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    斑猫ゆき

    キメツとk田一中心。

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    斑猫ゆき

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    精神科の患者タンジロと医者たみおさんの炭魘シーズン2です。失われてしまったたみおさんを見つけるべくタンジロがもう一度手を伸ばす話。今回たみおさん出てきませんが根底はたんたみです。

    #ジョハリの箱庭
    joharisBoxGarden

    星屑の証明・Ⅱ とっぷりと暮れた夜にも、未だ夕焼けの名残が残っていた。東の空の端に溶け残った薄桃の明かりが、商店街のアーケードにささやかな照り返しを預けている。けれどそれもすぐに黒に溶けて、二色に塗り分けられた幌の柄の区別はつかなくなる。
     炭治郎はそれに背を向けて、善逸と禰豆子とともに学校への道を歩き始めていた。商店街から学校へとまっすぐに続く舗道は、炭治郎が入院する前と同じような顔をして三人を出迎えてくれる。店の配置も、街路樹の背丈も、バス停の剥げかけた時刻表も、あの頃と同じだ。
    (……だけど)
     すれ違った掲示板に貼られたポスターを一瞥して、炭治郎は胸の中ひとりごちる。少年科学館のプラネタリウムの広告。夜空の青を退色させたそれは、十二星座の物語をテーマにしたプログラムを宣伝していた。確か、入院する前は子供向けアニメのキャラクターが天体の豆知識を語るという番組だった筈なのに。
     ひとつ目につけば、次から次へと違和感が意識に入り込んでくる。駄菓子屋の前に置いてあるたくさんの鉢植えの中から、サボテンがなくなっていること。金物屋のガラス戸の奥で炭治郎が幼い頃からずっと一九九九年の暦を誇示していたカレンダーが、新しいものに掛け替えられていること。それらを見つける度、じっとりと肌を這う暑さのなかで、つめたい汗が背中を流れていく。
     人も季節もうつろう以上、それらが織りなす町並みだって変わっていくのが道理なのだろう。けれど、いったんその過程から離れてしまったことが、どうにも掴み所の無い不安となって纏わり付いてくる。いつかは馴染んでくる筈の居心地悪さではあるのだろうが、それに曝されている今はそう割り切ることも難しい。舗道の赤煉瓦を踏みしめる音も、なんだか以前とは違う響きをもっているような気すらした。
    「伊之助はばあちゃんと一緒に行くから、先に着いてるって。ほら、あすこのばあちゃん町内会の役員だろ。まあ……うちのじいちゃんもだけど」
    「ああ……鱗滝さん達も、それで先に準備に行くって言ってたな」
     善逸の言葉に相槌を打っているうちに、橙色の明かりが行く手に浮かんで見える。闇の中で輪郭を滲ませたあれがどうやら、盆踊りのやぐららしい。周囲に満たされたあたたかい闇のなかで、ふと、思い出す。
     そうだ、去年もこんな風に商店街の入り口で皆と待ち合わせて納涼祭へと赴いたのだっけ。隣には禰豆子がいて、善逸も一緒で。けれど、それで追憶は途切れてしまう。此処に居たはずの家族達。思い出した途端に、込み上げてくる意識の奔流に、炭治郎は思わず口を手で覆った。
    「どうしたの、お兄ちゃん?」
     隣から声をかけられて、我に返る。
     見れば禰豆子がこちらを気遣わしげに覗き込んでいた。闇の中でもなお光を弾く大きな瞳に吸い寄せられて、炭治郎の胸に満ちかけていた悲しみが、逃げ水のように引いていく。そうだ、自分は。
     善逸と交わした機能の言葉を、今さらながら思い出す。禰豆子を泣かせないと約束したばかりなのに、そうそう彼女に無用な心配をかけたくない。無理に意識を祭りの屋台やら盆踊りやらの即物的な歓楽へと向けさせて、笑顔を作り出す。
    「あ、いや……楽しみだな。納涼祭」
    「そうね、みんなもお兄ちゃんに会いたがってたよ」
     みんな。
     その言葉を口の中で繰り返して、炭治郎は少しだけ俯く。
     待っているという友人達や町の人たちの顔を、ひとつひとつ思い浮かべてみる。
     それから彼らの半年分の変化を見積もってみるけれど、とんと見当がつかなかった。どう変わっているのだろう。そもそも、病院で騒ぎを起こし、夢の世界へと深く潜り込んでいた自分をあたたかく迎え入れてくれるだろうか。
     改めて、炭治郎は禰豆子に向き直る。彼女は殆ど途切れることなくその変化を目の当たりにし続けた筈だった。彼らに沿って変化を重ね、またそこからひとり外れた炭治郎への気遣いも途切れさせずに手紙という形で届けてくれたいもうと。彼女こそが、最も端的なかたちで悲劇へと曝され続けた筈なのに。
     明るい微笑みを絶やさない彼女に、また炭治郎の胸の奥が疼いた。そのつめたい感覚に耐えかねて、つい、言葉とともに転がり出させてしまい。
    「禰豆子も、俺の事なんて気にしないで楽しんでいいんだからな」
     瞬間、額に鋭い痛みが走った。
     禰豆子の手が顔の前から引いていくのを見てやっと、彼女にデコピンをお見舞いされたのだと知れた。じんじんと熱を帯びる肌。けれどすぐに引いていった痛みで、相当に手加減されたものであることが分かる。本気で彼女が額を弾いたなら、こんなものではすまないと分かっているから。
    「っ、た」
    「もう、ほんとに気にしなくていいならそういう事言わないの。次言ったらもっと痛いのにするからね」
     愛らしくも棘を持った妹の眉間に寄った皺。
     それを呆然と見つめながら、炭治郎は頷くしかなかった。

