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    巨大な石の顔

    2022.6.1 Pixivから移転しました。魔道祖師の同人作品をあげていきます。

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    巨大な石の顔

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    サンサーラシリーズ第三章。オリキャラ視点の話。原作にはない捏造たくさん。ここから鬱展開のトンネルに入ります。

    #魔道祖師
    GrandmasterOfDemonicCultivation
    #曦澄
    #オリキャラ注意
    orientedCharacterAttention

    明知不可而為之(五) 新年を迎える準備で江湖はそろそろ浮足立ち始めた。
     一時ふしぎと増えていた妖魔鬼怪は降雪をさかいに季節の廻りに従ったのか激減した。領地の陳情も減って蓮花塢では久しぶりにゆったりとした時間が流れていた。若い門弟たちは鍛錬に力を入れているか遠方に実家があるものは帰省を始めている。
    そんな中、白蓮蓮は崖の間に通した一本の綱の上でも歩かされているかのように神経を張りつめていた。
     姉の白鳳梨(フォンリー)から店で師兄たちが師父と沢蕪君の仲を噂していたと聞いたからだ。姉によれば決してお二人の仲を歓迎している雰囲気ではなかったらしい。
    お二人の仲が門弟の間で広まったらどうしようとそわそわしながら、蓮花塢内の様子を少女はこの一月ばかりこっそりうかがっていた。今のところは二人の関係について食客や門弟たちが下世話に噂し合っている様子はなかった。
     ただ、江宗主の忠犬と言われている師兄がもはや師父を視線で追いかけなくなっていた。彼は蓮蓮以上に師父に付き従い酔心していたのに。むしろあからさまに師父のことを避けるようになっていた。幸い師父はまだそのことに気付いていないようだが。
    あの門弟一剣の腕が優れ仙師として有能な人が雲夢江氏から離れることもありえるかもしれない、と彼女は爪を噛む。ひょっとしたら他の門弟たちも率いて。
     もし沢蕪君との関係のせいで、万が一雲夢江氏の門弟が白蓮蓮たった一人になったとしても彼女は師父の背中から離れるつもりはない。もし雲夢江氏という大世家を師父が突然畳むことがあっても――そんなことはきっとありえないが――仙師として独り立ちできるようになるまでは師父がどこへさすらおうと彼に引っ付き虫のようにくっついていく。
     白蓮蓮が最初雲夢江氏へ入門を希望したのは父親のような立派な仙師となって江宗主を支えようと、疫病で父親を亡くした蓮蓮一家を何かと気にかけてくれた師父への恩返しのつもりだった。
     だが今は六芸に励んで仙術を学ぶことが少女は楽しくてしょうがない。剣に乗って鳥のように空を飛べるし暮らしに便利な呪符や霊器などを発明すればお小遣い稼ぎにもなって一挙両得だ。夜狩りだってこの広い世にはこんな存在がいるのかと行くたびに目から鱗が落ちる思いをしている。日々をこんなに楽しく過ごせているのに、師父の交友関係が原因で自ら雲夢江氏を去ることなどありえない。
     この秋白蓮蓮は、江宗主が金麟台で療養している間毎日金麟台と蓮花塢を往復した褒賞として雲深不知処の蔵書閣へ初めて足を踏み入れた。
     雲深不知処はかねてより噂に聞いていた通り、山の奥深くに立つしみじみと心洗われるような趣のある仙府だった。金麟台の荘厳かつ華麗な佇まいとは全く異なる。おまけに調度品類や飾られている書画、一杯の茶杯に至るまで地味で目立たたないようでどれも一級品ばかりだった。交易の町で生まれ育った彼女は華美な美術品や高価な日用品に接する機会が多いから少しは目が肥えているつもりだ。
     蓮花塢は一度焼き討ちにあって建て直したからか、調度品類などに力を入れているのは客間や応接間など客人が通されるところぐらいで、他の内装は大世家の仙府とは思えないぐらい質素すぎるといって良いぐらい簡素だ。師父の執務室でさえ、金麟台のようにみるからに豪奢な大壷や優美な書画など一切置かれていない。
     そのせいか、『江宗主は金持ち貧乏だ』『宗主は風流を解していない』などと町で陰口を囁かれているが、一時期宝玉や装飾品などを買い込まれていた噂は耳にしたことがある。
     師父がそれらを身につけられていることは当然なく、おそらくはふたたびの災難に備えていざというとき持ち運びしやすく換金しやすい財を蓄えているのだろうと蓮蓮は思っている。
