛みが増しになったような気がする…吐くという行為は何回経験しても慣れやしない…
あぁ、口をゆすぎたい…しかし吐くことに体力を使い果たしてしまった。ズルズルと這うようにどうにか廊下へ移動するが、動くたびにまた痛みが増す。
もう何にもしたくない。ひんやりとした壁と床が気持ちいいのが唯一の救いだ。
「つらい…」
考えるのもしんどい。目を瞑ってもなぜかチカチカと光って鬱陶しい。
「あぁ…」
また涙がポロポロと流れていく…このまま痛みと一緒に流れてくれればいいのに。
悲しいわけではないのに頬を伝うその感触が心にまで浸食していく…
誰か…だれか……
ガチャッ
「ただいまー…っと、暗いな」
おかしいな?確か暁人は既に帰ってきてるはず…
コツリ、と何かが足に当たる。
「暁人の、靴…?やっぱり帰ってるのか」
暗くて分かりづらいが、確かにある。
が、あらぬ方向に転がっているようだ。暁人はいつもきちんと揃えてるんだが…何か様子がおかしい。
少し鼓動が早くなるのを感じ、思わず深呼吸をする。
「あきと?いるのかー?」
靴を脱ぎながらパチンと電気をつけた瞬間、バクンッと心臓が跳ね上がった。
「暁人!!どうした!?」
目の前の廊下にはグッタリと横たわった暁人がいた。
思わず脱ぎかけの靴で駆け寄り、肩のあたりを叩きながら呼びかける。
「暁人!聞こえるか!暁人!!」
「ぐ、うぅ…け、けぇ?」
良かった!意識はある。俺のことも認識してる。
「大丈夫か!?」
「う…うぅ…少し、しずかに…頭が…」
頭…?頭痛か?飲み過ぎた…?
いや、今日は飲み会の予定もないし、暁人は一人で飲むタイプでもない。
「頭が痛いのか…?」
暁人はゆっくりと頷いた。
「立てるか?」
今度はゆっくりと首を横に振った。喋るのもかなりしんどそうだ…
「ゔぅ、いたぃ…」
ポロポロと涙を流しながらも痛みを堪えるようにギュウゥと服を掴まれ、思わず抱きしめる。
「大丈夫、大丈夫だからな」
優しく背中を撫でながら、暁人を不安にさせまいと言い聞かせるセリフが、何もできずにいる自分へと返ってくる。
どうすれば、どうすればいい?
「k、K…」
「なんだ?どうした?」
「びょういん、に…」
「病院…?」
瞬間。バッと今朝の出来事が頭を駆け巡った。
『速報です。タレントのーーさんが、撮影中に倒れたとたった今報告がありました。脳卒中の疑いがあるとのことで、現在は病院で手術中とのことです』
サッと血の気が引くのを感じた。
暁人が倒れてからどのくらい時間が経った?そういえば暁人が倒れてる場所はトイレの前じゃないか…?もしかして吐いたんじゃないか?立てないということは?動けないということは…?
