帰り道の途中 不慣れでいたはずのものを、いつの間にか当たり前のように穏やかに受け止められるようになっていたことに気づく瞬間がいくつもある。
いつだってごく自然にこちらへと飛び込んで来るまぶしいほどにまばゆく光輝くまなざしだとか、名前を呼んでくれる時の、すこし鼻にかかった穏やかでやわらかい響きをたたえた声だとか。
「ねえ、遠野くん。もうすぐだよね、遠野くんの誕生日って」
いつものように、くるくるとよく動くあざやかな光を宿した瞳でじいっとこちらを捉えるように見つめながら、やわらかに耳朶をくすぐるようなささやき声が落とされる。
身長のほぼ変わらない鴫野くんとはこうして隣を歩いていても歩幅を合わせる必要がないだなんてことや、ごく自然に目の高さが合うからこそ、いつもまっすぐにあたたかなまなざしが届いて、その度にどこか照れくさいような気持ちになるだなんてことも、ふたりで過ごす時間ができてからすぐに気づいた、いままでにはなかった小さな変化のひとつだ。
「――あぁ。そうだったね、そういえば」
年が明けて間もない頃、郁弥からいつものあの仲間内で誕生日会を行おうだなんて話になったのだ、と告げられたその時のことをありありと思い返す。
「最初はサプライズにする? って話だったんだよね。旭が言い出したんだけどさ、遠野くんってそういうのあんまり気乗りしなそうだからって。そしたら郁弥がいつもの感じで怒り出しちゃって、日和はたしかに遠慮しがちなタイプだけど、サプライズとかこそこそ黙って仕掛けられるようなのはいちばん嫌いだからって」
「まぁ――、」
あまり大っぴらに騒がれること、だからと言って黙ってサプライズを仕掛けられること――その両方に苦手意識があるのはほんとうのことだ。
それなりに長い付き合いの郁弥ならともかく、椎名くんにまでどうやら見抜かれていたらしいだなんて、どこか座りの悪いような心地にさせられてしまう。
「まあなんとか真琴が宥めてくれたんだけどさ、確かに遠野くんはちょっと恥ずかしがり屋だから遠慮される可能性はあるけど、郁弥がそういうんならちゃんと話してみようよって。昔からずっとああなんだよね、郁弥はすぐに旭に対してムキになるし、ハルはなにかと言葉足らずだから誤解されるようなことも多くって、その度に真琴が何かとフォローしてくれるのの繰り返し。なんかさぁ、懐かしいなあって嬉しくなっちゃったんだよね」
うっとりと瞼を細めたおだやかな笑顔には、いつもに増してのやわらかな慈しみの色が溶かされているのがありありと伝わる。
郁弥の中学時代のようすがどんなふうだったのかなんてことは、窺い知ることはできない――郁弥はことさらにその頃のことを話そうとはしなかったし、こちらが居る時には皆が遠慮して、極力思い出話に触れることを避けているように見えるからだ。
それでも、これまでに過ごした時間の中では決して見せることのなかったようなくるくると移り変わる表情や、子どもみたいにわざとらしいほどムキになって椎名くんとの口喧嘩の応酬に明け暮れる姿を見ていれば、その断片はかすかに垣間見えるような気がしてくる。
「むかしっからずっとああなんだよね、あのふたりって。だからって仲が悪いってわけじゃないんだよ? むしろ一番特別な関係っていうか――旭こそがライバルだって思ってるってことなのかな、結局は」
「あぁ――、」
曖昧に言葉を濁すこちらを横目に、いつもどおりのあのやわらかな笑みに包まれた言葉が返される。
「凛と宗介にもそういうとこってあるからさ。お互いに認め合って一目置いてるからこそ、ちょっとしたことですぐにムキになって――要するに甘えてるんだよね。そういうふうに剥き出しの感情でぶつかったってきっと受け入れてくれるだろうって。遠野くんみたいに、いつでも側にいてお互いに支え合えるような関係とはまた違うんだよね、きっと。たぶんどっちも郁弥にとってはかけがえのない大事なものなんだろうけどさ
「そうならいいんだけど――」
「遠野くんってそういう時、すぐ弱気になるよね。もっと自信持ったっていいのに」
ね、信号変わるよ。
