Magic days. そういえばさ、まだ言ってなかったよね?
同じ高さからまっすぐにこちらへと向けられるまなざしとともに、おだやかな言葉がそっと手渡される。
「叔父さんがさ、今度遠野くんに遊びにきてもらいなさいって言ってくれてて。遠野くんの都合のいい日ってある?」
「……あぁ、ええっと」
言いたいことはたくさんあるけれど、ひとまずは。ぱちぱち、とまばたきをこぼしたのちに、ゆっくりと唇を押し開くようにして答える。
「いや、いいんだけど……なんでそんな話になったの?」
顔を合わせたことはないはずだけれど――まあそりゃあそうだ、大学生ともなればそれが当たり前だし。
戸惑いを隠せないこちらをよそに、すっかり見慣れてしまったあの得意げな笑顔で鴫野くんは答えて見せる。
「僕がいつもうちで遠野くんの話してるからじゃないかなぁ。きょうも遠野くんと遊びに行ってくるって前から話してたからさ」
「話って、どんなこと話してるの?」
総じて、お世辞にも好印象を与えているとは思えないのだけれど。
思わず心なしか足取りがゆるやかになるこちらに合わせるように、いつもよりもすこしだけペースを落とすようにしながら、やわらかに鴫野くんは答える。
「遠野日和くん、郁弥とおんなじ霜狼大学の水泳部の選手で専門はバック。アメリカからの帰国子女で、いつも落ち着いててかっこいいんだけどかわいいとこもいっぱいあって、気配り上手でいろんなことによく気がついてくれていっつも優しくて、水泳もだけどバスケも上手くて、とにかくセンスが良くて、頭の回転が早くて色んなことに詳しくて、一緒にいるとすごく楽しくて――」
「あの、鴫野くん」
慌てて遮るように言葉を被せれば、まばゆく光るまなざしをぱちぱち、としばたかせながら首を傾げる仕草がこちらへと向けられる。
「まだあるんだけどなぁ。ごめんね、勝手に話しちゃって。怒った? もしかして」
あるわけないのに、そんなこと。
大袈裟に肩をすくめながらかけられる言葉を翻せるようにと、せめてものぎこちない笑顔で答えてみせれば、いたずらめいた無邪気な笑顔に包み込まれる。
本当に、こういうところなんだよな。こういった本質的な違いらしきものを見せつけられる度に襲われる不思議な気まずさと、裏腹に迫り上がるようなあたたかな心地よさのことをどう説明すればいいのかなんてことが、いまだによくわからない。
「……そうじゃなくて」
俯いたままゆるく頭を振り、ぽつりと控えめなボリュームで答える。
「なんだかやけに大袈裟に褒めてくれてる感じがするから……期待外れになるんじゃないかって不安に思っただけ」
そもそも、こうして難なく受け入れてもらっていることをいまだに不思議に思うくらいなのに。
次第に弱まっていく言葉尻に気づいたのか、打ち消すような明るい笑顔での言葉が届けられる。
「そんなことないよ。僕、本当のことしか言ってないでしょ? 遠野くんって謙虚だもんね。まぁさ、そういうとこも遠野くんらしいところだと思うから、無理に変えなくたっていいと思うんだけどね」
なんの衒いもなく差し出される言葉に、無様なまでに心は心地よく緩やかに軋む。
どんなふうに答えればいいんだろう、こんな時には。
素直に嬉しいとそう伝えればいいだけなことくらいは重々承知してはいるのだけれど、きっとそれだけなんかじゃなくて――頭の中を掻き回すようにして言葉を探しながら、ひとまずは、とばかりにぎこちない笑顔を浮かべてみせることでその場をやり過ごすのに必死になる。
「……その、ありがとう。嬉しいよ、すごく」
口ごもりながら答える言葉を前に、穏やかに瞼を細めた笑顔が返される。
「よかったあ。もしかしてだけどさ、一緒にいて楽しいっていうの、僕だけなのかと思っちゃったもん」
ぱちり、とウインクをこぼしながら告げられる言葉に、無様なまでに心は翻弄される。まったくもって、「らしい」としか言えない。こんな時には。
からかわれてるんだよな、きっと。頭ではいくらわかっていても、心の無様な軋みまではどうにも抑えようがない。
「そんなことないけど……そうならわざわざ会う約束なんてしないよ」
