いつもは暇さえあれば俺の席に来て声をかけてくれるその人は、今日は放課後になるまでこちらから声をかける隙すら一切なかった。六時間目の授業が終わった瞬間にブツの入った鞄を持ち上げたところでまだクラスメイトがたくさんいる空間でそれを渡す勇気は俺にはない。自分の席に座ったまま、もう少し人が減ってからにしようと考えているうちに、ガラッと開いた教室後方の扉から「浮奇、ちょっと来て」と今日何度も見たように彼を呼び出す声がかかる。ああ、もう、また彼を取られてしまった。落胆して肩を落とし、鞄をぎゅっと抱きしめた。
取られてしまった、などと思ったけれど、別に彼は俺のものではない。俺も今日彼を呼び出している女子たちと同じ、ただ彼に恋をしているだけの男だ。彼が甘いものを好きだと知ってからバレンタインにはチョコレートをあげようと考えていて実際こうしてチョコレートを学校まで持ってきたわけだけれど、渡すことができなければ持って帰って自分で食べることになるかもしれない。甘いものは得意じゃないけど。
ぐるぐると考えているうちに教室の中はずいぶん人が減っていた。振り返って見た彼の席はいまだに無人だけれど鞄が置きっぱなしだったから戻ってくることは確実だろう。じゃあ、彼が戻ってきてから? 休み時間の度に呼び出され授業が始まるギリギリまで戻ってこなかったことを考えると、後ろに時間の制限のない今、もしかしたら彼の前には女子が列を作っているかもしれなかった。何時に戻ってくるか分からないで彼を待ち続けるのは心臓が持ちそうにない。
俺は鞄の中からノートを取り出し、その端を小さく破った。ペンを出してできるだけ丁寧な字で「チョコレートです。よかったらもらってください」と書き、席を立つ。幸い教室に残っているのは前方の席で課題を終わらせている噂話をしそうにない真面目な女子と、授業が終わったことに気が付かず眠り続けている男子、一人ずつのみ。可愛らしいキーホルダーがついた彼の鞄が置かれている席に近づき、そっと椅子を引いて空っぽの机の中にチョコレートの小さな箱とノートの切れ端を入れた。
本当は今日チョコレートを渡す時に告白して、玉砕してしまいたかったけれど、忙しそうな彼を付き合わせてまで俺に時間を使わせたくはなかった。せめて罪のないこのチョコレートだけでも彼に味わって食べてもらい、俺は俺で一人でこの気持ちを消化しよう。もしかしたら明日には彼の隣には可愛い彼女がいるかもしれないし。
教室を出て廊下を歩き、学校を出てからようやく緊張していた気持ちが少し楽になった。バレンタインだというのに鞄の中はチョコレートがマイナス一個だ。もらったところでその気持ちに応えることはできないんだから、これでいいけれど。強がりではなく。
「ふーふーちゃん!」
遠くから好きな人の声が聞こえた気がして、俺は足を止めた。幻聴? 今日は一度もその呼び名を聞いていないはずだから、脳が勝手に欲望を吐き出しているのかも。
「ふーふーちゃん! ちょっと待って!」
あれ、やっぱり聞こえる。くるりと振り向くと、彼が校舎から出てきたところだった。何が起きているのか理解できないまま彼が近づいてくるのをただ突っ立って待つ。
「はぁ……はぁ……まにあった……」
「……大丈夫か?」
「大丈夫……いや、大丈夫じゃないけど、……とにかく、何フツーの顔して帰ってんの?」
「は……? 悪い、何か約束してたか……?」
「……、これ、ふーふーちゃんでしょ」
彼の手には俺が机の中に入れたチョコレートの箱とメモが握られている。名前を書かなかったのに、こんな秒でバレることがあるか?
