端境「おまえさえ幸せなら、俺の事なんて忘れちまっても構わねぇよ」
明け方の浅い眠りの中で見た夢の中、彼は言う。
嘘だ。
そう言いながらも僕の夢の中に出てきては、あの夜の事を、そして彼自身の事を思い出させる。忘れられる筈がない。
夢なんて僕が勝手に見ているもので、自分の願望が表れているだけだって事は分かってる。でもあまりにも鮮明なその声に、本当はまだ側にいるんじゃないかと疑ってしまう。そして、そうであって欲しいと願ってしまう。
こんな事じゃ駄目だと、頭では分かっていても僕はそんなに強くはない。全てを失ってもなお、前を向き続けるなんて無理だ。両親も、守りたかった妹も、共に在りたかった相棒も、何もかもがこの手からすり抜けていった。いつだって、何かを手に入れようとしても結局、僕の手に残されるのは、忘れる事の出来ない痛みだけなんだ。
夏も佳境に入って暑さはいよいよ無駄に本領を発揮し始め、猛暑の中お盆の時期がやってきた。亡くなった人の魂が現世に戻ってくるという伝承。両親や妹、そして彼もだろうか。彼の場合はきっと、彼の家族の元に戻るのだろう。その時、ほんの少しだけでもいいから、僕の所にも顔を出してくれたらいいな。
両親と妹の写真の前に、線香を供える。自分はそんなにお盆とかの風習に詳しいわけじゃない。年齢的なものに加え、東京のこの辺りでちゃんとしたお盆の儀式なんて、見たこともない。やってる家もあるのだろうが、少なくとも自分の両親も、そんなにしっかりと祀るような感じではなかったと思う。
彼の分はどうしよう、と悩んでここはやはりと、煙草に火をつけた。灰皿にのせ、緩やかに立ち上る紫煙を見送る。彼のもとに、この煙は届くだろうか。僕の所に来る道標になればいいけど。
あの霧の夜からは随分と日が経って、以前とほぼ変わらない日常の中、異界の存在を見ることも無かった。あれはやはり、相棒である彼の能力であって、その欠片さえも僕の中には残ってはいないらしい。残念なような、安心したような複雑な気持ちだが、実際あれらが見えた所で、僕には対処する事など出来ないのだから、これは良い事なのだろう。札はもう無いし、常に弓を持ち歩く訳にもいかない。猫又や木霊を懐かしく思い出すが、ああいう可愛いらしい存在だけではない。今、出会っても逃げるしかないだろう。会いたくはない、と思う。
汗を拭いながらのバイトからの帰り道、神社の前を通りかかると、参道には赤い提灯がずらりと吊るされ、石畳に沿うように屋台が並んでいた。黄昏時の強い西日に照らされながら、人々が行き交い、祭りに備えて準備をしているようだ。日が落ちれば、たくさんの人で賑わうのだろう。夕飯は屋台飯でもいいかもしれない。夜になればもう少し涼しくなるだろう、その頃にまた来ようか。そう思いながら家に向かう途中、顔馴染みの猫に声を掛けられた。
「なぁーお」
表通りから少し引っ込んだ細い路地から、甘えた声で呼んでくる三毛斑の猫。首輪はしていないが、耳の先端がカットされている桜猫、いわゆる地域猫だ。ご近所らしき人がご飯を上げているのを見かけたことがある。だからか、人懐っこくて僕もよく撫でさせてもらっている。
「暑いけど元気にしてる?」
「なぁーん」
撫でながら話しかけると、ちゃんと返事をしてくれるのが可愛い。ゴロゴロと盛大に喉を鳴らしながら、しゃがみこんだ僕の足に頭突きをし、首を撫でろと要求してくる。指で掻くように首元を撫でると、ゴロゴロ音がさらに大きくなった。ふわふわの毛皮の感触に癒されていると、先程まではぺたりと寝ていた三角の耳がぴくり、と立ち上がった。同時に喉鳴り音がぴたりと止む。路地奥の暗がりに鋭い視線を向け、瞳孔が大きく開く。毛を逆立て、体を膨らませて尻尾は狸のように太くなった。