        *

     校門の前についた頃には、すでに祭りは始まっていたようだった。納涼祭はフィナーレとして盆踊りの時間が決まっている以外には特にスケジュールらしきものはなく、役員以外の町内の面々は各自好きな時間に集まってくるような、緩い催しだ。けれど内輪での盛り上がりを第一かつ至上の信条とする祭りはなかなかに楽しいもので、当日は老若男女問わず町民達で賑わっている。今年も例外ではないらしく、学校の校庭からは話し声やら太鼓の練習音やらが一体となったゆるやかなざわめきが溢れ出してきている。
     門の上から覗いたやぐらからは、それを中心にして縄が四方へと張られている。そこからぶら下がった提灯にはひとつひとつに、コミカルな顔が書き入れてあった。あれが、善逸達が施したという飾りだろうか。ウインクをした提灯お化けと遠すぎるにらめっこをしながら、炭治郎はぼんやりとそんなことを考える。禰豆子を挟んで歩く善逸に聞いてみようと身を乗り出したところで、校庭から怒鳴り声が飛んできた。
    「おら嘴平ァ! ひとりひとつって書いてあんだろーが!」
     凄まじい剣幕のそれに身を竦ませる善逸をよそに、炭治郎と禰豆子は顔を見合わせた。足早に門をくぐり抜けて声のした方を見やると、どうやらそこは綿飴のブースのようだった。白熱灯の下で逆光に照らされた影は誰のものか判別つけがたいが、声は忘れるはずもない。懐かしいそれに吸い寄せられるように、炭治郎はふたりのもとへと足を向ける。
    「んなもん知らねーよ! 俺様は山の王だからなぁ! 他の奴らとは格が違うってもんよ!」
     近づいていくうち、強すぎる光にも慣れてくる。目を凝らせば、両手いっぱいに綿飴の袋を抱え込んだ伊之助を、宇髄が一喝しているところだった。
     納涼祭では町内の子供は無償で屋台の利用ができるが、一定のルールはある。ひとり一つの原則もそのうちのものだ。その辺りは今でも変わっていないらしい。ふんぞり返る伊之助の額に人差し指を突きつけて、宇髄が啖呵を切る。
    「ここは山じゃねえ、祭りの場だ。そして俺は祭りの神……だったら、俺に従うのが筋ってもんだろ。山の王さんよぉ?」
     その言葉に、正に目から鱗が落ちたと言った顔で、伊之助が固まる。ぽろりと落ちかけた綿飴の袋を宇髄が横から押し上げて支えた。
    「なっ……た、確かに……! なんつぅ説得力だ……!」
    「だろ? ド派手に理解して貰えて何よりだ」
    「しゃーねえ……祭りの神に免じて、ここは引き下がってやるとするか……」
     綿飴の袋をいそいそ戻して振り返った伊之助の顔が、一点に吸い寄せられる。
     そのまさしく辿り着くさきに立った炭治郎が、柔らかな微笑みとともに手を振った。
    「おま……紋次郎じゃねえか!」
    「伊之助! 久しぶり」
     そのひと声で、散り散りになって屋台を楽しんでいた子供達が、一斉に綿飴の屋台の前へ集まってくる。その先陣を切った伊之助が、炭治郎の胸に飛び込むように走り込んでくる。
    「お前……ほんと、ほんとになぁ! 心配したんだぞ! 親分をほっぽり出して入院なんてしやがってよぉ!」
     肩を掴んでまくし立てる伊之助の背中を叩いて宥めながら、炭治郎は知らずの内に唇を綻ばせていた。歓声が、夜の闇すら吹き飛ばしてしまいそうな期待と驚きを含んで彼の周りへと集まってくる。
    「ほんとに炭治郎さんなんですね! よかったぁ、元気になって!」
     走り寄ってきたきよが、歓声を上げる。それに追いついてきたすみとなほも口々に喜びの声を差し出していた。
    「炭治郎……!」
     きよ達の後ろでは、彼女たちを追いかけてきたらしいカナヲが感極まったというような顔でぽかりと口を開けている。水飴の屋台の下では手を振っている村田の髪が、ツヤツヤと提灯の明かりを反射しているのが見えた。暖かな視線と、朗らかな笑顔が、見る間に炭治郎の周囲を囲んでいく。
     彼らに向けて、何か言わないと。
     そんな焦燥で唇を摺り合せたところで、炭治郎の肩が優しく叩かれた。
    「おう、竈門。寝たっきりだって聞いたが派手に元気そうじゃねえか! 学校戻ってきたらまたバンドの方も頼むぜ。お前のボーカルがないとしまらなくてな」
     振り仰げば宇髄が大きな掌で炭治郎の肩を柔らかく掴んでいるところだった。言葉尻こそぶっきらぼうではあったが、その笑みはあくまで帰ってきたものを迎える穏やかなものだった。
    「……みんな」
     先程まで覚えていた逡巡が、途端に馬鹿らしく思えてくる。どれだけこの町が、人が、変わろうと、本質までは変わらない。そんなことも信じられなかったのかと、自分が情けなくなってくるくらいに、胸の内に満たされていく穏やかな喜び。
     人の幸せを心から願えるひとたちが、変わらず此処に居て、自分を迎え入れてくれた。
     それだけで充分だ。