     そんな危機管理意識の強い宗主に師事している若い門弟が、盗人など忍び込めないだろう山奥の仙府でもっとも興味をそそられたのは、貴重な蔵書を守るために大師兄が張った特殊な陣だった。
     珍しい蔵書を手に取るかたわら、蔵書閣で魏大師兄はいったいどんな陣を張られたのだろうと白蓮蓮は目をさらのようにしてそれを探し回った――途中、師父と沢蕪君がそれはもう情熱的に口づけしあっていたのを目撃したときには年頃の娘は悲鳴をあげそうになったがむしろ好都合だと気を取り直し、そしてとうとう巧妙に隠してあった陣を少女は発見した。
     その場で陣の図を頭に叩き込んで蓮花塢そばの町にある実家へ帰って丹念に解読した。蓮花塢の宿舎にも部屋がある彼女にとって、実家の部屋は仙術の実験室と化している。
     鍛錬の合間に蓮花塢の門限ぎりぎりまでここで研究しては宿舎へ帰るのを繰り返し、ついに遠方にいながら蔵書閣の陣を解除する方法を編み出した。
     返却期限の直前に解除してそしてまたすぐ元の陣を起動させたとき、自分のそばになにごともなく借りた本が残っていたのをみて彼女は快哉を叫んだ。雲夢江氏の若い門弟が伝説の大師兄魏無羨を出し抜いた瞬間だった。
     今も雲深不知処の本は白蓮蓮の手元にある。読み終わったらまた解除して返却すればよかったが、何度も陣の解除を繰り返すと大師兄に気付かれてしまうおそれがある。だから師父が雲深不知処にいる沢蕪君へ会いに行かれるとき何か理由をつけてお供してそこでこっそり返そうと思っていた。
     だがそんな機会は永遠にやってこないことを、新年直前に彼女は目の当たりにすることになる。


     今日も朝から実家の自分の部屋で師父のために新しい発明品をごそごそ作っていると、姉に「小蓮、江宗主がいらっしゃったわよ」と扉越しに話しかけられた。
     手を止めて急いで店の前に行くと、校服ではなく見慣れない装いをした師父が店の前に立っていた。昼どきを過ぎていたが実家の料理屋はまだにぎわっていたので衝立の奥の席に姉妹は雲夢江氏宗主を案内した。いつも夜に店へ来る彼がお昼どきに来るのは珍しいと二人とも思いながら。
     他の席から見えないように用意された大きな衝立には、一輪の開きかけた蓮のつぼみを手にした観音菩薩が描かれている。この菩薩様は沢蕪君のように柔らかい穏やかな表情は浮かべておらず、どこか冷ややかにこちらを睥睨している。母はこの菩薩がどことなく師父に似ていると思って店を始めるときにこの衝立を買ったそうだ。
     蓮蓮は師父と似ているかと言われると首をひねるしかないが、この菩薩様がそんな冷淡な顔立ちになってしまったのはおそらくこの世に対して何か心かき乱される出来事があって、ひどく疲れてあきらめてしまったからだと思った。
     だからか、その手に持つ蓮のつぼみは悟りを得ることの象徴として今から開こうとしているのではなく、大きく花開いた後閉じようとしているかのようにみえた。
    「江宗主、いつものでよろしいですか?」
    「いや酒はいらん。小蓮、お前も席に着いて一緒に食え」
     江宗主が姉に頼んだ注文は、品書きにある季節の料理を数品だった。普段ならば師父は、今は亡き父の得意料理を頼む。
     ここだけの話だが、父は母よりも料理が上手だった。夏場に師父がくれば蓮蓮の母親は特別に西瓜の皮炒めをふるまう。それは父が修行時代に雲夢江氏の家宴で作って蓮花塢の人たちに食べさせていた一品らしく、師父のひそかな好物だ。
     今日はさらに珍しいことに、師父は手土産まで持ってきてくれた。
     しっかり封がほどこされた小さな甕は、灰色の釉薬がかかり、このあたりではみかけない植物の絵で彩られている。甕の表面を蔦のように這って覆う目にも鮮やかな朱色に、交易の町で育った娘たちはそれが南方の品だと一目でわかった。たしか数日前に江宗主はどちらかへ出かけ蓮花塢を不在にしていた。
    「阿梨(アーリー)、ここにはなんとお前と同じ名前の果物の砂糖漬けが入っている。店が終わったら女将とお前たち三人で食べればいい」
     師父は面白がるように笑って小さな甕を姉に渡した。受け取るとそれは嬉しそうに姉は柔らかく微笑み礼を述べた。
     母に似て目鼻立ちのくっきりした美しい姉は、よく男性客から恋文をもらっているが師父と沢蕪君の仲を知っていてもまだ師父のことが好きなのだ。
    「師父、ひょっとして先日は南の地へ行ってらっしゃったのですか?」
     師匠は弟子の問いには答えずに品書きに目を通していた。新しく増えた酒の種類が気になっているようだ。飲みたいのに飲まない。ふしぎだった。
     こんなときもっと子供だった頃は、きゃんきゃんと子犬のようにしつこくまとわりついて答えてくれるまで何度も江宗主に問い質していただろう。
