十七時三十八分 発車時刻三分前、急ぎ足で飛び込んだ車両にはまだいくらか空席があった。車両の中程に進むうち、二人掛けの座席が空いているのを見つける。
「座るかい?」
夕暮れ時にはまだ早い。明るく照らし出された窓際の席を、視線で示してみせる。
「じゃあ、お言葉に甘えて」
彼はそう言って、窓際にしずかに腰を下ろした。
上体を軽く揺さぶる振動と共に電車がホームを離れていく。そのタイミングで、大きなため息が聞こえた。
「本当に、お疲れさま」
心からの気持ちを込めて言葉をかける。ちらりとこっちを見た彼は、表情をほどくようにして苦笑いをこぼした。
「こっちへ来ると、いつもこうだよね」
六本木のギルドマスター、及びギルド内屈指の有力者たちに用があって、放課後を待ってから駅へ向かった。そうやって二人で赴いた先、彼は熱烈な、それはもう文字通り熱烈な歓待を受けた。惜しみなく繰り出される愛の台詞を受け止め、手を取られては跪(ひざまず)かれ。そうこうしているうちに彼らの従者たちも飛び出してきて、上を下への大騒ぎになっていく。ようやく開放されたのは、用事が済んでから随分経ってからのことだった。
もっとも落ち着いた対応をみせたのはギルドマスターだったけれど、彼も話し始めると熱が入ってしまうタイプらしい。眼鏡のフレームを指先で押し上げてその位置を頻繁に直しながら、溢れんばかりの勢いで話を展開させる。
――他ならぬ彼にこそ聞いてほしい話や、伝えたいことがたくさんあるんだろう。その気持ちは、俺にもよく分かるような気がした。彼を前にすると、自然と言葉が溢れてしまう。きっと彼なら受け止めてくれる。自分の気持ちを分かってくれる。
相手の話のひとつひとつに丁寧な相槌を打ち、話の腰を折らない程度にコメントや質問を挟みながら、彼は全身全霊で相手の話に耳を傾ける。その姿を、一歩下がったところから見つめていた。
「――シロウ?」
突然目の前に彼の顔が現れて驚いてしまう。思わず仰け反った俺の後頭部及び背中は、座席にどんと重い音を響かせた。
「どうかした? 考え事?」
やわらかな言葉尻にからかいの気配が混じる。首を振って口早に謝った。
「大丈夫なの?」
「ああ。すまない、気にしないでくれ」
「そっか。……シロウが大丈夫ならいいんだ」
彼は穏やかに頷いて、シートに背中を預けた。
「さっきの話だけどさ。なんだかんだで、みんな俺に良くしてくれるのは嬉しいんだよ」
「そうだな」
少し考えたのち、首を縦に動かした。――彼に、誰かの面影を重ねている。かつて駆け抜けた世界での、大切な誰かの。
我らがギルドマスターにそんな一面がなければ、結成してから日も浅く人数も少ない自分たち弱小チームが、いちギルドとしてやっていけるはずがないというのもまた事実だった。
「嬉しいんだけど、それに甘えてていいのかなって思っちゃうこともあるんだよね。みんな俺自身のことを見てくれてるっていうより、俺の中にいる誰かを見てるわけだから」
「そう、だな……」
あっけらかんと響いた声の割に、彼の指摘は残酷だった。二人ともが口をつぐむ。がたんがたん、と走る電車ののどかな音ばかりが聞こえた。
「なんか、そんなことを考えてたらきりがなくなってきて困ったんだよね……。例えばさ。仮に、俺の顔が好きっていう奴がいたとするでしょ」
仮の話だよ、と、彼は言葉を重ねて笑う。茶化したように俺の顔を覗き込む彼を見つめ返しながら、でもそういう相手は案外近くにいるのかもしれないぞと、口に出しもできないことを考えた。
「でも俺の顔は、自分で望んでなった顔じゃないよね。じゃあそれって、俺自身のことを好きって言えるのかなぁとか、思ったりしてさ。どこまでが俺自身で、どこからがそうじゃないか、分かんないっていうか……」
言葉尻は、次の停車駅を告げるアナウンスに掻き消される。軽い調子を装ってはいたものの、彼なりに深く考えたのだろうと思った。
「……うまく言えるかどうか分からないし、そもそも見当違いのことを言うかもしれないが」
一度言葉を切り、相手の顔をまっすぐに見つめる。彼もまた、しずかに瞳を瞬かせ、じっと俺の言葉を待っていた。
「顔が好き、という感覚には、表情の問題がついて回ると思う。君の顔が好きというのなら、それは君の表情が好きということでもあると思う。……表情は、君自身が選び、作ってきたものだろう?」
彼は小さく頷いた。
「君の中に、他の世界の誰かの影が宿っているということ。それ自体は、君自身が選び取ったことではないかもしれない。けれど君自身の勇気や努力、いざという時の覇気がなければ、六本木を初めとした有力者たちもあそこまで君を讃えたりしないはずだ。だからやっぱり、君がみんなに好かれているというのは、君自身の魅力によるものだと俺は思う」
少しばかり早口になって告げてしまった後になって我に返る。彼はこころもち目を見開いて、まじまじと俺の顔を見つめていた。
「すっ、すまない、分かったような口をきいてしまった」
彼が気を悪くしてやしないだろうか。慌てて謝ったものの、まだ彼は驚いたような表情を浮かべている。俺自身の勝手な考えでものを言って、彼を傷つけたり型に嵌めたりしてしまうのは俺の望むところじゃなかった。
口から出ていってしまった言葉は取り返しがつかない。気が動転して、知らずのうちに深く俯いてしまう。俺に対して失望されてしまうのも嫌だ。つまらないことを言ってしまったのかもしれないと、悔いる心を救ったのは、彼の一言だった。
「ありがとう、シロウ」
顔を上げた先、彼は穏やかな表情で微笑んでいた。俺としっかりと目を合わせて、励ますように頷いてくれる。大切な相手を励ましたいと思っていたのは、俺の方だったのに。
「そんな風に真剣に俺のことを考えてくれる友達がいて、俺は本当に幸せ者だと思う」
はっきりと言い切られた台詞が胸に染みていく。
「ほ、本当かい」
返した言葉が、思わず震えた。
「うん。それに、シロウの言ってくれた通りだったらいいなって思ったよ。……俺は俺として、頑張っていこうと思う」
だから、これからもよろしくね。しずかな言葉と共に、そっと手が重ねられた。