     ほんの少しだけ迷って。炭治郎は口を開く。
     伝えるべき、ただ一つの言葉のために。

    「ありがとう、ただいま」

         *
     
     そんな炭治郎の帰還も余興のひとつと飲み込んで、祭りの夜は更けていく。昇った星月が沈んでいく天体の巡りも、今は見るものはなかった。夜空よりも騒がしいあかりと喧噪が満ちる校庭の一角、職員室前に敷かれたビニールシートの上を、炭治郎は裸足でふらふらと歩いていた。
     覚束ない足取りは視界を塞がれたことによって増幅され、あちらこちらに傾いては戻りを繰り返している。布の目隠しに瞼を押されて視界にはじんわりと緑色の闇が満ち、時折ちらちらと提灯の光が舞い落ちていった。踏みしめたシートがくしゃりと乾いた音を立てる合間に、友人達の声が投げ渡される。
    「権八郎、左だ!」
    「バカ、炭治郎から見たら逆だろ! ……あ、行き過ぎ! 二歩くらい戻って!」
     不確かな誘導も遊戯のスパイスと割り切って、炭治郎は手にぶら下げた棒を構え直した。目標の位置は目隠しをされる前に確認したつもりだが、進む前に棒を重心にして回転しなければならないというルールのお陰で平衡感覚はとうに失われている。周囲で指示を出してくれる善逸や伊之助がいればこそ、なんとか目当てのそれを見失わずに歩いていられる。絶え間ない緊張と期待が平衡状態をつくりあげて、炭治郎を支えていた。
    「炭治郎、そこだ!」
     ゆっくりと一歩右に出ると、善逸の声が背中を押す。すかさず力一杯棒を振り下ろせば、鈍い反動が掌に伝わってきた。逸る気持ちを抑えながら、炭治郎は首元まで目隠しを下げる。頭の端三分の一ほどを砕かれたスイカが、足下で無残な姿を晒していた。赤く鮮やかな飛沫は青いビニールシートに零れ、夜の中でどす黒く色を沈めて。どこか血液を連想させる果汁の染みに思わず胸を騒がせていると、友人達の歓声が闇の中から飛んだ。
    「やったじゃん炭治郎!」
    「はっ、端っこちょっと削れただけじゃねぇか! 俺だったらもっと完璧に割れてるね!」
    「じゃあ、次は伊之助に代わるな! 今度は俺が手伝うから!」
     口々に呼びかける善逸と伊之助に、炭治郎は笑って手を振る。不吉な想像も、掌が夜を一往復する程度の間で吹き飛んでしまっていた。シートの端まで駆け足で戻っていく頃には、もう胸騒ぎは心躍る祭りの空気に紛れて、見分けもつかない。脱いでいたサンダルを再び突っかけて、炭治郎は浮き足だった空気の中、地面を踏みしめる。
     伊之助に棍棒を渡して、首にひっかけたままの目隠しを解こうと項に手を伸ばす。結び目に指を入り込ませたところでたぁん、と鋭い音が闇を満たした。星のひとつが破裂したような、どこか浮き足だった音。おそらく、射的コーナーからの発砲音、なのだろう。けれど、先程から断続的に聞こえていた気の抜けたおもちゃの音とは、どこか趣が違うように思えた。
     響いてきた先に目を遣ると、伏せられたゴールポストの脇に立った屋台が目に入る。高い間仕切りの奥に緋毛氈かかけられた棚が並び、そこにぬいぐるみやら菓子やらが並べられているのを見るに、どうやらあれが射的の屋台らしい。仕切りの上に二の腕を置いておもちゃの銃を構える影と、屋台の内側で腕組みをした影。目を凝らすと、逆立てた特徴的な頭髪が、風を受け取って翻るのが見えた。
    「やるじゃねェか……だが、ここからは更に的が小さくなる。まさかケチな小細工なんかしてねえだろうなァ?」
    「当たり前だ。俺は俺の力で兄ちゃんに認めて貰うんだからな」
    「玄弥にーちゃん、がんばれー!」
     真剣な面持ちで照門を覗いている玄弥に、厳粛さを纏って立ちはだかる不死川。声援を送るのは、確か玄弥の弟妹たちだ。いちど彼の家に遊びに行ったとき、紹介して貰った。それにしても、どういう状況なのか。炭治郎が首を傾げていると、横から善逸がこそりと耳打ちしてくれた。
    「ほら、不死川先生、玄弥が射撃をやるの反対だったろ? 最近大分それでモメてたんだけど、今回先生が射的の屋台担当だったから、用意した的を玄弥が全部撃ち落としたら続けてイイってことになったらしくてさ」
    「そうなのか……」
     口にした途端、思い出す。玄弥が射撃大会で優勝したときの賞状を、兄に破かれたという事件。あのときは丁度現場に炭治郎も居合わせていて、憔悴する玄弥に代わって教師である不死川へと抗議したのも確かに覚えている。あのときは炭治郎筆頭に玄弥の友人達総出で彼を説得しようとしたけれど、まるで取り合ってくれなかったのだっけ。それを振り返れば、不死川が今のような譲歩をするなんて到底思えないことだった筈なのに。炭治郎は夜の中で目を丸くする。
     自分のいない半年の間に、何があったのかは及びもつかない。けれど、変わってしまったこともあるけれど、それはあの頃の彼らがいたからこそ起こった変革なのだろう。過ぎた日々はもう遙か後方にあっても、決して消えてしまった訳ではないのだから。
     この場所に、民尾を連れてくることが出来たのなら。
     ふいと、炭治郎は射的屋のあかりから目を逸らす。なんだか、今の自分には眩しすぎて。
     今日は、民尾から貰ったあの箱庭は部屋に置いてきていた。固執する自分を見せつけることでこれ以上禰豆子に心配をかけたくないというのもあったが、何より今はもうあの場所に民尾はいないのだという確信が、日増しに強くなってきたからだった。
     夢の中から連れ出した民尾が、何処へ消えてしまったのかはわからない。けれど、抜け殻となってしまった箱庭に縋り続けるのは、自身にも民尾にも、それと周囲の人間達にも不実な行いでしかないような気がした。昨日、善逸と交わした約束を、今さらながら思い出す。夢の不確かさから民尾を連れ出すため、彼の手を取ったのではなかったか。そんな自分が今さら夢に縋っては、誰に対しても申し訳が立たないじゃないか。