     けれど、弟子になってからはぎろりと稲妻のような鋭い視線で睨まれるか躾のごとく紫の長い鞭を足元に振り下ろされる。だから白蓮蓮は答えるつもりはないという宗主の意図を汲んでそれ以上同じことを問わなかった。
     師は、普段はきっちり結い上げている髪をほどき地味な束髪冠でひとくくりにして後ろに流している。装いも袖の短い上衣で動きやすさが重視されているが、雲夢江氏を象徴する紫を排して大水青色の上衣に振り袖のない黒い内衣、白い襦袢という組み合わせだ。
     まるで諸国を渡り歩いている名もない流浪の修士のようで、右手の紫電がなければ雲夢江氏という大世家の宗主だとはだれも気付くまい。凛として近寄りがたい美貌も、精彩にかけている。
     冬至の翌日に雲深不知処を訪問されてから、苛烈で名が通っている江宗主はここのところどうも冬の空模様のように物憂げだ。師父からおそらくは沢蕪君から贈られただろう花のような甘い香りもしなくなった。沢蕪君と喧嘩でもしたのだろうか。師父に怒られてもしょうがないことを沢蕪君はなさっていると蓮蓮はかねてから危うんでいた。
     とくに気がかりなことがある。今から二週間ほど前のことだ。例によって波止場から少し離れた蓮花湖のほとりで、蓮蓮が通行人や船頭相手に温かい甘酒を売っていたら師父が今日のようにふらりと現れた。
     蓮の枯れた蓮花湖では、この時期北方から渡ってきた多くの水鳥がつがいであるいは雛を連れて群れをなして悠々と泳いでいる。船の出入りがあるのでこの湖で狩猟は禁じられていた。おかげで冬場は水鳥たちの楽園になっている。
     この辺りは北の地で暮らす鳥たちが越冬してくる程度には温暖な土地柄ではあるが、蓮花湖のそばをそよぐ風は新年に近づくごとに強く冷たくなっていた。
     師父はその日防寒のためか、首まで隠れるような高い襟のついた白鳥のように真っ白で厚手の外套をまとっていた。
     白蓮蓮は江宗主と『彼女が』赤ん坊のころからの長い付き合いだと自負しているが、この人が雪のように白い衣に袖を通しているところを見たのは彼女の父親の葬儀ぐらいだ。その暖かそうな外套はどなたから贈られたものなのか、火をみるよりも明らかだった。
     男が好きな相手に衣を贈る、その心はそれを相手に着せて脱がせたい願望があるとかないとか。『大世家物語』の作者が書いた別の話『黒色夜叉』でえた下世話な知識を、このとき年頃の娘は思い浮かべた。
     竹で作られた長椅子に腰かけた師父に、若い甘酒売りは恭しく温かい茶杯を渡した。ひきかえに小銭を弟子の白い手のひらに落として、師は皮肉気に唇の端をあげる。
    「今日は相場通りの値で売っているようだな」
    「だから何度も申し上げているように、あのときの値段はふっかけたわけではなく、容器代と輸送費と私の手間賃を加味して自然とそうなったんです」
     甘いものがあまりお好きでない師父が甘酒を飲みに来るのは珍しいと思ったら。
    その言葉から、この心配性の師匠は不肖の弟子がまたぼったくろうとしていないか様子を見に来たのだなと内心うげっと舌をだした。
     若い門弟だけが参加する六芸の大会会場にて、平均価格より三倍の値段で各世家の宗主や門弟相手に甘酒を売ったところ、白蓮蓮はあとで師父に激怒され主管からもしこたま説教された。
     いわく、値段は世家の財力からすれば少額であってもふっかけたとわかれば侮られたと各世家から白蓮蓮はもとより雲夢江氏が不評を買いかねないとのことだ。
     乾坤袋では甘酒をいれた甕がひっくり返るおそれがあったので、物を輸送するのに特化した伝送符を使って白蓮蓮は会場へ送った。
     その特殊な伝送符を発明するのにかかった手間や消費した霊力のことを思えば三倍でも安いくらいだと彼女は未だに思っているが、これからは仙門世家を相手にする場合は慎重に見極めて商売をすることにした。父のように兄のように慕っている大好きな師を世間の敵意にさらしかねないことは、彼女の望むところではないからだ。
     師父は甘酒を何口かすすると、茶杯を脇に置いて懐から一通の手紙を取り出して読み始めた。
     接客しながら蓮蓮がちらりと覗き見たら、みるからに上質の紙には巻雲紋の透かしがところどころ入っていた。きっとあの方からの恋文だろう。
     そうやって白い衣をまとって一人ぽつんと座り手紙を読む師父の姿は、外套の色もあいまってまるで群れからはぐれた白鳥のようにみえた。
     もし恋文を送るくらいならいっそ姑蘇から飛んで来て直接囁いて差し上げてほしい、と蓮蓮はこのとき思った。
     大師兄が雲夢を去った後、とうとう師父の隣に立つ方が現れてくれたと思ったのに、今また彼のかたわらには誰も座っていない。