バッと並べられた仮説が一つの最悪の可能性にたどり着く前に、身体は勝手に行動していた。
暁人を背負い、ズレないようワイヤーで固定する。
「ゔっ!え?」
今の時間、道は帰宅ラッシュで混んでいる。タクシーや救急車じゃかえって時間がかかる、ならば自分が行くしかない。
「暁人、ちっと我慢しろ」
「け…!?」
おんぶなんていつぶりだ?息子よりは確実に重いな。
…今はそんなこと考えてる暇はないな。
自分に鞭を打ち、馬のように駆け出す。
焦る気持ちの中、都会の景色は一層華やかさを増していった…
『お父さん!おんぶして!!』
『お、いいぞ!暁人は大きくなってもおんぶが好きだなぁ』
違うよ、父さん。父さんが好きだから…麻里が産まれたあとは中々2人で過ごす時間は取れなくなった。だから2人で遊ぶ時は必ずおんぶしてもらったんだ。
それが一番、父さんを感じれたんだ。
『暁人。一人で考えちゃダメだぞ。ちゃんと二人で考えるんだ』
父さんはそればっかだな…
麻里ともっとちゃんと考えればよかった。
『暁人。お前は一人じゃない。だからちゃんと伝えるんだ』
父さん…
『家族はどんな時でもお互いを助け合えるから家族なんだ。それを忘れちゃいけない』
分かった。分かったよ…
ありがとう、父さん。
ありがとう…ありがとう……
目を覚ますと殺風景な天井が目に入った。
「知らない天井だ…」
いつの間にか眠っていたのか、それとも気絶していたのか…
「俺に乗るといつもこうだ…ってか?」
声のした方向を向くと、KKがパイプ椅子に座っていた。
ゆっくりと身体を起こそうとしたら、KKがベッドを操作して起こしてくれた。痛みはもうすっかり引いたみたいだ。
「このセリフ、言ってみたかったんだよね」
「お前も知ってんだな」
「父さんがね、好きだったんだ。アニメを何回も見てたよ」
「なるほどな」
他愛もない会話。病院にいるとは思えないや。
「KK、ごめんね」
「何がだ?」
「僕、偏頭痛持ちだったんだ」
「あぁ、医者から聞いたよ。通りで薬箱に頭痛薬が多めに常備されてるはずだ」
んーっと伸びをし、ポキポキと肩を鳴らしながらそう答えた。ずいぶん待たせていたみたいだ。
「今回は持ち歩いてた分をたまたま切らしちゃってて…」
「そうか。いや、俺も今まで気づかなくてすまんな」
「ううん」
「一応、MRIは撮ったぞ。それとお前は事故の件もあるからな、念のため検査入院だそうだ」
「そっか。MRIの結果はどうだった?」
「傷ひとつない綺麗な血管だとよ」
「良かったぁ」
実は最近、頭痛が増えていたから少し心配だったのだけど、それなら良かった。
安心からか、はぁと息が漏れた。
「あぁ、本当にな……」
しばしの沈黙が流れたと思ったら、隣で啜り泣くような音が聞こえてきた。
KKを見ると少し背を向け、顔を逸らしていた。
「ねぇ、もしかして泣いてる?」
「?」
これは当たりの時の反応だ。
KKでも泣く時があるんだ…あまり見ないでおいてあげようか…
「あきと…」
「なぁに?」
「暁人」
何でもない風に返事をしたけれど、今度はしっかりと名前を呼ばれた。
振り向くと、KKはホロホロと涙を流しながらも僕のことをジッと見ている。
なんだか今にも吸い込まれてしまいそうだ。
「KK…?」
しばらく見つめていると、僕の手を祈るように両手でギュッと包みこんだ。
「たのむ…頼むから、俺より先には、死なないでくれ…」
「K、K…」
掴まれた手からKKの感情が流れてくる。
焦り、不安、絶望…こんなに心配させているとは思わなかった。
強い人だと思っていた。僕なんかよりもうんと。でもこんなKKは初めて見た…
「KK、大丈夫だよ。大丈夫…」
KKの頭を包むように優しく撫でると、少しずつ安心していくのが分かる。
「俺は、怖かったんだ…また裏切られたり捨てられるんじゃないかって…」
「うん」
「もちろん、暁人はそんなことするヤツじゃないって分かってる…分かってるんだが…思い出すんだあの時のことを」
フラッシュバック、というやつだ。僕も何度も経験した。
「ごめんね、KK」
「なんで謝る…?」
「知らなかったから。KKがそこまで怖がっていたって気づかなかった」