「俺がふーふーちゃんの字わかんないと思ってんの? みくびらないでよ」
「……え、と、……」
「チョコ、なんで直接渡してくれないの」
「……忙しそうだったから、今日、ずっと」
「声かけてくれればふーふーちゃんのこと優先するに決まってんじゃん。これわざわざ買ってきてくれたの?」
「……そう、だけど、……浮奇、女子は? もういいのか?」
「教室に戻ったら机の中に可愛い贈り物があったから全部断って走ってきた。女子なんて最初から俺の眼中にないもん。いいんだよ」
「……今は彼女はいらないってこと?」
「……まあ、そうなんだけど、……いや、うん、もうハッキリ言おう。俺、ふーふーちゃんが好きだよ。まさかバレンタインにチョコくれるなんて思ってなかったから、俺があげようと思ってたのに、……鞄教室に置いてきちゃった。もう、ふーふーちゃんのせいで全然カッコつかない」
「……」
「ふーふーちゃん? 聞いてる?」
「わっ! ……は? え、夢?」
「現実」
伸びてきた浮奇の細い指が俺の頬をきゅっとつねる。いつも温かいそれがひやりと冷たくて、今さら浮奇の表情に緊張が混ざっていることに気がついた。
「……浮奇」
「うん」
「俺も、浮奇が好き」
「……うん、知ってた、ありがとう」
「しっ……し、知ってた、のか……?」
「いや、知ってたというか、そうだったらいいなって希望的観測だけど、……ただの友達より、特別に思ってくれてるかなって、……どうしよう」
「うん……?」
「嬉しすぎて泣きそう」
そう言うと浮奇は両手で顔を覆い俯いてしまった。今まで当然のように触れていた彼に、両思いだと分かった今も同じように触れていいのか、迷った俺は無意味に手を握ったり開いたりして情けない声で「浮奇……」と彼の名前を呼んだ。へへ、と彼の笑い声がかすかに聞こえる。
「大丈夫、泣いてないよ。困らせてごめんね。……鞄、取ってくるから、待っててくれる?」
「……一緒に行く」
「え?」
「また女子に捕まったら困るし……」
「……ふ、へへ、そうだね?」
泣きそうな顔で笑って、浮奇は俺の手を取った。反射的に握り返してしまい、離そうとした時にはもう浮奇がぎゅっと強く握っている。
手を繋いだまま校舎内に戻り、ほとんどの生徒が帰って静かになった廊下を二人で進んだ。教室にはもう浮奇の鞄があるだけで一人も残ってはいない。誰にも会わずに来れたことにホッと息を吐いた。
「ふーふーちゃん」
「うん?」
「はい、これ、俺からもバレンタインのチョコ」
「あ……、……ありがとう」
「もっと喜んでくれてもよくない?」
「喜んでるよ、すごく。初めてだ」
「うん? なにが?」
「バレンタインもらうの」
「……は? え、嘘でしょ、今までもらったことないの? こんなにイイ男が?」
「そんなこと言ってくれるの浮奇だけだよ、俺はただのオタクだし」
「ふーふーちゃんの周りに見る目がない人しかいなかったことを喜ぶべきか悲しむべきか悩む……」
「でも今は浮奇がいる」
「……今は、じゃなくて、これからずっと」
「だといいな?」
「ずっとなの!」
「ふははっ」
「……ふーふーちゃん、問題です」
「ん? ふふ、なんだ?」
「放課後の教室に、付き合いたての恋人が二人きりです。何ができるでしょうか」
「……」
俺の制服をちょんと掴み、「ねえ、答えて」と、浮奇はきらきらと綺麗な瞳で俺のことを見上げる。瞬きもできないほど身体は固まっているけれど、脳みそはフル回転をしていて、俺を見つめる浮奇の全てを記憶に焼き付けていた。
「……時間切れ。オタクのくせに」
「ま、っあ、の」
「しょうがないから正解教えてあげる」
背伸びをした浮奇が俺の頬に口付けをして、目を丸くして再び固まった俺を目を細めて見つめた。さっきまでうるさいくらいだった心臓の音が聞こえなくなり、無意識のうちに彼の手を握りしめる。
「ごめん、ちょっと照れちゃった。もう一回答えてもいい?」
瞬きひとつ、それだけで俺の言いたいことを理解してくれたらしい浮奇が「ありがと」と呟きもう一度踵を持ち上げた。
満点の模範回答をして、目元を赤く染めた浮奇を、ようやく動くようになった身体でぎゅうっと抱きしめた。今日起きたこと全て漫画や小説のようだけれど、初恋は実らないという定番を跳ね除けているのだから、やっぱりこれは現実なのだろう。頬をつねらなくたって、こんなに温かい浮奇が夢のはずがなかった。