囁くような優しい声に促されるままに、どこか浮ついた気持ちのまま歩き出す。
いつからかこうして、バスケサークルの集まりに呼ばれた日以外にも鴫野くんとふたりで帰路につくことがごくあたりまえになっていた。
例えばきょうみたいに郁弥と椎名くんが連れ立って共に出掛けるのだという時、郁弥がはじめから来れなかった時、夏也くんに半ば無理やりに連れて行かれた時にも――僕がひとりにならないように気遣われているんだろうか、なんていうのはきっと、思いあがりに過ぎないのだろうけれど。
「ちょっと回り道になっちゃうんだけどさ、この近くに大きな公園があるんだよね。バスケのコートがあるからたまに寄るんだけどすごく綺麗だし気持ちいいところだから、遠野くんと一緒に歩きたいなって」
穏やかに綻んだ笑顔と共に告げられる提案を前に、どこか照れくさい気持ちを隠せないまま受け入れれば、心底嬉しそうな穏やかな笑みが返される。
どうしてこんなにも心を許したように笑いかけてくれるんだろう。僕なんかに――心の中で口にしかけた言葉に、慌てて蓋をする。
自信のなさからつい自分を卑下しがちな物言いをしてしまうのはいつのまにか身につけてしまったくせで、そのことをやんわりと指摘してくれたのが鴫野くんだった。
「遠野くんは優しいからだろうけど――あんまりそういう言い方ばっかりしてると遠野くん自身にもよくないし、遠野くんのことを大事に思ってるみんなが悲しくなっちゃうよ」
ごめんね、偉そうなこと言っちゃって。
すこし遠慮がちに眉根を下げながら告げられた言葉に、はっと気付かされたような心地になったあの時のことはいまでも時折思いかえすことがある。
故郷に幼い弟さんがいるのだということは少なからず関係しているのだろうか――つい素直になれずに意地を張ったからかい文句で答えてしまう僕とはまるで違って、鴫野くんはいつだってごく自然なそぶりで心を解きほぐすように話を切り出してくれる。
「そこの角を曲がったところなんだけど――ほら、見えてきたでしょ」
雑居ビルに、よくよく目にするチェーンの飲食店やコンビニ、その合間を縫うようにぽつりぽつりと姿を現す、いやに雰囲気のあるコーヒーショップやパン屋さん――馴染みのない通りを抜けたその先に、言われていた通りの広々とした公園は姿をあらわす。
煉瓦造りの入り口の先には両サイドにいくつものベンチを点在させたうんと広い歩道と、冬枯れの木々が見える。
「あったんだ、こんなところ」
「薔薇園もあるんだよ、すごく綺麗みたいで。あとね、時々イベントなんかもやってるんだって。前に先輩に誘われたんだよね、クラフトビールフェスタがあるから来ないかって。まだ未成年なんでって言って断ったけどね」
からりと笑う声に、こちらまで心が軽くなるような心地を味わう。
広々とした歩道の片側には子ども用の遊具を設えた遊戯スペース、もう片側には季節の折々の花が咲く、立派な水路を備えた広々とした公園。はしゃぎ声をあげる子どもたち、ベンチで本を読んだり、おしゃべりに興じる大人たち――さながら、都会のオアシスとでも呼びたくなるような長閑な空間がそこには広がっている。
「ねえ、せっかくだしちょっと休憩していかない? きょうってそんなに寒くもないしさ」
差し示される先にあるのは、しばしば見かけるような飴色の木製のベンチだ。
「あぁ、いいね」
心ばかりの笑顔で答えれば、穏やかに綻んだ笑みがしずかにそれを受け取ってくれる。
深く息を吸い込めば、朽ちた木や枯れ葉、かすかに湿った土の芳醇な香りが漂う。
すこし遠くから響く行き交う車の音に交わるように、木立の揺れる音や子どもたちのはしゃぐ声、鳥の囀る声がおだやかに響く。
ひどく晴れやかなこの心地よさは、隣に腰を下ろす相手のもたらしてくれる穏やかな空気にもどこかよく似ている。
「ねえ、鴫野くん――」
もどかしく言葉を探すようにしながらちらりと横目に視線を送るようにすれば、すぐ目の前をすり抜けるような速さでサッカーのユニフォーム姿の男の子たちが駆け抜けていく。歳の頃はおそらく四年生くらいだろうか。日に焼けたいかにも健康的な姿とスパイクシューズ姿をどこか眩しく思いながらぼうっと眺めていれば、隣に腰をおろした鴫野くんの視線もまた、そちらの方へとうんとひそやかに向けられていることに気づく。
