はるのひ「遠野くんねえ、見て」
ちょんちょん、と遠慮がちにカーディガンの袖を引いてみせながら、軽やかに弾んだ声が届けられる。促されるままに視線を向ければ、きらきらとまばゆくこぼれおちんばかりの明るいまなざしがこちらを捉えてくれる。
「ほら、菜の花が満開だよ」
指し示された場所――向かい側の歩道沿いの川縁では、フェンス越しに満開になった菜の花が風に揺れる様が見える。
「見ていく? せっかくだし」
「ん、ありがとう」
幸いなことに急ぎの用事だなんてものはないのだし、少しくらいの寄り道なんてちっとも問題になりやしない。まぶしげに瞼を細めたやさしい笑顔に心ごと縫い止められるような心地になりながら、折りよく青に変わった信号を渡る。
「すごいね、満開だ。よくこれだけ立派に咲いてるよね、誰かが育ててるってわけじゃないのにね」
「植物はそれだけ生命力が強いからね」
土手一面を埋め尽くすような明るい黄色は、春の訪れを心から祝福しているかのように、陽の光をぱあっと受けて明るく輝く。
「菜の花って食べられるんだっけ、お浸しとかにするんだよね。遠野くんは食べたことはある?」
「いや、僕は」
力なく頭を振って答えれば、やわらかにこぼれ落ちるような笑顔がそっとそれを受け取ってくれる。
「僕もないなぁ、ちょっと苦いらしいけどね。宗介のとこだと突き出しとかで出すこともあるんだってさ、季節の風物詩みたいな。日本料理ってさ、そういうのも重んじるようなところがあるもんね」
「五感で楽しむものって考えは根強いからね」
ささやくような響きで答えながら、フェンス越しに指し伸ばされた指先がぷっくりと膨らんださやをなぞる仕草をぼんやりと眺める。
「あのね、遠野くん。前から思ってたんだけどさ」
「ああ、なあに?」
ぱちり、とやさしいまばたきをこぼしながら掛けられる言葉を前に少しだけ身構えるような心地でいれば、うんと穏やかに瞼を細めながら、ぬくもりに満ちた言葉が届けられる。
「遠野くんって黄色い花が似合うよね。なんていうのかな、遠野くんが笑ってくれるとその場がぱぁっと明るくてやわらかい雰囲気になる感じがしてさ。菜の花もそうだけど、ミモザなんかもぴったりだなあっていうのをずっと思ってて」
「……あぁ、」
思いも寄らない言葉に、ふっと心を縫い止められるような心地を味わう。
「ね、よく言われるでしょ?」
戸惑いを隠せないまま、ひとまずは、とばかりに遠慮がちな相槌で答えれば、すぐさま得意げな口ぶりでの返答が覆いかぶせられる。
「初めてだと思うけど、そんなの」
「じゃあさ、気付いたのは僕が初めてってこと?」
「……そうなんじゃないの、たぶん」
照れくささをかみ殺すような心地で笑いながら、ひたひたと音も立てずに心のうちが満たされていくのを感じる。
「そんなこと言うけど、鴫野くんだってそうでしょ。その場にいてくれるだけでぱっとあたり一面が鮮やかな明るい色に染まって、優しい気持ちにしてくれるから」
いつだってあまやかな香りとともに、掛け値なしのぬくもりを届けてくれるところだなんて、特に。
「……うん、ありがとう」
まぶしげにもたらされる言葉を受けとめながら、静かにそっと視線を交わしあう。
「あのね、遠野くん。ちょっとお願いがあるんだけど」
ぱちぱち、と軽やかなまばたきをこぼしながら、とっておきの提案が優しくそっと差し出される。
「この後ってさ、お花屋さんに寄っていってもいい? あと、遠野くんのおうちって花瓶ってあったっけ?」
「あぁ……、いいけど」
ゆっくりと笑いかけるようにしながら、満たされたこの気持ちを届けられるようにと、おだやかに僕は答える。
「それならさ、僕からもお願いがひとつあって――花をいけるのにお誂え向きの花瓶がほしいんだけど、鴫野くんも一緒に選んでくれない?」
「うん、もちろん」
笑いながら、ちいさくこくりと頷きあう。
こうして隣を歩くようになったその人は、いつだってささやかな日々の喜びをいくつも教えてくれる。
たとえばそれはきょうこの日なら、花とともに暮らす日々のことを示していたりする。
「いつかそのうちさ、小さくていいから庭のある家で暮らしてみたいなって思うんだよね。季節ごとにいろんな花を育ててさ、ミモザの樹も植えてみたいなあって。ほら、いまの季節に通りから見るとすごく綺麗でしょ」
「いいんじゃない、すごく。君ならやすやす叶えてそうだけどね」
「遠野くんもそうなったらさ、遊びに来てよ。庭にちいさい机と椅子でも出してお茶でも飲んでさ、あの時あんなこと話したよねって思い出話でもしてさ」
「なんなら一緒に育てる? 手入れだって分担したほうが楽でしょ、きっと」
「……あぁ、うん」
少し照れくさそうにぎこちなく笑う顔を、ずっと心の奥に焼き付けていられればいいのに――シャッターを切るような心地で、僕はそっと静かなまばたきをこぼす。
いつか訪れるその日に思い出すことがあるのかもしれない、うんとささやかな春の日の出来事。