律儀に顔を出してくれる合同練習や仲間内でのちょっとした集まり以外でも、気づけば郁弥を除いたあのメンバーの中で一番顔を合わせる機会が多くなっていたのが鴫野くんだった。
それがどうしてなのかなんて言えば、ただ成り行きとしか言いようがないのだけれど。
「よかった、嬉しいなぁ」
なんの飾り気もなく差し出される言葉には嘘偽りなんてかけらもないまっすぐな想いが込められていることが手に取るように伝わるから、どこかくすぐったく感じるようなあたたかさに胸をつまらされる。
「それで――、その、お誘いの件なんだけど」
話を遮ってしまったことへのいくばくかばかりの責任を感じながら遠慮がちに切り出せば、こちらをじいっと覗き込むようにしながらの明るい笑顔が差し出される。
「ハルたちも前に来てくれたことがあってさ。五月の連休の後だったかな? 叔父さんも賑やかなのが好きだからって喜んでくれて――そうだ、せっかくだから郁弥も呼ぼうかな、来てもらったことなかったしさ。あとは旭も誘ってさ。旭はちょくちょく来るんだよ、叔父さんとも仲が良くってさ、うちに来たら一緒にゲームとかしてて。遠野くんもいいでしょ、そのほうが」
ごめんね、気づかなくって。そうだよね。穏やかに笑いながらかけられる言葉に、歪に軋んでいた心は穏やかに包み込まれる。
「ありがとう、わざわざ。――郁弥には僕から連絡しておけばいい? 椎名くんには鴫野くんからがいいよね」
「うん、ありがとう」
どうしてそんなにも嬉しそうに笑いかけてくれるんだろう――僕なんかに。
ふいうちのように襲いかかる不安定に揺らぐ感情を打ち消すように、じいっとこちらを見つめるきらきらとまばゆく光輝くまなざしはこちらを静かに包み込む。
「よかったなぁ、ご馳走作って待ってるからね? 何がいいかなぁ。ていうか郁弥ってきてくれるのかなぁ。遠野くんと旭も来るって言ったらたぶん大丈夫だよね、むしろ仲間外れって拗ねるかもしれないし」
「そんなこと……」
まったくない、とはあながち言い切れない。このところ、以前よりもいくらかは感情表現がまっすぐかつ豊かになってきたように見えるのは確かだし。椎名くんの前でなら尚更に。
「あってもおかしくはないかもね、まぁ」
「郁弥には内緒にしておいてね、いまの」
「当たり前でしょ、そんなの」
目を合わせながら、声を立てずにくすくす笑い合う。
なんでなのかなんてことはすこしもわからない。それでも確かなことはひとつだけ――彼の隣は、こんなにも穏やかで心地良いのだということ。
「ちょっと前なんだけどさぁ」
地下道に立ち並ぶ、いくつもの光り輝くショーウィンドウをぼうっと眺めながら、ぽつりと囁くように鴫野くんはつぶやく。
「ひとりで入ったカフェでね、隣にふたり組の女の子たちがいて。たぶん片方の子が旅行かなにかで来てたんだろうね、『二日間ずーっと一緒にいられてほんとに楽しかった、ぜーんぶ楽しかった、最後にこんなに素敵なお店に連れてきてもらえて本当に嬉しかった。もうあとちょっとでお別れしなきゃいけないなんてすっごく寂しい』って夢中で話してて、向かい側の子はずーっと嬉しそうにその子のこと見ててさ。別にさ、盗み聞きする気とかは全然なかったんだけど、かわいいなぁって思って」
愛しむように瞼を細めながら、優しい言葉が続く。
「なんかいまならちょっとわかる気がするんだよね、あの子たちの気持ち。別に遠野くんのこと困らせたいわけじゃないんだけどさ、なんかちょっと寂しいよなぁって思っちゃうから、どうしても」
「また会えるでしょう? すぐに」
「本当かなぁ」
「鴫野くんが迷惑じゃなければね」
「こっちのセリフなんだけど、そんなの」
すこしだけ綻んだようすで手渡される言葉に、心はただ穏やかに揺らぐ。
地下鉄の乗り換え口まではあともう少し――お互いに違う路線に住む僕たちがこうしてただ隣に居られる時間はもう残り少ない。
気づかれないようにすこしだけ緩めた歩調に合わせるように、鴫野くんの足取りがペースを落とすのをちらりと視線を落として確認しながら、ささやかな笑みを浮かべる。
すこしずつ、すこしずつ。
ゆるやかに足並みをそろえるようにしながら、僕たちの距離は近づいていく。