     白蓮蓮はもし師が敵に囲まれ崖の端に追いつめられていたら全力でお助けするつもりだが、雲夢江氏の大師姉となってその隣に立ちたいとは露ほども思っていない。
     駆け出しの仙師は、紫の長い髪紐をひるがえしながら前を向いて歩いている広い背を追いかけ、そしてその背をいつか追い越したいと願っていた。それが入門を許し、白蓮蓮の才を認めて最大限伸ばそうとしてくれる師への恩返しのように彼女は最近考えている。
     一人の仙師として、風にのって天高く羽ばたく鳥のように、亡き父親や師匠でさえ、夷陵老祖でさえ見たことのない境地まで行ってみたい。それが父と同じ仙門に入った今の少女の願いだ――はるか遠い未来において、白蓮蓮は例の棺からひそかに取り出され復元された陰虎府を無効化する霊器を発明し、彼女の故郷である蓮花塢はもとより江湖を陰謀の黒い炎から救うことになる。それはまた別の話だ。
     蓮蓮が新しい霊器や呪符を発明すると、主管や先輩たちから「また雲夢の大師『妹』が何か新しいおもちゃを発明した」とからかわれるが、一生師匠のそばにいて支えるというようなことは彼女にはできないと思っていた。それはまちがいなく沢蕪君の役目だと、この半年ほど二人を見守ってきた娘は信じているし師父こそそれを望んでいる。
     師父が金麟台から帰還されたとき主管は「金麟台へ行ったとき、内密の話だろうからと席を外そうとする沢蕪君を宗主はいつもそばに引き留めたんだ」と驚きと戸惑いがないまぜた表情を浮かべながら、お二人は深い仲なのかと白蓮蓮に遠回しに問い合わせてきた。ませた娘は師父が沢蕪君に蓮の実を手ずから食べさせているところを見ましたと答えたら大いに納得したかのように「そうか、そうか。宗主にもとうとう春が」と嬉しそうに何度も頷いた。沢蕪君は浮世離れした風貌ながらも大世家の宗主だと納得させるような的確な進言をいつもしてくれたそうだ。師父はかつて蓮蓮に見守りを命じた絵師の正体が誰なのかさえ教えてくれなかった。なのに、沢蕪君は他家の宗主にもかかわらず蓮花塢の内情を共有してもかまわないと判断された。つまりそういうことだ。
     ちなみに先代のときから江家に仕えてきた主管は、沢蕪君がもし蓮花塢で暮らすことになったらお祝いに久しぶりに家宴を催そうとひそかに計画している。
     白竹の長椅子に足を大きく開いて座る師父は雲深不知処からの書簡を読みながら眉間の皺がどんどん険しくなっていった。情人から愛を囁かれたゆえの照れ隠しにしては、ずいぶんと刺々しい気が彼の体から立ちのぼる。
     いったい何が書かれていたのか、沢蕪君はなにを書いて送ってきたのだろうか。それとももしかして沢蕪君からの手紙ではないのだろうか。
     まるで決して逃げられない決闘状を受け取ったかのように苦々しく陰鬱な表情を浮かべている。差出人はまさかの魏大師兄だろうか。
    手紙をぎゅっと握りしめると右手の紫電をひと撫でして懐に戻した。先輩たちは宗主が紫電を撫でるときは強い殺意を抱くときだと囁いているが、本当にいったいこの手紙は誰の手によって何が書かれていたのだろう。
     甘酒を一気に飲み干すと立ち上がって蓮蓮に器を返した。そして蓮蓮の家族の近況など軽く雑談をして彼はその場から立ち去った。師父はその日を境にさらに重く沈んだ表情を浮かべるようになった。
     そして今日。師父はお忍びの姿で蓮蓮の実家に現れ、死地にでも赴く戦士のような何か大きな決意を固められたかのように重々しい雰囲気を漂わせている。
     まさかまさかだと思うけれど、蓮蓮を執務室に呼び出さずに実家へわざわざお越しになったということは、あの書簡は沢蕪君からの恋文や大師兄からの手紙とかでもなく、蔵書閣の陣を破って本を持ち出したのがバレて望外な罰金を姑蘇藍氏から要求されたとかじゃありませんように。
     白蓮蓮は途端に心配になってきた。きっと罰金は白蓮蓮の小遣いではもちろん母の稼ぎでさえ払える額でもないだろう。
     お通しで出しているゆでた落花生を食べながら、白蓮蓮は何を言われるのかと冷や汗をかく。
    「――昨日合同調査の報告がやっと来たんだが」
    「はいい?」
     調査という単語に、後ろ暗い所のある弟子は心臓が跳ね上がる。江宗主は若い門弟を怪訝そうにみやった。
    「何をそんなに驚く。ここ最近の調査と言えば妖魔鬼怪がやたら増えた原因についての調査しかないだろう」
    「そ、そうだったのですね。私はてっきり……」
    「てっきり?」
    「いえ、なんでもありません」
     蓮蓮は首を横にぶんぶん振った。
     おかしなやつだなと言いたげに冷ややかに弟子を見つめてきたあと、師父はふたたび口を開いた。