「そりゃ、俺は言ってなかったし…そもそも俺自身も気づいてなかったんだから仕方ねぇだろ」
「でも、僕達はなんとなく分かる。こうして触れ合うとお互いの感情は分かるでしょ?」
「確かに…そうだが…」
あの後から僕達は触れ合うと互いの感覚や感情をなんとなく共有できるようになっていた。やはりまだ心は繋がっているんだろう。
「だからね、分かるよ…独りになるのが怖いことも」
時々KKは同じ空間にいても、急に僕を探す時がある。見つけると安心したように作業に戻ったり、しばらく側にいたり…
寂しがりなところがあるんだと思っていたけど、あの行動はフラッシュバックの影響だったんだ。
「でもやっぱり限界はあるね。僕達は心の共有に慣れすぎて、ちゃんと伝えることを疎かにしていたかもしれない」
「確かに…そうかもな」
「父さんにも言われたんだ、ちゃんと伝えろって」
「…そうだな、ちゃんと伝えないとな」
「暁人」
KKはいつになく真剣な表情で真っ直ぐ僕の目を捉えて離さなかった。
「俺と、結婚してほしい」
「え…??」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。戸惑っていると、しっかりと手を掴まれ、もう一度確かに言った。
「暁人、俺と家族になってほしい」
「K、K…?なんで…」
KKの手は少し震えていて、怯えを感じる…本当は辛いんだ…
「エドに、言われたんだ」
「失うことを恐れ続けていたら、何も得られない。辛くても向き合わなきゃいけないって」
手は震えている。けどそれ以上に覚悟を感じる…
「俺はこんなんだ。まだ頼りない…それでも暁人、お前と前に進みたいんだ」
すごく嬉しくて、最高な気分なのに溢れてくるのは笑顔じゃなくて涙だった。
「あき、と!?もしかして、まだ痛むのか?!」
KKは慌ててナースコールに手をかけようとしている。
「ちが…違うよ、KK。すごく、すごく嬉しいんだ…」
痛みがあった時よりも流れてくる。何度拭っても止まらない。
「ありがとう…けぇ、け…」
「あぁ…遅くなってすまない」
「フフッ、まだ1日も経ってないよ」
「あ?そうだったか…もう、今日は色々ありすぎて疲れた」
はぁと息を吐き、肩をすくめている。
「暁人」
「うん?」
ガリガリと頭を掻き、なんとも言いづらそうにしている。
「…ちなみに、返事は?」
「えぇ?!聞くの?」
「いいだろ別に!こういうのは分かってても気になんだよ…」
「フフッ、そんなの…」
ベッドから勢いよく身を乗り出すと、 KKが慌てて抱き止めてくれた。
「あ、暁人!お前…」
焦ったKKを無視して、ギュッと思いっきり抱きしめた。ありったけの思いも込めて。
「もちろん!良いに決まってる!!」
強く強く、抱きしめた。今度こそ離さない。離さないから…
殺風景な部屋に急に花畑が咲き誇ったかのような、鮮やかで華やかな景色が広がっていた。
その中心で一層輝かしく笑い合う二人の姿…
「まったく、世話の焼ける…帰るぞデイル」
隣に立つ大男が静かに頷き、エドにボソボソと何かを伝える。
「は?せき、はん?日本では祝いの時には赤飯を炊くって?」
デイルはうんうんと頷いていた。
「はぁ…分かった。おめでたいからな…準備をしよう」
グリズリー並に脅威がありそうなその顔は、満面の笑みを浮かべながらエドに催促する。
「分かった!分かったから。まったく、世話の焼けるヤツらだ…」
病院から出るとすっかり冷え込んだ空気に身震いする。
はぁ、と白い息を吐きながら夜空を見上げると、ネオン煌めく夜景に負けじと輝く星がふたつ。
デイルはそれに気づき嬉しそうに指を指した。
「あぁ、そうだな…絵梨花と凛子も祝福してくれている」
デイルはテンションが上がったのか、エドの腕をグイと引っ張り走り出した。
「おいデイル!ボクの、体力を考えろ…!」
まるで制御の効かなくなった大型犬のように勢いよく駆けていく。
「HA HA HA!Congrats!Congratulations!!」
「、クソッ!…二人の未来に幸多からんことを!!」
祝福を叫び、走りゆく二人の背後では、こちらも負けじと光り輝く星がみっつあった。
Fin.