     だからこそ、この瞬間民尾が隣に居ないことが悔しくてたまらなかった。
     炭治郎の暮らすこの現実の鮮やかさを、民尾にも見て欲しかった。現実は厳然たる法則に支配されていて、その決まりに従って、望むことも望まないことも、変わっていってしまう。だけど、民尾と一緒にその変化を受け入れ、また自分達も変わっていくことができたのなら。
    「なにぼーっとしてやがんだよ権八郎! 俺様の番だっつってんだろーが!」
    「あ、伊之助……ごめん」
     抗議の声に、炭治郎は漸く我に返る。遠い星のように輝く射的の屋台をもう一度だけ振り返ってから、目隠し布と棍棒を伊之助へと渡す。そうしてビニールシートの外へと退いたところで、傍らに人影が見えた。
    「あの……炭治郎」
    「カナヲ! それに神崎先輩も」
     炭治郎の呼び声に、カナヲはおっとりとした微笑みで答えた。その隣で、アオイが軽く頭を下げる。
    「りんご飴、今年はカナエ姉さんの担当だから……私たちもお手伝いしたの。これ、よかったら食べて」
     カナヲの差し出した大玉のりんご飴に、とろりとした光が乗る。手に取れば、りんごは角度を変えるごとに飴色を誇示して掌で輝きを増すような気がした。それ自体が煌めきを纏っているような錯覚に、炭治郎は歓声を上げる。
    「ありがとう! わぁ……ツヤツヤして美味しそうだな」
    「一度に食べるには多いですから、家に持って帰って少しずつ召し上がってくださいね。ここ半年近く寝たきりだったと聞いてますし」
     アオイが隣から素っ気ない声で言い放つ。けれど、言葉の端々から漏れる気遣わしさは抑えて抑えられるものでもないらしい。炭治郎は唇を綻ばせて、礼を言う。
    「神崎先輩……ありがとうございます。心配して頂いて」
     その言葉に、アオイは何回か目をしばたたかせてそっぽを向いた。
    「別に……祭りの席で倒れられても困るだけですから」
     炭治郎は苦笑しながら、改めてふたりに頭を下げた。手にした飴の重さから、なんだか暖かいものが掌を伝ってくるような気がする。それが心の臓まで辿り着いたとき、やっとあたたかさの正体が言葉に結晶した。
     ああ、変わっていない。
     カナヲは一見感情が分かりづらいように見えて、そのじつ情が深い。神崎先輩は冷淡なようでいて、本当は皆のことをいつでも想っている。自分が入院する前から、そうだった。関係性や視点が変わってしまったとしても、芯となる心は変わらない。きっとそれらにも何某かの法則性があって、彼らの間に交わされた言葉や、感情や、色々な要素が関わり合ってここに今の皆があるのだろう。
     炭治郎には残された結果を知ることしかできなくても、各々が過ごした時間が、彼らにとってかけがえのないものだと、はっきりとわかる。それで充分だ。
     ここに帰ってくることができて、本当に良かった。
     なんだかこそばゆい気持ちで、頬を掻く。
     ふと気配を感じカナヲとアオイの背後に目を遣ると、やぐらの麓から禰豆子が走り寄ってくるのが見えた。頂上に据え付けられた和太鼓の脇に佇む人影が見えるから、きっともうじき盆踊りの時間なのだろう。逆光になったシルエットを縁取り、恒星のように自ら光を放っているように輝く金色の髪。あれは、煉獄先生だろうか。
    「お兄ちゃんたち、もうすぐ盆踊り始まるよ」
    「あ……うん!」
     カナヲとアオイは、遅れて追いついてきたきよ達に伴われて、先にやぐらの元へと赴いていった。その背中を見送ってから、炭治郎ははたと気づく。そういえば、スイカ割りの途中だったか。
     そろそろお開きと善逸や伊之助にも伝えなければ。炭治郎はブルーシートの上に目を遣り、瞬間固まった。目の前に繰り広げられるなかなかの修羅場に、頬を引き攣らせながら。
    「はーっはっは! この感覚、間違いねぇ。スイカはここだァ!」
    「おま……もっと左だよ! っていうか一回外したら交代だろうが!」
     がなり立てる声は、まるで伊之助には届いていない。善逸の指示を無視してめくらめっぽうに棒を振り下ろしまくっていた。先に炭治郎がスイカに命中させたときについた果汁が、まるで血しぶきのように周囲に飛び散る。その賑やかしい一幕を、炭治郎と禰豆子はただ呆然と見守るばかりだった。
     やがて手探りのままスイカの真ん前に辿り着いた伊之助が、思い切り棒を打ち付ける。もうすでに炭治郎に叩かれて半欠けの状態だったそれは、一太刀の元に真っ二つになった。目隠しを引き下げて、伊之助は快哉と共に拳を振り上げる。それを善逸は大仰な溜息で祝っていた。思わず噴き出した禰豆子が、口元を隠しながら笑っている。
    「ふふ、善逸さんも伊之助さんも、ほんと変わってないんだから」
     妹の言葉が、炭治郎の胸に染み渡る。
     この半年の変化を見届けてきた彼女の口から出た素直な感想が、自分の受け取った直感と重なったことに、この上ない安堵を感じた。背中越しに見える提灯の明かりが、鏤められた星屑のように禰豆子の髪を彩っている。その輝きを捕まえるように、炭治郎はまだ綻んだ唇を押さえ切れていない禰豆子の頭をそっと撫でた。
    「……お兄ちゃん?」
    「禰豆子、ありがとうな」
    「なぁに?」
     きょとんとした顔の禰豆子に、炭治郎は改めて向き直る。
    「俺の帰ってくる場所に、居てくれて」
     禰豆子ははじめきょとんとした顔でそれを受け取るばかりだった。けれど、やがて柔らかい微笑みを返し、兄の手を引いた。

