ゆうがたフレンド「遠野くんってさ、郁弥と知り合ったのはいつからなの?」
くるくるとよく動くまばゆく光り輝く瞳はじいっとこちらを捉えながら、興味深げにそう投げかけてくる。
大丈夫、〝ほんとう〟のことを尋ねられてるわけじゃないことくらいはわかりきっているから――至極平静なふうを装いながら、お得意の愛想笑い混じりに僕は答える。
「中学のころだよ。アメリカに居た時に、同じチームで泳ぐことになって、それで」
「へえ、そうなんだぁ」
途端に、対峙する相手の瞳にはぱぁっと瞬くような鮮やかで優しい光が灯される。
「遠野くんも水泳留学してたんだね、さすがだよね」
「いや、僕は両親の仕事の都合でアメリカに行くことになっただけで。それで――」
幼稚園の頃から続けさせてもらっていた水泳はジュニア大会で好成績を残したことをきっかけに、さらなる挑戦の場へと繋げてもらえるほどになっていた。〝環境に恵まれることも才能のうち〟だなんてことはごくありふれた決まり文句ではあるけれど、これに関してはどれだけ環境が変わり続けても〝水泳を続けること〟に関しては惜しみない理解と協力を尽くしてくれた両親に感謝するほかないのだろう。
瞳を伏せたままぽつりぽつりと力なく答えるこちらを前に、いかにも柔らかそうな髪をゆるやかに風にそよがせるようにしながら、ひどく優しい口ぶりで鴫野くんは答えてみせる。
「へえ、そうなんだ。でもさ、そうやって偶然アメリカに行った遠野くんが郁弥と同じチームに入れたってことは、遠野くんがそれだけ努力して結果を残し続けてきた証だよね? アメリカでも強豪のチームで泳いで、日本に帰ってからも郁弥と同じチームで郁弥のことを支えていきながら結果だってちゃんと残して。それってさ、並大抵の努力じゃ出来ないことだと思うんだけど」
「いや、そんなことは――」
郁弥ならともかく、僕は。喉元までこみ上げた言葉を前に、咄嗟に口をつぐむ。いくら〝ほんとうのこと〟だからと言ったって、出会って間もない相手に無遠慮に甘えてしまうのはお世辞にも褒められた行いではないことくらいわかっているから。
「謙遜しなくたっていいのに」
無様に口を噤んでためらうこちらを前に、きゅっとつり上がった猫みたいな眦がやわらかに下げられるさまをぼうっと眺める。
遠目に姿を見かけただけの時には、それほど印象にも残らなかったはずなのに――改めてこうして間近で目にしてみれば、つくづく不思議な印象を残す人物だな、だなんてことをいまさらのように僕は思う。
切れ長のつり上がった瞳や、いつでもきゅっと口角のあがった雄弁な語り口の唇はともすれば鋭い印象を与えかねないのに、まばゆく輝くような瞳に宿る穏やかな光や、いつでも柔和な笑みを絶やさないやわらかな笑顔、独特な響きをたたえたあたたかで心地よい声の響き――そのすべては、幾重にも折り重なりあうような不可思議な波紋をこちらへと広げてくれるのだから。
「それでね、思い出したんだけど……旭もさ、中学から高校にかけての間に何度か転校しなきゃいけなかったみたいで。高校の時に転校した先の学校には水泳部が無かったもんだから、プールの整備から初めて、一から水泳部を作ったんだって。すごいと思わない?」
うっとりと誇らしげな語り口で告げられる言葉には、惜しみない愛情が込められていることがひしひしと手に取るように伝わる。
「ほんとに驚いたんだけどさ、ハルたちもおんなじような状況だったんだって。ふたりとも中学二年の時から、水泳から離れてたんだけど、一年遅れて入ってきた後輩の子が水泳部を立ち上げるところから始めてくれたんだって。ハルと真琴とまた一緒に泳ぎたいって一心で、わざわざ私立の中学に入ったっていうのに、ハルたちの学校まで追いかけてきてくれたらしくって――すごいことだよね、それって。それだけ信頼出来る仲間が居て、また一緒に見たいって約束しあえる大切な景色があったってことだもんね」
「あぁ――、」
曖昧な笑顔で答えながら、鈍く疼くような痛みをそっとやり過ごす。
初めからわかっていたことだった――郁弥が〝共に見たい景色〟を描ける仲間は中学時代を共に過ごしたあの四人にほかならなくって――自分なんかが、その代わりになれるはずなんてありもしなかったことくらい。
ぶざまに目を逸らすこちらを気遣うかのように、やわらかな言葉がそっと届けられる。