「何かいるのか…?」
思わず小声で猫に話しかける。当然、返事は無く、猫は威嚇の態勢を崩さない。
猫の視線の先を追って暗がりに目を凝らす。明暗差でよくは見えないが、数メートル奥、石造りの道祖神の横に、周囲とは違う暗さの闇が見えた。人型に立ち上る靄のような、影。俯いているような姿のその影が、ゆっくりと動く。頭にあたる部分が少しずつ上に上がっていく。ただの黒い影。しかし、それは人間が頭を上げるように動き、やがて、顔も無いのに視線をこちらに向けた。猫は弾かれたように表通りへと駆け出し、あっという間に姿を消した。
まずい。目が合ってしまった。目と呼べるものは無いにも関わらず、そう感じた。早く逃げなきゃ。そう思うのに体が動かない。影はゆっくりと滑るように移動してこちらへと近付いてくる。重心が前後左右に揺れる事もなく、空間に固定されたような状態で、位置だけがこちらに近付いてくる。このままじゃダメだ。早く。けれど、視線を外す事が出来ず、動けない。
ぷつり。と糸の切れる音がした。
それに続いてバラバラと地面に跳ねる硬質な音。あの夜からなんとなく、習慣のように左手に着けていた数珠の糸が切れ、珠が辺り一面に散らばっていた。
視線が外れた。
その瞬間に踵を返して走り出す。
大通りを抜けて、とにかく全力であの場から離れようと走る。夕陽は沈みかけていて、陽の名残りの中、藍色の夜がやってこようとしていた。無意識に明るさの残る方に向かっていく。息が上がって、喉に血の味がする。限界を悟って足を緩めた。とにかく逃れようと走ってきたので、現在地が分からない。ここはどの辺りだろうか。荒い呼吸を整えながら周囲を見回す。びくり、と肩が震えた。数歩先には赤い鳥居が、大きな夕陽を背に建っていた。周囲には水面が広がり、建物は一つも無く、まるで知らない風景だった。そういえば、ここに来るまでの間も、誰ともすれ違わなかった。黄昏の逢魔時。時期はお盆。彼岸と此岸の境界が薄くなる時。どうやら僕は、向こう側の世界に踏み込んでしまったらしい。
鳥居の向こう側、夕陽のオレンジ色の中に影が現れた。水面に姿を映すことなく、ただ、黒く浮かび上がり、陽炎のように揺らめきながら人の形をとる。僕よりも頭二つ分は大きい影は、先程と同じようにゆっくりとこちらに滑り寄ってきた。心臓の拍動が追い立てられように速くなる。どくどくとこめかみの血管が脈打ち、頭が締め付けられるように痛む。急激に視界が狭まり、ちかちかと目の前が瞬く。耳鳴りがして、意識が遠くなった時、
『暁人!』
名前を呼ぶ声が聞こえた、気がした。
一瞬ぐらりと傾いだ体は、すぐに体勢を立て直し、依然として近付いてくる影を睨み付ける。その表情は今までとはがらりと変わり、柔らかかった目元は鋭く、穏やかな口元には今は酷薄な笑みが浮かんでいる。
『生憎と、うちの相棒は目ぇ回しちまったもんでなぁ、用向きなら俺が聞こうか』
右手に光が走り、風が集まる。
影は訝しむように動きを止める。が、それもほんの一瞬、ゆっくりした動きから速度を上げて、近付いてくる。右手が振られ、牽制するように放った数発が命中するが、敵は怯む様子もない。
『ちっ、あんま効かねぇか』
両掌に意識を集め、炎を錬成していく。それに気づいたのか、影は急に動きを速め、一気に滑り寄って距離を詰めてくる。こちらに向かって伸ばされた細い腕のような影をギリギリでかわして避けるが、擦った二の腕に赤黒いみみず腫れが浮き上がる。