         *

     納涼祭のプログラムが終わり大人達が片付けに入る中、子供達は明かりを手に校庭の隅へと集まっていく。まだ彼らには心躍らせる催しが残っている。暗い中子供達だけで帰らせるわけにいかないという配慮から生まれた、毎年恒例の行事が。
     色とりどりのビニールシートを寄せ集めてモザイク状になった座席へ輪になって座り、その中央に各々懐中電灯やLEDランタンをひとかたまりに集めておく。明かりを個人で盛っていて良いのは、話者だけ。そういうルールになっている。
     やぐらを取り囲んでいた提灯はとうに光を落とされ、あとは塀の外に立つ街灯や片付けの大人達が持つ懐中電灯くらいしか、周囲からもたらされる光源はなかった。薄らいだ光がお互いの顔を遠巻きに照らすだけで、寄せ集められた面々に心許なさが募っていく。けれどそれだって、雰囲気を醸成するひとつの手段だ。この、怪談大会の。
    「……よし、一番は俺からだな」
     それらしく声を潜めて、伊之助が呟いた。順番はじゃんけんで決めて、終了は撤収作業が片付くまで。そんな緩い決まりの中で語られる話は、毎年玉石混淆だった。話の巧みな者もいれば、去年ウケなかったことを気に病み話術に磨きをかけたり怪談の蒐集をしたりしてリベンジに賭ける者もいる。そして、何も気にすることなく、自分が『怖い』と感じた話だけを語る者も。
     伊之助はといえば、最後のパターンの代表格だった。どこが怖いのかのツボがわかりにくい上、態度も怪談を語るもののそれではない。けれどその話題や態度はどうにも微笑ましさを誘うため、評判自体は悪くはなかった。年嵩の子供達は来るぞ来るぞと期待すら浮かべ、もう話し始める前から唇が緩みかけているものもいる。
     すう、と空気を吸い上げる音がして、伊之助が声を張り上げた。
    「これはうちのババアから聞いた話なんだけどよぉ、昔ある山にばあさんが住んでたらしいんだ。で、その山には雉がたくさん住んでて、そのばあさんの家にも餌を食いに来てたんだと!」
     大音量で押しつけられる伊之助の声は、およそ怪談を語るには向かないやかましいトーンだった。およそ怪談らしいと言えるのはただ話の先が見えないという不安だけ。それを年長の子供達は敏感に感じ取っているらしく、頬を引き攣らせたアオイの隣で、カナヲは訳がわからないといった顔でしきりに首を傾けている。禰豆子なんかは、微笑ましげに浮かべた笑いを手で隠して堪えている始末だった。夜の暗さすら吹き飛ばしてしまいそうな快活さで、ひとつめの怪談は語られていく。
    「隣に住んでるジジイはその雉を撃とうと毎日銃を持ち出していたんだが、その雉がかわいくてどうしても撃てなかったらしい。鉄砲撃ちの名人だったジジイはやっきになって狙いをつけやがるんだ……でも、餌をついばむ雉たちを見ると、あまりにもかわいすぎて毎回銃をしまって帰るしかなかったんだと」
     伊之助の中では展開がクライマックスに差し掛かったらしく、ひときわ大声を張り上げる。その行動が更に話の内容から恐怖を遠ざけていくとも知らず。怪談話というお題目に怯えを見せていたきよ・すみ・なほや玄弥の妹弟達をはじめとする年少の子供達も、雲行きの怪しさにだんだんといつもの伊之助か、と安心感が強くなっている。夜の闇の中に溶けた顔が、お互いを確かめるようしきりに見合わせられていく。
     そんな中、伊之助の勇ましい語り口を怪談だと担保するのは、真面目くさった顔で頷きながら聞いている炭治郎と、風の一陣にすら身体を震わせて怯える善逸くらいのものだった。
    「あんまりにも撃てないもんだから、しまいには自分は猟師に向いてねえんじゃないかと、ジジイは猟師をやめちまったらしいんだ……!! やべえよな……!?」
     そして伊之助は口を噤む。
     いつ続きが来るのかと、みな息を呑んで待っていた。
     いくら恐怖を振り捨てた口調であろうと、内容のオチくらいは一応怪談としての装丁が成されている筈なのだと信じて。
     しかし、いつまで経っても新たな言葉は繰り出されることがない。ただ夜風だけが空しく円陣の中心を吹き抜けていくだけで。肩すかしを食らった顔で、善逸が問う。
    「……え? で、続きは?」
    「は? わかれよ、これで終わりだっての!」
     真っ青だった顔色が、みるみるうちに今度は赤くなっていく。
    「……はぁ! それの何処が怖いんだよ!」
    「めちゃくちゃ怖えぇだろうが!? ジジイが猟師をやめるくらいの雉だぜ!? どんだけやべぇ雉なんだよ……!」
     肩を抱くように身体を震わせる伊之助に、善逸は拳を振り上げて抗議する。他の子供達は苦笑気味にふたりのやりとりを見守っているばかりで、止めようとはしない。本気で怯えを見せる善逸の逆ギレと伊之助との攻防は、毎年の風物詩のようなものだった。
    「どっから怖くなるのかドキドキしてた俺の心臓返せ! 寿命縮まったわ!!」