穏やかな慈しみを溶かし込んだような、やわらかに細められたまなざし――その奥に秘められたものが何なのかなんてことくらい、殊更に言葉にしなくたってわかる。
「遠野くん、」
こちらの視線に気づいたのか、すこし照れくさそうに瞼を細めた柔らかな笑顔が投げかけられる。
「なんかさ、ああいう子たちのこと見かけると、つい目が止まっちゃうんだよね」
「……弟さん?」
無粋だろうかと片隅で思いながらも、遠慮がちにそう尋ねてみれば、途端に花の綻ぶような穏やかな笑顔が広がる。
「水泳、すごく楽しいみたいで。夏に帰省した時にもプールに行こうって誘われてさ。泳げるようになったの、よっぽど見て欲しかったんだろうね。旭も一緒だったんだけど、旭お兄ちゃんも泳いでるとこ見せてってしきりにねだってさ。ずうっとカッコいいね、すごいねって言われるもんだから旭ってばすっごいデレデレになっちゃって。遠野くんにも見て欲しかったなぁ」
眩しげに瞼を細めた笑顔に、こちらまで絆されるような心地を味わう。
「大会もテレビで観てくれてたみたいで、真琴が出てないのはすごく寂しかったみたいだけど――橘コーチは大会で泳いでるみんなの力になれるようにって頑張ってるんだよ。颯斗の先生になれたのがきっかけで新しい夢が見つかったんだよって言ったらすごく喜んでて。かわいいでしょう? あ、遠野くんのことだってもちろん話したからね。お兄ちゃんの自慢の友達なんだよってね」
「あぁ……ありがとう」
中学時代からの幼馴染の仲間たちとおなじように紹介してもらえるだなんて、本当にいいんだろうか? どこかおぼつかない居心地の悪さとともに、じわり、と染み出すようなあたたかな心地に包まれてしまう。
「颯斗も背泳ぎの練習頑張ってるところだからさ、すごいね、かっこいいねって言ってて――そういえばさ、話が変わるんだけど。遠野くんはいくつの時からはじめたの? 水泳」
ぱちぱち、とやわらかに落とされる瞬きに心ごとそっと包み込まれるような不思議な心地を味わいながら、ぽつりとおだやかに答える。
「たしか、四つの時だったかな。両親から色々と習い事を紹介されたんだけど、いちばん楽しかったのは水泳だったんだよね」
「へぇ、そうなんだ。やっぱりみんなそれだけ小さい頃からはじめてるんだね。旭もそのくらいの頃にはお父さんから教わってたって言うしなぁ」
「そうなんだね」
ぎこちなく笑いながら、どこかじわりと染み出すようなおぼつかない感情に心を揺さぶられるの感じる。
『小学校に上がる前にいろいろなことを経験しておくとためになるし、お友達だってできるかもしれないでしょ?』
多忙だった両親にもちかけられた習い事の提案が『長く預かってくれる上に体も丈夫になれば何かと手がかからなくなるから』だなんて至極合理的な理由に基づいていることくらいは、子供心にもとうにわかっていた。
引っ込み思案な性格がすぐに克服もできるはずもなく、あいにく友達は中々作れなかったけれど、あの時、水泳と出会えたことはほんとうに幸福なことだったと心からそう思っている。
まさかここまで続けていけることになるとは、当然ながら思うはずもなかったのだけれど。
複雑な気持ちに駆られるのを感じていれば、じいっとこちらのようすを伺ってくれている優しい色をしたまなざしがむけられているのに気づく。
「――鴫野くんは、バスケはいつから?」
取り繕うようにそう尋ねれば、いつものあの、穏やかに瞼を細めた笑顔が返される。
「小学校三年生の時から。サッカーとちょっと迷ったんだけど、体験教室ですっかり夢中になって。お父さんも中学でバスケ部だったみたいで、すごく喜んでくれたんだよね」
「へぇ」
やっぱり違うな、あたりまえだけれど。ちくりとわずかに胸が痛むのをやり過ごすように曖昧な笑顔を浮かべれば、ぱちぱち、とゆっくりのまばたきが送られる。
