リビングのソファーを窓の近くに移動させたのは、日当たりの良いその場所で愛犬がよく日向ぼっこをしていたからだった。大きな体がバターのように溶けて心地よさそうに眠る姿は見るたびに頬が緩んでしまう可愛らしい光景で、俺も彼と同じ陽だまりの中に入ってのんびりした時間を過ごしたいと思ったのだ。
昼食後、二階の仕事部屋でキリのいいところまで事務作業を終わらせた俺は、休憩のために読みかけの本を持って階段を下りた。昨日まで天気が崩れていて窓の外は薄暗かったけれど、今日は久しぶりの晴天だった。この天気なら愛犬が例の場所で日向ぼっこをしているだろうと予想してリビングに入り、ソファーの肘掛けからはみ出たゆらゆら揺れる焦茶色のしっぽと、背もたれに寄りかかる紫色のふわふわの髪の毛を見つけ、俺はぴたりと足を止めた。
床を傷つけないようにスリッパを履いているから足音はそこまで大きくない。人間より耳のいい愛犬も、俺の気配にはすっかり慣れていてただ部屋を出入りしたくらいでは気にすることなく体を横たえたままだった。そっと静かにソファーの横を回り、陽だまりの中のソファーですやすやと眠る恋人と愛犬を視界に収める。
ここが天国か……。声には出さずに口の中だけでオーマイゴッドと呟き、俺はしばらくその光景を見つめる。春のあたたかな陽の光が浮奇の白い肌にやわらかく当たりその美しさを際立たせていた。今日は出かける予定がないからか、セットされていない髪が無防備にゆるくウェーブして彼の顔にささやかな影を落とす。閉じられた瞼に透けるほのかな血色も、ルージュを塗っていない浮奇自身の唇の色も、あどけないのに色っぽく俺を魅了した。穏やかな呼吸によって上下する胸元を見るに、悪い夢などは見ず気持ちよく眠れているらしい。
浮奇に寄り添って眠る愛犬は、彼が背もたれから滑り落ちてしまわないように横で支えてくれているようだった。俺がいない間に俺の恋人と仲良くしているのは悔しくもあり嬉しくもある。愛犬も浮奇も、もうどうしようもなく大切な俺の家族だから。
音を立てないようにソファーの前にしゃがみ、俺は小さく口笛を吹いた。ピクッと耳を震わせた愛犬は静かに目を開き、俺をじっと見つめる。
言いたいことはわかるか、相棒よ。
じっと見つめ返せば、彼はフンッと鼻息を吐き頭を持ち上げた。それから体を起こし、浮奇の様子を伺いながらソファーの下へ静かに下りる。
グッボーイと囁き彼の頭を撫で、俺は温もりの残るソファーへ腰掛けた。浮奇のすぐ横に座り、本を開く。俺たちの足元に丸まった愛犬は少しの間俺と浮奇を見つめてから、静かに目を閉じた。
ページを捲る音と大型犬の呼吸音だけが聞こえる静かな午後はいつまでも続いてほしいほど幸せで、夢のようにあっという間だった。陽が傾き始めれば暖かった部屋の中は徐々に気温を下げていく。浮奇の着ている薄い部屋着一枚では肌寒く感じる頃合いだろう。
俺は本を閉じてソファーの隅に置き、俺の肩に寄りかかっている浮奇の頭の上に頬を寄せた。彼の太腿の上に手のひらを乗せてトントンとあやすようなゆったりとしたリズムで叩く。
「うきき、そろそろ起きて構ってくれないか」
彼の心地好い眠りを妨げたくはないが、風邪を引かせるわけにもいかない。それに、構ってほしいのも事実だ。浮奇、うきき、うきうきだいすき〜、と、彼の名前で遊ぶように音を紡ぐ。
それでもなかなか起きない彼にどうしようかと思い顔を覗き込めば、ぱっちり目を開いた浮奇と視線が重なり、俺は目を丸くした。
「いつのまに……」
「ちょっと前。ふーふーちゃんが可愛かったから、気が付かれるまで寝たふりしようって思って」