    「知るか! 紋逸が勝手にビビり散らしてただけじゃねーか!」
    「まあまあ、ふたりとも」
     ふたりの痴話喧嘩をまるでそよ風のようにいなして、しのぶが立ち上がる。そうして伊之助の前に歩いて行くと、膝の上に載せられていたカンテラを手に取った。彼女の手に移った明かりを目にして、円陣がざわ、と揺れる。そうだ、伊之助の快活で気の抜けた民話に絆されて忘れていたけれど、次は彼女の番だった。町内随一の怪談の話し手、胡蝶しのぶの。
    「それでは、次は私の番ですね」
     申し合わせたかのように風にざわと揺れた、校庭の桜の葉。偶然すら味方につける語り部に、気の弱い子供達の何人かが小さな声を上げる。それを善逸の高い悲鳴がいとも簡単に掻き消していった。自分の元座っていた位置へと戻ると、しのぶは場が静まるのを待ってからおもむろに口を開いた。
    「……これは、都内に住むある女性が実際に体験したお話だそうです」
     トーンを落とした前置きに、耳目は一気にしのぶへと向けられる。明らかに先程までとは違う空気に、広がりつつあったざわめきは分厚い緞帳を下ろしたように聞こえなくなる。赤朽葉色の明かりが、しのぶの繊細な鼻梁を縁取って黒く夜へと落とし込んでいた。
    「仕事が遅くなった彼女は、真夜中にひとり家路を急いでいました。帰り道に当たる住宅街は治安の悪い地域ではないのですが、やはり真っ暗な中を帰るのは心細いですからね。とにかく早く帰ろうと、自然と早足になるんです。かつん、かつん……女性のヒールの音だけが、闇の中に響きます」
     間を持たせた話し方は、けれども緩急をつけて冗長にはならないよう計算されている。ひとこと、彼女の口から言葉が転がり出るごとに、中央に集めた明かりが力を失っていくようにすら思えた。
    「けれど、十字路の角を曲がったところで、誰かの足音が混ざってきたのです。はじめは通りすがりの人かと思いました。けれど、歩いて行くうち、気づいてしまったんです。それが自分の歩くペースに合わせて、ついてくることに。かつん、かつ。かつん、かつ。ヒールの音から少しズレて迫ってくる足音に、女性は自然と早足になります。けれど、着いてくる誰かの方もそれに合わせて歩調を速めてくるのです。かつん、かつ、かつん、かつ……」
     ごくり、と誰かが息を呑む音が聞こえた。それすらも効果音にして、しのぶは話を続けた。
    「女性の足取りがいつしか早足から駆け足に変わっても、まだ足音は離れません。それどころか、段々と距離が詰められてくる気配すらあります。足音がすぐ後ろまで迫ったところで、彼女は振り返ります。そこにいたのは、血走った目をした男でした。男の手元が、キラリと光っています。恐怖で身がすくんでしまった彼女は、見届けるしかありませんでした……男の振り上げたナイフが自分のお腹に刺さるのを……」
     誰かが耐え切れず、短い悲鳴を飲み込む。それを受けて隣でふらりと姿勢を崩しかけた善逸を、炭治郎は慌てて支えた。気を失いかけた友人をなんとかして立て直そうとする兄のシャツの裾を、禰豆子がきゅっと握った。
    「そこで、彼女は目を覚ましました。夢の中で刺された痛みや、走ったときに上がった息も、そのままに。なんてリアルな夢だろう……そんな混乱もありましたが、ともかくそれが現実ではなかったことに胸を撫で下ろしました。けれど」
     強調された逆接の接続詞。
     その先を深読みした善逸が、意識を取り戻すなり「ひっ」と情けない声を上げた。それを咎める余裕がある者も、既に居ない。全員がしのぶの語りに掴み取られ、引き込まれている。
    「……それから、一週間ほど経ったある日のことです。その夜は残業で遅くなり、女性は夜道をひとり帰ることになりました。カツリ、カツリ。なんとなくこの前見た夢が引っかかっていた彼女は、辺りに用心しながら歩いて行きます。カツリ、カツリ、カツリ、カツ……十字路の角を曲がったところで、自分以外の足音が混じってきました。ペースを合わせて自分の後ろをついてくるんです。カツリ、カツ、カツリ、カツ……まさしく、あの夢で聞いた音。女性は戸惑いながらも理解しました。あの夢と、同じ事が起きているのだと」
     靴の音を真似る声色が、夜の空間に架空の足取りを再現していく。集まったひとりひとりの頭の中に反響して増幅していく音が、これから起きる恐怖の予兆を掻き立てていた。
    「女性はとっさに窓に明かりのある家へ飛び込み、夢中でチャイムを押しました。二度、三度……必死にボタンを押すうち、ようやくドアが開きます。出てきた家の人に助けを求めながら、彼女はふと後ろを振り返りました。すると、門の外に居たのは……あの夢に出てきたナイフの男だったのです。その血走った目は、夢で間近に見たものと全く変わりありません。恐怖に震える彼女に、男は叫びました」
     男声を模した、ドスの利いた声。
     華奢な彼女にはおよそ似合わない響きに、聴衆の緊張は頂点に達する。