「郁弥もさ、きっと同じように思ってたんだろうね。ほんとうはずっとまた、あの時と同じ景色が見たくって。それでも、中学の時のことがどうしても乗り越えられなかったせいで、前に進むための術がいつのまにかわからなくなって――身近にあるものほど気づけないってほんとだよね、一緒に泳ぎたいって思える仲間なら、もうずっと側にいてくれたのにね?」
くすり、と穏やかに笑いかけるようにしながらかけられる言葉が、いびつに震えた心のふちを穏やかになぞる。ほんとうに不思議だ、こんな心地になったことなんて、これまでまるでなかったはずなのに。
「鴫野くん、その……ありがとう」
憶えたばかりの名前と共に、〝らしく〟もない言葉を付け足す。ほんとうはそう言えれば良かった、最初からずうっと。ひどくぎこちなく発した言葉につれるように、不思議な安堵感がじわりと胸の奥で広がる。
「……どういたしまして。あ、ごめん。そろそろいい時間だよね? ちょっとスマホ見させてもらうね」
断る必要なんてないのに、わざわざ。案外律儀なんだな。どこか感心したような心地で一連の仕草をぼうっと眺めていれば、横目にそっとこちらへと視線を送りながら、優しい言葉がそっと手渡される。
「やっぱり旭から連絡来てたや、どこにいんだよって。こっちもようやく盛り上がって来たとこなのになぁ。空気読んでよって感じだよね?」
「いや、まぁ……ごめんね、気づかなくって」
いつの間にかすっかり陰りゆく夕暮れの茜色の光が、目の間の彼をやわらかく縁取り、穏やかに滲ませる――あたたかなきらめきに包まれたその姿は、あたかも置き去りにされた自身が生み出した都合のよい幻のようにも見える。
もうこれでおしまい。彼には帰りを待つ仲間が初めからいて――こうしてこちらにつきあってくれたのだなんて、ただの気まぐれにすぎないのだから。
「引き留めちゃって悪かったよね、つき合ってくれてあり」
わざとらしく目を逸らすようにしながら遠慮がちに答えるこちらを前に、かぶせるように言葉が投げかけられる。
「遠野くんと一緒にいるんだけどって送っていいよね? せっかくだしさ、一緒にみんなに会いにいこうよ」
「そんなこと――」
望まれているわけがないのに。こらえようのない気まずさに口ごもるこちらをよそに、得意げな目配せとともに流れるように軽やかな言葉が手渡される。
「ごめんね、もう送っちゃった。まぁさ、そんなに深く考えないでよ? 郁弥だってきっと心配してるだろうしさ、ハルや旭もきっとそうじゃないかな。遠野くんとちゃんと話してみたいっていうのはみんなだってきっと前からずっと思ってたはずだからさ、抜け駆けしてずるいって今ごろ言われてるのかも、僕」
やわらかそうな髪をかすかに揺らしながら投げかけられる言葉に、心はただ、さざ波のように静かに心地よく揺らされる。
「遠野くんに黙って帰られちゃったら郁弥だって寂しがるでしょ、もしかしたら今頃怒ってるかもしれないしさ? 郁弥のこと安心させてあげると思ってさ、ついでにみんなに挨拶だけでもしていってよ? 僕に無理矢理つれてこられたってことにしていいから」
答え終わるのと同時に、ゆっくりとその場を立ち上がる姿をただぼうっと眺める。
「ね、遠野くん?」
こちらへと差し伸ばされかけた掌が、ほんのすこしばかりの逡巡とともにすぐさま自身のパーカーのポケットの中へと引き寄せられる。
時間にしてしまえばほんの一瞬の、見過ごしてしまいそうなわずかなその仕草に、心の内は何度目かのざわめくようなさざ波にさらわれる。
あの時とおなじだ――随分時間は経っているはずなのに、まるで成長しているようすのない自身にはあきれるばかりなのだけれど。
「……鴫野くん」
わずかに震えた声で名前を呼びながら、あたたかな茜色を宿したまなざしをじいっと見つめる。
わかりきっていることだ、彼にとってはこんなことちっとも〝特別〟なことなんかじゃないことくらい。こちらの胸がこんなにも鈍く軋んでいることなんてちっとも気づいてなんていないはずで、それでも。
――そんな身勝手極まりないこちらの〝都合〟は、こうして凝りもせずに差し伸ばされた掌を払いのける理由になんてならないから。
覚悟を決めるかのような心地でぐっと息をのみ、僕は答える。
「別にいいよ、そこまで言うんなら。せめて一言くらいは改めて言っておくべきだしね、君たちと不必要に馴れ合うつもりはないからって」
わざとらしいほどの皮肉めいた口ぶりで答えてみれば、言葉とは裏腹の、瞼を細めたあたたかな笑みが返される。
一体なんて説明すればいいんだろう、こんな気持ちのことは。
不思議な高揚感に包まれて行くのを感じながら、僕はゆっくりと歩き出す。