「結構強かったんだよ、中学の時にはスカウトだってきたしね。まぁ、遠野くんの足元には及ばないと思うけど」
「そんなこと……」
照れながら答えれば、打ち消すようにそっと首を横に振られる。
「ね、ちょっとだけさせてもらってもいい? 昔話」
「あぁ、うん」
相槌めいた返答を前に、にこりとゆるやかな笑みを浮かべながら、穏やかに言葉が紡がれていく。
「遠野くんの部活の引退ってさ、高三の夏だった?」
「……まあ、そうだね」
スカウトの申し入れを受けるにしろ、一般受験を選択するにしろ、夏の大会は大抵の三年生の最後の大舞台であり、人生の岐路となることが殆どだ。
「僕もそうだったんだけど――部活の間にさ、右の手首を捻挫しちゃったんだよね。怪我自体は全然大したことなかったんだけど、試合には当然しばらく出れなくなっちゃって。かっこ悪いよね、ほんとうに。気をつけてたのにだよ? しかも僕、キャプテンだったのにさぁ。僕のポジションは二年の有能な子に代わってもらって、あとは下半身中心の陸トレと、監督やマネージャーと一緒に練習メニューの調整に、後輩の指導だけ。でも結局試合に出れない部員なんてお荷物だから、実戦の日なんかはみいんなおやすみしてて――コーチにもお医者さんにも散々言われたんだよね、手首の怪我はくせになりやすいから、油断して焦って戻ろうとして取り返しのつかないことになったら話にならないよって。そうだよなって思いながら、言われたとおりにお医者さんに通って、リハビリもして――そうしてるうちに、病院で宗介に会ったんだよね」
あの鯨津の山崎が一時期からぱったりと公式試合に出てこなくなったこと、三年になって突如鮫柄学園の選手として戻ってきたことは高校水泳に注目していた者ならみな大きく驚かされた一大事件だった。まさかその裏に肩の故障だなんて大事件が関わっているのだとは、当然ながら想像できるはずもなかったのだけれど。
「宗介ってば水臭いんだよ、こっちに帰ってきたらしいってのは聞いてたけど、ろくに連絡もくれないんだからさ。場所が場所だから心配な気持ちはもちろんあったけど、久しぶりに会えて嬉しい気持ちのほうが強くってさ。宗介、どうしたの!? って話しかけたら露骨に嫌そうな顔されちゃって。ひどいと思わない? 幼馴染とのせっかくの再会なのにだよ? 僕みたいに練習中にどこか痛めたのかなって思ったら、気まずそうにしたまま肩をさすってて――ああそっか、バッタっていかにも肩に負担がかかる泳ぎ方だもんなって思ってさ。でも夏の大会には出る、凛とおなじチームでリレーを泳ぐんだって言うから、てっきりそこまでひどい怪我じゃないんだな、僕と違ってもう治ったんだって思って。のんきなもんだよね?」
わずかに伏せられたまなざしには、静かな後悔の色が滲む。
「それから少しして、僕のほうはサポーターも取れたし、見た目じゃすこしもわかんなくなった。それでも油断は禁物だって言われて、試合にもしばらくは出してもらえないことになってたんだよね。こんな不甲斐ない部長じゃ部活にも顔が出しづらくなってたんだけど、ちょうどその頃から颯斗がSCに通い始めたもんだから、部活がなくなったぶん、僕が学校の帰りに迎えに行くようになって。そうしてるうちに、ハルと真琴に会ったんだよね。びっくりしたよね、ほんとうに。中学以来だったしさ。ふたりとも色々と事情があったせいで二年に上がる頃には水泳部を辞めてて――でも絶対にそれっきりで終わるわけなんてないって思ってた、こうしてSCに居るってことはまた水泳に戻ってきたんだろうなって。そしたらふたりとも新しい仲間とまた一緒に泳いでて、次の大会では凛と宗介のチームと対決するって言うんだからさぁ。すっごく嬉しかったんだよね、僕。どっちも応援したいから困っちゃうんだけど、みんながいまも水泳に夢中で活躍してるんだってことがすっごく誇らしかった」
眩しげに瞼を細めた笑顔には、心からの慈しみが込められているのがありありと伝わる。