    「……夢と違うことすんじゃねえよ、と」
     
     彼女のその言葉が霧散するまで、闇の中に動くものはなかった。
     風も、木立も、光すらも。
     外からの現象で摩耗することなく、引き延ばされていく時間。
     それが漸く途切れたところで、肺の中で凍っていた空気が、次々に吐き出される。酸素を乞うて開いた唇が、一斉に夜を啄んだ。我慢していた叫び声を、改めて夜に向けて投げつけるものもいる。隣に座っていた善逸など、四方八方に向けてしきりに手足を振り回しながら喚き倒しては向こう隣に居る伊之助に小突かれている。叫び散らす善逸を宥めながらも、炭治郎の中ではしのぶの話がずっと胸に刺さったまま抜けなかった。
     彼女の語り口に恐怖を掻き立てられたこともあるが、気がかりだったのはその話のディテールだった。
     夢の話。
     ふたりの人間が、同じ景色を見るという、夢の話。
     まるで、自分と民尾のような。
     カンテラが三人目の話者である玄弥に手渡されたあとも、不確かな夢のような直感は、炭治郎の頭に居座って消えることはない。それはさながら、ひとすじの光明だった。目の前に集った明かりの堆積すら掻き消してしまうほどの輝きの。

         *
     
     怪談大会がお開きになったあと、子供達は保護者に伴われ、或いは同じ方向に帰るもの同士集まって、三々五々家路についていった。炭治郎もご多分に漏れず、禰豆子たちと共に帰り支度を始めていた。けれど、どうしても先程に得た予感が思いを逸らせてしまう。それが何故か、この機を逸してはいけないと、根拠のない確信となって、胸を内側から叩いている。
     妹や友人達に少し待っていて欲しいと断りを入れ、炭治郎はたまらず駆け出した。蝶を象った髪飾りを、闇の中に探す。そこかしこに見える人影に目を移していくと、常夜灯のしろい人工の光を渡らせた蝶が、校門の傍らに見えた。それに追いついて、炭治郎は息を整える時間も惜しくしのぶへと声を投げる。
    「あ、あの、しのぶ先輩!」
    「炭治郎くん、どうしました?」
     怪訝そうな顔で振り向いたしのぶに、炭治郎は少しばかり咳き込んでから、言葉を差し出す。彼女と一緒に帰途につく筈のカナエとカナヲが、そんな炭治郎を不思議そうに見ていた。
    「ええと……さっき話してくれた怖い話について聞きたいことがあって。しのぶ先輩は、怪談とかそういうのって詳しいですよね」
    「そうですね。まあ、趣味ですので」
     その返事に、確信が強まっていく。この期を逃す訳には行かないと、炭治郎は単刀直入に切り出す。
    「あの……えっと! ああいう、ふたりの人が同じ夢を見るっていうのは……他にもあるんでしょうか……?」
     しのぶはしばらく、訝しげな面持ちで炭治郎を見ていた。まんじりともせず、炭治郎はその視線を受け止め続ける。いささか尚早だったかと、己を恥じながら。
    彼女の不審げな仕草も、無理もない。しのぶから見れば、炭治郎がついこの間まで現実と夢との境目に潜り込んでいた病人だ。それがいきなり、突拍子もない怪談話に必死の形相で食いついてきたのだから。
     けれど、今さら取り繕ったって仕方があるまい。炭治郎は歯を食いしばり、お願いします、と深く頭を下げた。ここはとにかく気持ちのままを伝えて、彼女の優しさを信じるしかない。
     しのぶは黒目がちな瞳を瞬かせながら、星を数えるかの如く空へと視線を送っていたが、やがて何かを掴み取った様子で炭治郎へと再び向き合う。
    「……ええ、ありますよ」
     緊張で強ばっていた炭治郎の唇が開いて、肺に溜まっていた息が吐き出される。
    「しのぶ先輩、お願いします。詳しく教えて貰えませんか。その……夢の話」
     首を傾けて、しのぶは幾拍かのうちに何事か考えていたようだった。けれど、すぐに面立ちを引き締めて頷く。首の僅かな動きに、後ろ頭に止まった蝶の髪飾りが白い光を七色に変えてそちこちへ弾いているのが見えた。
    「いいですけど……もう遅いですし、私も全てをはっきり覚えているわけではありませんから、三日ほど待って頂いてよろしいですか? その間に、家の本から探してきますから」
    「構いません!」