    「話を元に戻すとだな、やはり妖魔鬼怪が一時的に増えた原因はわからないようだ。例の棺桶との関連も結局わからない」
    「そうだったのですね。みんなで調査してもわからないこともあるんですね」
    「小蓮よ、世の中わかっていることよりわからないことのほうが圧倒的に多いぞ。蓮花湖の表面はよく見えていても水の中や奥底がどうなっているか潜っても誰も詳しくはわからないだろう。それと同じだ」
     師父はこれまた珍しいことに自嘲するように言った。かすかではあるが、なぜか悲哀さえ感じさせられた。
     母が雇っている若い男性の給仕が鴨肉とキノコを煮込んだ汁物を運んできてくれた。温かい小さな壺を底からおたまでかきまぜ、師父と自分のお椀に汁と小さめに刻まれた具をよそいながら、不肖の弟子は波立つ心を落ち着かせる。
     大丈夫、蔵書閣の陣を破って本をずっと借りている件はどうやらまだバレていない。ではいったいどういうご用件でわざわざお越しくださったのだろう。まさかこんな風にお忍びでいらしたのは蓮蓮と食事をしに来て、仕事の話や世間話をするためだけのはずはない。
     師父は茶色い汁をすくったレンゲを淡々と口へ運ぶ。師匠の顔色をこっそりうかがっていると、衝立の向こうから同世代ぐらいの若い娘たちのはしゃぐ声が飛び込んできた。
    「ねえねえみんな、『大世家物語』の作者の最新刊『黒色夜叉』はもう読んだ? もう私心が痛くて何度も泣いちゃったわ。続きが気になってしょうがないの」
    「読んだ読んだ。仙門百家の思惑で引き裂かれてしまう夜叉と人間の恋人たち、いったいどうなっちゃうのかしらね」
     衝立をはさんで後ろに座っている娘たちは、冬至の翌日に発売された恋愛小説の話をしていた。
     蓮蓮ももちろん読んでいるので続きがどうなるか気になっている。けれど、大世家物語とちがってこの本は師父にはぜったい読ませないと決めていた。
     なぜなら、明らかに師父と蓮蓮が直接知っている方が創作に大きく関わっていそうな恋愛小説だからだ。ときどき差し込まれている登場人物の姿も知っている人たちによく似ている。
    「ただでさえ敵対している妖魔と人間なのにおまけに断袖だし、乗り越えるには難易度高すぎでしょ」
    「案外くっつかず悲恋で終わったりして。大世家物語で作者はツンデレが地雷なの?ってぐらいにツンデレな登場人物に容赦なかったから」
     地雷だったらわざわざ主人公にして書かないなと白蓮蓮は汁を飲みながら声には出さず背後の会話に加わる。
     射日の征戦からここ二十年の江湖で起きた出来事を描いた大世家物語には、江宗主を雛型にしているらしき女性の登場人物が描かれている。
    彼女は物語の最後、先代の金宗主を参考に作られただろう悪役に殺されそうになった魏無羨をかばって死ぬのだ。そして彼女は魏無羨にとって永遠に忘れられない人になる。はからずも彼女の家族の命を奪ってしまった魏無羨を憎みながらも彼への恋心を捨てられない設定からすると救いのある内容のようにも白蓮蓮は思ったが、人によって受け止め方はちがうらしい。
    「ねえ知っている? 『黒色夜叉』の夜叉って、元にしている人物はなんと姑蘇藍氏の沢蕪君なんだって」
     大きな秘密を打ち明けるかのように娘の一人は声をひそめて言ったが、あいにくと丸聞こえだ。
     後ろの席は驚きの声に包まれる。沢蕪君というよく知っている名前が飛び出して、白蓮蓮の心臓はまたしても胸から飛び出しそうなぐらい跳ね上がる。
     出来たてほやほやの美味しそうな料理がどんどん運ばれてくるが、後ろの席の会話が気になって食欲はまったくそそられない。
     運ばれてきた料理を師父の皿に取り分けながら彼の様子をうかがうと、快とも不快とも何の表情も浮かべていない。衝立に描かれている観音菩薩のようにいっそ無関心のようですらある。
     師父は料理に黙々と箸をつける。けれど話しかけてこないから、おそらく彼もまた衝立の向こうにいる娘たちの会話に聞き耳を立てているのだろうと思った。
    「えええ、そうなの? 沢蕪君といえば世に名高い射日の征戦の英雄で、歩く修士の模範だっていうのによりによって妖魔の役にされてしまったの? 天下の大悪党金光瑶にとどめを刺したのもあの方なんでしょう」
    「あーでもなんだかわかるかもしれない。だから夜叉は妖魔だっていうのに神仙と見まがうような美形で丁寧な言葉遣いに穏やかな物腰なのね。閨の場面だとケダモノみたいに猛々しいけど」
     あけすけな言葉に白蓮蓮は噛んでいた鴨肉を噴き出しそうになった。
     実を言えば『黒色夜叉』の閨の場面だけは彼女は読み飛ばしている。登場人物の雛型になっただろう人たちを直接知っている身としてはいたたまれないからだ。