『俺の許可なくこいつに触んじゃねぇよ!』
身を捩り、影の横っ腹の辺りに炎を叩き込む。続け様に露出した核をワイヤーで引き抜く。影は最期に細く高い悲鳴をあげて霧散した。
『どんくさい奴で良かったぜ。なんせ久々の運動だからなぁ』
言いながら、凝り固まった体をほぐすように肩を回す。左腕の傷に目を向け、表面を引っ掻いただけの様だと分かると、ほっと息を洩らす。跡は残らなさそうだ。
これからどうするかは追々考えるとして、
『とりあえずはここから出るとするか』
鳥居の向こうには人々が行き交い、賑わう通りが見えていた。
気が付くと自分の部屋だった。視界には見慣れた天井。重怠い体を何とか持ち上げてベッドから降りると、足元に散乱する何本もの空のペットボトル。全部、経口補水液だ。服も着替えてるし、どうやらシャワーも浴びたようだった。髪がまだ少し湿っている。床のペットボトルを拾いあげてゴミ箱に捨てながら、記憶を辿る。
確か、影に捕まって、意識を失なって、それから。
自分の右手を見る。返して掌も見るが、いつもと同じだ。
「ねぇ、居るんだろ?」
右手に向かって話し掛ける。
「いつまでそうやって、隠れてるつもり?」
もうバレてるんだよ。
『よう、久しぶりだな』
ちょっと気恥ずかしそうに、彼は言う。
「おはよう、ゆっくり眠れた?」
『あぁ、寝飽きるくらいにはな』
「じゃあ、もう充分でしょ。起きてて、これからはずっと」
『さすがに不眠不休はキツイんだが』
そう言って笑う彼の声に、目の前に水の膜が張るのを抑えられない。我慢しようとしても、堪えられず、目からこぼれ落ちる。
『何だよ、ガキみたいに泣いてんじゃねぇよ』
「泣いてないし」
左手で乱暴に目元を擦る。
「さっきは助けてくれてありがとう」
話題を変えたいのと、ちゃんとお礼を言いたいのとで、やや唐突な感じになってしまった。
『全く、本当におまえは変なのにばっか目をつけられるな』
俺を含めてな、と付け加えて。
『数珠は切れちまうし、おまえは熱中症で倒れるし、もう俺が出るしかないだろ』
「あ、僕、熱中症だったんだ」
『あいつを片付けてから、おまえを起こそうとしたんだが、体の方が脱水でダメになってて、おまえ、ちゃんと水分摂れよ』
「飲んでるつもりだったんだけど…」
暑い中、全力疾走したからじゃない、と言い訳する。
『なんとかここに戻ってきて、冷水浴びて補水してって、おまえの看護の方がよっぽど大変だったぜ』
「ごめん、ありがとう、KK」
右手が動いて、僕の頭を撫でる。
『おまえが無事なら、それでいいんだ』
その言い方がすごく優しくて、また涙で視界が曇る。
KKが狼狽える気配が伝わる。
『だから、泣くなって』
「無理だよ、だって、ずっと、ずっと会いたかったんだから」
おやすみ、と言って別れたあの時から、どんなにKKが恋しかったか、きっと彼には分からないだろう。
『俺だって、ずっとおまえに、もう一度だけでもいいから触れたいと思ってた』
そっと頬に触れてくる右手に、顔を擦り寄せる。自分の手のはずなのに、違う意思で動く感覚。あの時と同じだ。
『死者の俺が、生きているおまえを縛るわけにはいかないんだ』
「そんなの、僕が決めることでしょ。僕はKKとこれからもずっと、一緒にいたいんだよ」
右手の上に左手を重ね、そっと握りしめる。右手がピクリと動き、僕の唇をなぞる。
『あぁ、クソ、キスしてぇ』
僕は笑って、右の掌にキスをした。
お願い、ずっと一緒にいて。僕の息が止まるその時まで。