「ふり」なんかできない 正面じゃなく、横から呼ばれて首をひねる。俺の顔を覗き込んでいた彼との距離は予想よりも遥かに近くて、思わず肩が跳ねた。慌てて距離を取ろうとするも、セーフハウスの壁際に座り込んで本を読んでいたのだ。壁に背中がぶつかって、どんと重い音を立てる。とっさに逃げられる場所なんてなかった。
「お、俺の顔に何か……」
「んーっとね」
俺の動揺には気づいてすらいないのか、リラックスしきっているらしい彼はふんわりした口調だった。俺の横へぺたりと座り込み、ますます顔を寄せてくる。興味津々といったように目を覗き込んでくる彼の瞳には、肩をこわばらせる俺の姿が映っていた。
鼓動がどくどくと鳴り響く。もっと顔が近付いてきて、唇が触れるだろうか。それとも、その前に手が伸ばされて、指を絡められるだろうか。ぴっとりと触れ合わされる感触、指と指のあいだをすべる皮膚の温度。
「シロウって、まつげが長いよね」
彼の一挙手一投足に神経を集中させていたというのに。彼が放ったのは、感心したような台詞だった。
「よくこうやってめがねを押し上げてるでしょ。そのたびにレンズにまつげがぶつかってるから、長いなぁって前から思ってたんだよね。近くで見ると、それがよく分かるなぁと思ってさ」
彼は俺の仕草を真似しつつ、楽しそうに話している。屈託のない笑顔だ。変に意識していたのが恥ずかしくなって、勢いよく顔を伏せた。
「あまりからかわないでくれ」
咳払いをし、読みかけの本の続きへ戻るべく文章を辿る。……違う、ここはもう読んだ一文だ。数行飛ばして進んで、けれどいま物語にどんな展開が起きていて、登場人物たちが何について話をしているのか、まるで頭に入ってこないのだった。
「シロウ?」
小さな声が横から投げかけられる。うん、と応えはしたけれど、俺は本のページから顔が上げられなかった。
「せっかくなら、キスすれば良かったかな」
小説の世界へ戻りかけた俺を、その一言が掴んで引き留めた。そっと盗み見た彼は、唇をとがらせている。
別に今からだって遅くはないぞと言おうとして、でも今、俺は本を読んでいるふりをしているのだった。