     ここで白蓮蓮は師父の様子がおかしいことに気付いた。情人が話題の的になっているのに彼の表情はさきほどから一寸も動いていないのだ。普段の師ならば、親しい人がこんな下品な会話にさらされたら少なくとも眉間に皺を寄せそうなものだが。
    「ちなみにあなたそれどこから聞いた情報なの?」
     ある娘が、あからさまにうさんくさく思っている様子で情報の出所を尋ねた。問われた娘はよくぞ聞いてくれましたと言って得意げに返した。
    「あたしの家、呉服商でしょう。雲夢だけじゃなくて金麟台の城下町にも贔屓にしてもらっている妓楼があってね。なんとそこへ『黒色夜叉』の作者が出入りしているんですって。娘の私が黒色夜叉を好きだって作者のお気に入り太夫に言ったらそう教えてくれたって父さんから聞いたの」
    「あら、じゃあかなり信ぴょう性は高そうじゃない?」
     信ぴょう性が高いどころか、『黒色夜叉の挿絵』はその沢蕪君が描いている。
     どういう経緯でその依頼を引き受けたのか蓮蓮はさっぱりわからないが裏表紙に『挿絵:白木蓮』と銘打っているからあきらかにそうなのだ。
     これはあくまで白蓮蓮の推測に過ぎないが、『黒色夜叉』の作者は金麟台に住んでいてこの夏師父の姿絵と夜叉の絵をみてあの小説を書きあげ、なおかつ沢蕪君と接触を図ったのではないだろうか。
     二人を引き合わせられそうな人物はこの江湖広しといえどおそらくたった一人だ。聶懐桑宗主。『大世家物語』『黒色夜叉』の版元は同じで清河聶氏領内に存在している。
    「じゃあもしかして夜叉の相手役も元になった人がいるのかしら」
     白蓮蓮はせっかく持ち上げた飯茶碗を落っことしそうになった。
     やめて、どうかどうかそこには触れないでほしい――心の中で天にむかって懸命に祈ったがだめだった。
    「湖王音(フー・ワンイン)ね。そういえば雲夢江氏の宗主のこと江澄ってわたしたちは名のほうでよく呼ぶけれど、字はたしか江晩吟じゃなかった?」
    「あら言われてみればたしかに音がそっくりだわ。ということはひょっとして江宗主と沢蕪君の仲をみて思いついた恋物語なのかしら。あのお二人今とっても仲が良いって噂じゃない。沢蕪君が閉関を解いたのは江宗主のおかげだって話もあるぐらいだし」
     自分の話をされているわけではないのに、白蓮蓮は心臓がばくばくうるさく鳴っていた。
     おそるおそる目の前にいる江宗主ご本人の様子をうかがうが、さきほどとまったく顔色が変わらず野菜料理に箸をつけている。蓮蓮の目にはまるで食事しながら瞑想でもしているかのような無の境地にいるように映った。
    「実はお二人、知己じゃなくて本当にできていたりして」
     さっき噂の情報源を知りたがっていた娘が意味深な口調で言った。
    「え、なにそれ? どういうこと?」
    「母方の叔父さんが平陽姚氏の修士なんだけど、秋にあった姑蘇の清談会で沢蕪君が酔いつぶれた江宗主を公主抱っこして客坊まで運んだんだって。二人は朝まで客坊から出てこなかったそうよ。清談会に参加した姚宗主から聞いたって言っていたからきっと間違いないわ」
     たちまち娘たちは「ええやだうそー」「男が男を公主抱っこですって!」「それほんとなの?!」と辺りもはばからず悲鳴とも嬌声ともつかない声で言い合ってはしゃぐ。
     あのとき師父を客坊へ送ったあと沢蕪君はちゃんと宴会場へ戻ってきた。その姚宗主とやらなんていい加減な証言をするのか。もしどこかで会ったらひどい目に遭わせてやらないと気が済まないと思った。
     師とその情人の仲を羨ましがるまたは憧れるならともかく、下世話に面白がる甲高い声音に、白蓮蓮はこめかみをぴりぴりとひきつらせる。
     今日のことを沢蕪君に報告して禁言術を授けてもらおうと若い弟子はひそかに決意する。
    「そういえば、沢蕪君、金光瑶ともたしかすごく仲が良かったわよね。金光瑶は結婚していたけど沢蕪君は未婚だった。お二人ってもしかして……」
    「きっと二人とも断袖でこっそり付き合っていた」
    「そうよ、きっとそうよ。沢蕪君が閉関したのも愛する人をなくなく自ら殺さざるを得なかったせいよ。でも江宗主っていう新しい恋人ができて閉関を解いたってわけね」
    「弟の含光君も夷陵老祖をめとったし、姑蘇藍氏の血筋って断袖の血筋なのね。これから姑蘇の門弟を町で見かけたら見る目が変わっちゃいそう」
     姑蘇藍氏をあきらかにあざ笑っているだろう娘に抗議して、衝立のそばで白蓮蓮はわざと大きく何度か咳き込んだ。それでも娘たちのかしましいおしゃべりは止まらない。それどころかますます増長する。