    「では、昼の三時に町の図書館で」
    「はい! ありがとうございます……!」
     感極まった声を漏らして、炭治郎はひとつ、大きく頷いた。これで、民尾を探し出す糸口が掴めれば。胸に満ちていった感慨が、喫水線を越えて目元にまで滲んできそうになるのを、唇を噛んで耐えた。潮が引いてきたころに顔を上げると、目を丸くしてこちらを見ているカナエと目が合う。その視線に思考の皮膜を剥かれて、漸く周囲の現実が戻ってくる。
     そういえば、彼女たちも帰るところだったのに。慌てて、炭治郎は謝罪の言葉を口にする。
    「あ、胡蝶先生、カナヲ……いきなりごめんなさい! しのぶ先輩を無理に引き留めて……」
    「あら、いいのよ。しのぶのお話が面白かったのでしょう?」
     カナエが楚々とした風情で笑い、緩く手を振る。その隣で、カナヲは曖昧な顔で笑っていた。感情の読みにくいアルカイックスマイルは彼女の常態ではあるけれども、薄闇に紗をかけられたそれが、何故か今は後ろ髪を引くようにも感じた。
     ……きっと、自分の心持ちのせいなのだろう。
     民尾を求め続けた自分が、夢の中に再び堕ちていかないとも限らない。カナヲが炭治郎のいまの態度をその予兆と取って居たとしても不思議はないだろう。少なくとも、自分はそう解釈している。さながら彼女の笑顔は鏡だった。カナヲ自身が意図していなくても、その深みを勝手に他者が想像して、彼女の面に投影してしまう。夢の中で出会った顔ぶれがふいと頭を過ぎって、また消えていく。
    「ありがとうございます……じゃあ、また。おやすみなさい」
     深々とお辞儀をして、炭治郎は妹たちの元へと戻っていった。胸の中に凝結していく思いに、名前をつけることも出来ないまま。
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    MAIKING精神科の患者タンジロと医者たみおさんの炭魘シーズン2です。『ジョハリの箱庭』本編の裏で起こっていたことをタンジロとむざさま+上弦が解説してくれる話。長いので複数回に分けての投稿です
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     先導する男が笑う。
     童磨と名乗った医師の、白橡の髪を視線でなぞりながら、炭治郎は白い廊下を進んでいた。リノリウムの床に、歩幅のまるで違うふたつの足音が輪唱する。
     今いるこの四階に、自分の病室があるのだという。
     先程上がってきたエレベーターの中で説明された筈の情報ではあるが、どうにも実感が湧かなかった。それどころか、今日からこの診療所に転院してきた自分を、童磨が施設の入り口で出迎えてくれたときの情報も、もう既に酷く遠い。記憶は確かなのに、まるで、ほんの少しだけ過去の自分と現在の自分が、透明な壁で隔てられてしまっているかのように。
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     誰かが呼んでいる。

    『民尾くん』

     懐かしい声。

    『ねえ、また聞かせてよ。列車の話』

     柔らかい笑顔が、民尾の隣に咲いた。
     気づけば、また民尾は夢の中にいる。あの、幼い頃の記憶を継ぎ接いだ世界に。
     普段はそれを認識した途端に意識が現実を指向し始めるのだけれど、今日は勝手が違った。隣にいる幼い友人が呼んでいるから。その声が、微笑みが、民尾のたましいを優しく掴んで、留め置いてくれている。あどけない面立ちの後ろで、鉄道模型が無限の轍を巡り続け、車体がレールを引っ掻く軽い音だけが、子供部屋には満ちていた。
    『しょうがないなぁ』
     勿体ぶってみるけれど、緩む口元は抑えられない。
     本当は、こうやって友人と時間を共有できることが、嬉しくてたまらないのだから。背伸びをして、わざと冷淡に振る舞ってみせても、彼はそれを嫌味と取ることもない。いつでも心から驚嘆し、素直な歓声を上げてくれる。それを確かめたいからこそ、民尾はいつも無理に彼へすげない態度を取っていた。
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