「……、……まあいいか。起きたならとりあえず水分補給をして、一緒に夕食のメニューを考えよう」
「先にキスをしてもいい?」
「……断ると思うか?」
「全然」
「じゃあ聞かないで好きにすればいいのに」
「これ以上びっくりさせちゃ悪いでしょ?」
「そのくらいで驚かないよ」
浮奇じゃあるまいし、とジャンプスケアで叫び声を上げている浮奇を思い浮かべて口にすれば、浮奇は俺の頭の中を読んだかのようにむっと唇をすぼめてみせた。しかし拗ねて怒った表情は俺の好物だと気がついたのか、すぐに舌を出して笑みを浮かべ、今度はキスのために唇を尖らせる。誘われるままに顔を寄せてちゅっとリップ音を響かせた。
「へへへ。ふーふーちゃん、実はキス魔だよね」
「は? おまえに言われるのは心外だ。明らかにおまえのほうがキス魔だろう」
「俺はキス大好きだよ、誰でも知ってる事実じゃん。でも、そんなこと全然興味ないですって顔してるふーふーちゃんがキス魔なのは、俺だけが知ってる秘密なの。だから誰にもナイショね、ふーふーちゃんが実はキス魔だってこと」
「……浮奇だけが知ってる」
「そう、俺だけが知ってる」
秘密を共有する視線は濃密だ。吸い寄せられるようにキスをして、浮奇の柔らかくて厚い唇を食みながら、俺がキス魔なのはおまえのこの唇のせいもあるんだ、なんてめちゃくちゃな責任転嫁をする。おまえとのキスが気持ち良すぎるせいで、俺もキス魔になってしまったんだ……。
夢中でキスをしていれば気分の乗ってきた浮奇が俺の服の中に手を入れ始め、だんだんとソファーに押し倒されていく。呼吸の隙もないようなキスのせいで酸欠気味の脳は考えることを放棄した。今が何時か分からないけれど、まだ、もうすこし、ここで戯れていたっていいだろう? 体を寄せれば寒さだって気にならないし。
「ワンッ!」
「「っ!」」
お互いの服を半分ほど脱がしかけたところで俺たちに向けられたのは愛犬の元気な鳴き声で、二人して驚いてそちらを向くと彼は散歩用のリードを用意してソファーの前でお行儀よくおすわりをしていた。顔を上げて時計を見れば、確かに毎日散歩に行っている時間だ。……だけど、なぁ、こんなところで邪魔をしなくたって……。
「ふ、ははっ! ごめんね、お散歩の時間だったんだ? 待たせちゃったね」
「もう少し待ってくれてもよかっただろう……」
「ずっとお昼寝に付き合ってくれてたから動き足りないのかも。俺がお散歩行ってこようか?」
「……」
「ふ、うん、そういう話じゃないのはわかってる」
拗ねた目で見つめれば浮奇は俺を宥めるようにキスをして体を起こした。どうやら本当に散歩に行くらしい。
「……俺も行く」
「待っててもいいよ?」
「帰りに夕飯を買って帰ってこよう。今日も泊まってくだろ?」
「うん、今日は泊まって、明日帰る」
「……はぁ、浮奇が足りない」
「可愛いこと言わないでよ。お散歩行けなくなっちゃうじゃん」
「……」
「だーめ。この子のことも大切にしたいんだ。尊重し合わなきゃ」
「……キス、もういっかい」
「……もう、可愛いキス魔なんだから」
一回だけだよ、と囁いて、浮奇は優しく唇を重ねた。角度を変えながら、ちゅ、ちゅと何度も甘い音を立てる。やっぱり浮奇の方がキス魔だろうと思ったけれど、もうそんなのどっちだってよかった。俺も浮奇も、キスをする回数は同じなんだから。
待ちきれなくなった愛犬がもう一度、早くしろと急かすように俺たちに向かって鳴き声をあげた。浮奇はくすくす笑って唇を離し、「行かないと」と俺を見つめた。俺はため息を吐いて仕方なく腰を上げる。
「行くか……」
「うん、行こう」
この続きは、またあとで。もう愛犬に邪魔をされないように、今夜は寝室に鍵をかけよう。