    「江宗主も全然結婚する気配どころか、いい年しているのに女っけ全然なかったのもきっと断袖だったからなのね。どっちがどっちかしら。やっぱり小説と同じで江宗主が女役? あの嫌われ者で怒らせたら恐ろしいって評判の江宗主が沢蕪君に閨で可愛がられているなんてね!」
     この娘はきっと今まちがいなく下品で卑しいとしか言いようのない笑いを浮かべている。
     白蓮蓮は箸と茶碗を強い音を立てて置いた。物にあたるのはよくないとわかっているが煮えたつ鍋の湯のように心に沸いている怒りをどこにぶつければいいかわからない。
     いくら白蓮蓮が無言の抗議をしても、おしゃべりに夢中になっている年頃の娘たちが慎ましく口を閉ざすはずがない。
     聞くに堪えない言葉が続いたと思えば、嫌悪感丸出しの声が衝立の向こうで反響する。
    「えーちょっとそんなことまで言うのやめてよ気持ち悪い。つい想像して鳥肌立っちゃったじゃない。断袖も断袖の交合も物語の中だから美しいのよ。あなたたちの言うように本当に沢蕪君と江宗主が恋仲で共寝していたらそれってすっごく気持ち悪い」
     このとき、白蓮蓮は自分の中で生まれて初めて何かがプツリと切れる音がした。
    「あらそんなこと言うけど、『大世家物語』の含光君と夷陵老祖は実在の人物で実際道侶じゃないの」
     江湖で魏無羨と藍忘機のお二人は周知の仲だ。死と時を越えた彼らの劇的な再会とその仲睦まじさに娘たちは自分もそんな運命の恋をしてみたいと憧れを抱いている。彼らの姿絵だって人気だ。
     実のところ、夜叉と湖王音のかっぷりんぐ絵も最近発売されて売れ行きがいい。作者は言わずもがな。沢蕪君はおそらくお二人の関係を公表したいのだろうが、世間はそう暖かく受け入れてくれるとは限らない。娘たちのようにお二人のことや周囲の人々を好き勝手にもてあそびあざ笑い嫌悪する人たちのほうがきっと多い。
    「わたしからするとあの二人もありえないわ。だから大世家物語は読んでいない。まあ夷陵老祖はもう雲夢の人じゃなくなったからどうでもいいけど」
     その娘は忘羨を心底軽蔑しているらしく、貝を食べていたら思わず口の中に入ってきてしまった砂利でも吐き捨てるように言った。
     堪忍袋の緒はすっかり切れた。後ろにいる娘たち一人一人の横っ面を、泣いて許しを請うまで張り倒してやらねば気が済まない。
     白蓮蓮は椅子から立ち上がったところ、「小蓮」と鞭のように鋭い声で止められた。
     彼女の師は、侮辱としか言いようのない話を聞いていただろうにいつものように眉間に皺を寄せるでもなくこめかみに青筋を立てるわけでもなく、紫電をさするわけでもなく、風のない湖面のように恐ろしく落ち着き払った表情を浮かべていた。
     やはり様子が変だと長い付き合いの弟子は思った。いつもの師父なら、もし小娘ごときに面と向かって侮られでもしたら怒りで茶碗を割るどころか紫電に卓をひっくり返させてもおかしくないのに。
     まるで沢蕪君と自分はまるっきり関係がない、知人ですらない赤の他人だといった様子なのだ。
    「小蓮、食事に専念しろ。女将が作ったせっかくの料理が冷める」
     師父は箸で器用にこんがり揚げられた川魚の身をほぐして甘辛いタレにからめると、弟子の大きく盛られた飯の上にのせた。まるでなだめられているかのようだった。ついでに蓮蓮があまり好きではない塩水でゆでた茎の太い青菜ものっけられる。
     蓮蓮は師父に命じられ仕方なくそれらを口に運んだ。糖醋魚など大好物なのにちっとも味がしない。
     化粧や服の流行、どこそこの世家の公子の噂話などをひとしきり喋り終わって衝立の向こう側にいた娘たちはやっと席を立ってくれた。席から立ちながらもまた思いついた別の話題に花を咲かせる。裕福な家の娘らしく、みな着飾って美しい姿をしているが、上下に大きく開いている唇にひかれた紅は獲物の肉を好きなだけ貪って歯まで血にまみれているかのようだ。
     気が付けば師父の飯碗はすでに空になっていた。もう食べ終えたと言いたげに、ゆっくり茶をすすっている。けれど卓の上のどの皿も料理は半分以上残っていた。よく食べよく飲む健啖家の師にしてはあまり食が進んでいなかった。聞きたくもないあんな無神経かつ無責任な会話をずっと聞かされていたのだ、それも当然だろう。
     師父を待たせていると思って、慌てて飯碗に口をつけて飯をかきこもうとしたら、「下品な真似をするな。待っていてやるからゆっくり食べろ。かけらも残すな」とぴしゃりと水をかけられたかのように注意される。
     噂に聞く姑蘇藍氏の人々ほどではないが師父も大世家の宗主らしく、礼儀作法には厳しいのだ。
     冷めつつある料理に箸を伸ばしながら、師父が楽しめるような何か面白い話題はなかったか思いめぐらした。さきほどの娘たちが食い散らかした獲物から漂う腐臭のような後味の悪い場の空気を今すぐにでも変えたかった。
     しかし、今は町で流れている噂話をする気分には到底なれなかった。沢蕪君という名前も、かつて蓮花塢内で禁句だった温氏のように今は決して触れてはいけないように思えた。
     それでも品のない酔っ払いを相手にしたかのような気分の悪さをどうにかしたくて、少女は最近読み終わった本の話をすることにした。
    「師父、雲深不知処で借りた東瀛の本によると、そこは女性の首長が神々と交信して鬼道を操って国を治めているそうなのです」
     ここでの鬼道というのは、仙術とは異なる摩訶不可思議なという意味合いだ。
     江湖にも女性が宗主の世家もごくまれにあるものの、先祖を祀る祭祀をとり行うのは直系血族の男性と慣習として決まっていた。そうすることで先祖の加護を得て一族を繁栄させるのだ。それでも娘しかいない白家では父の位牌に毎日線香を捧げている。息子ではないからと言って亡くなった父が蓮蓮たちを守ってくれないようには蓮蓮は思えない。
     蓮蓮が読んだ本は東瀛見聞録という題名で、五十年ほど前に姑蘇藍氏の人が東瀛を来訪しかの地の人たちの暮らしぶりや習慣などをまとめたものだ。この古い本によれば、東瀛の人々は江湖の罪人のように刺青を体中に彫っている、海に住む鮫人とまぐわって子を作っている、煮炊きには未だに土器を使い、米ではなく栗の実を主食にしているそうだ。江湖とのあまりの違いに、若い娘は頁をめくるごとにくらくらした。
    「それで私がいちばんびっくりしたのは、東瀛では同じ母から生まれていなければ同じ父親から生まれた兄妹であっても結婚できるそうなのです。半分血がつながっていても兄妹は兄妹なのに。なんだかすごく気持ち悪いなって思ってしまって……」
     そこまで言って、彼女は大きな失言をしたことに気付いた。
     何が同じかははっきりとはわからなかったが師父と沢蕪君を侮辱した娘たちと同類のように感じてしまった。白蓮蓮は恥じ入って話の途中にもかかわらずぴたりと貝のように口を閉ざした。
     江宗主は話が終わっていないのに突然黙ってしまった弟子を咎めることもなく、さして大きく気分を害した様子もなく茶杯を静かに置いた。仙術について解説してくれるときのような威厳はみせつつもどこか気安く温かさも感じさせる顔で恐縮している弟子を覗き込む。
    「さっき女性(にょしょう)が国をまとめていると言ったな? ということはおそらく東瀛では子供は誰の種なのかではなく、誰の腹から生まれたかが重要なのだろう」
     そこで大昔の江湖も本に記されているような東瀛に近い社会だったと教えられる。
     かつては女性が死者の声を聞き、神々を祀る儀式を取り仕切り、ときには神霊の類と交わって子をなしていたこともあるそうだと師は己が学んだ知識を弟子に伝える。
    「姚宗主殿などはその姓から、古の巫女が桃花の神と交わって生まれた家系の末裔だと自称してはばからないな。もちろん仙門世家の誰もそんな戯言相手にしていないが」
     江宗主は、娘たちの会話に出た世家宗主を冷ややかにあざ笑う。このとき今日初めて彼は師父らしい表情を浮かべてくれた。
     蓮蓮が食べている間、師父は江湖の古い時代のことや仙門世家の歴史などを簡単に講義してくれた。かつては実力主義だった仙門世家の継承法を血のつながりで継承するようになったのは、今は滅亡した温氏の温卯という人物が始めたことだという。そんなこと若い修士はちっとも知らなかった。
     やはり師父に早く追いつきたいと思っても、その背中にたどり着くのはまだまだ時間がかかりそうだ。
     蓮蓮がすべての皿を綺麗にした頃には店の客ははけて、店の中央の卓で母たちがまかないを食べ始めていた。
     師父は蓮蓮が食べ終わったのを見届けて席から立った。
     そして母のそばまで寄っていきまるで皇帝の生母にそうするかのように母に恭しく拱手して、姉の鳳梨を自分付きの侍女として雇いたいと申し入れたのだ。
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     藍曦臣の腕に力がこもる。
     口を吸いあいながら、江澄は押されるままに後退った。
     とん、と背中に壁が触れた。そういえばここは戸口であった。
    「んんっ」
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     かくいう江澄もまだ左手を吊ったままだ。負傷した者は他にもいたが、大怪我を負ったのは藍曦臣と江澄だけである。
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