「真琴が言ってくれたんだよね、貴澄もバスケ続けてるの? って。もちろんだよって答えた。もうすぐ県大会なんだ、ハルたちもそうだよね? 頑張ってねって。まあ僕はベンチにも入れない予定だったんだけどそんなこと言えるはずもなくて――でも、頑張り次第ではインターハイに行けるはずだから、その頃には試合にも出してもらえるだろうって期待してたんだ。去年は県大会止まりだったけど、今年こそはきっとって思ってた。自分なりにここまで頑張ってきたんだし、最後の夏なんだから神様だってすこしくらいはチャンスをくれるはずだよねって」
次第に掠れて頼りなく途切れていく言葉尻は、その結末に待ち構えているものをありありと予言してくれている。
「鴫野くん、」
思わず気遣うようにそっと声をかければ、すこしばかりわざとらしく感じるような強気な笑顔がそっとそれを覆う。
「でもまあ、予想通りだよね? チームのためにもできる限りのことはしたつもりだったけど、結局ベスト8にも残れなくってさ。なあんだ、ここで終わりなんだなって。でもその試合の帰りに、よく練習試合で一緒になった学校のキャプテンに捕まってさ。言われたんだよね、お前との勝負は大学まで持ち越しになったなって。向こうの学校はまだ勝ち進んでるのにだよ? なんだよそれって思った。それでも僕は何も答えられなくって――あっちは大学でもバスケの強豪に行くって決めてるみたいだけど、僕はまだどうするかなんて決心出来てなかったんだよね。そのうち1on1でもしようよ、って言ったらふざけてんのかよ? って怒られちゃった。理不尽だと思わない? スポーツマンってそういうタイプの人が多いのかな、宗介なんかもそういうとこあるんだよね。ハルのこと、昔っからすっごく意識してて」
深く息を吐き、力なく言葉は続く。
「正直さ、ちょっと自惚れてたところはあったと思う。僕がチームをまとめ上げて強くするんだ、それで結果を残して、大学からのスカウトなんて受けてって――プロになれるとかなりたいだなんてビジョンは見えてなかったけど、バスケはやれるとこまでやりたいって思ってた。でもさ、限界みたいなのがすぐに見えちゃったんだよね。一応一年から補欠にはなれたけど、ミニバスの時からずうっとMVPには程遠かったし、中学から六年頑張ってもいいとこ県大会の上位止まり。遠野くんにいまさら言うことでもないと思うんだけどさ、全国制覇を目指すような部活って本当にハンパないんだよね。毎日吐くまで練習して、倒れても叩き起こされて猛烈にしごかれて、部活の時間だけじゃない個人の練習量も相当で――そこまで打ち込めるのはすごいことだと思うよ? でも、それが本当に正しいことなのかな? っていうのもすごく思ってた。みんなが好きで始めたはずのバスケのことを下手したら嫌いになっちゃうんじゃないか、体も心もボロボロになって何も残らないんじゃ意味がないよなって。甘かったんだよね、要するに。そんな考えのキャプテンが率いてるようなチームが全国までいけるわけがないんだよね、そりゃあ。反発してくるような子は幸い居なかったけど……面と向かっては言えなかっただけかもしれないよね、あんな不甲斐ないキャプテンなんかの下でやりたくないって」
いつもなら見せないようなひどく弱気な言葉には、ありのままの憂いが静かに溶かされている。
これが正解なのかなんてことはわからない、それでも――振り絞るような心地で、そっと言葉を切り出す。
「思わなくたっていいんじゃない? そんなこと。結果が思うように残せなかったのはたしかに残念だけれど、アクシデント自体は誰のせいでもないでしょう? それに、部活っていうシステムになにかと問題があることは事実だしね。鴫野くんみたいにまわりのことをちゃんと気遣って競技を楽しむ気持ちを忘れないでいられるようにって思ってくれるキャプテンがいたのも、無理をしないようにって止めてくれたコーチがいてくれたのも、すごくいいことなんじゃないかな。鴫野くんとおなじチームになれたみんなは嬉しかったと思うよ、きっと」
心からの気持ちで精一杯に答えれば、やわらかな笑顔がしずかにそれを受け止めてくれる。
「遠野くんって優しいよね、すごく」
「そんな――、」
戸惑いを隠せないこちらを前に、いつものあのどこか得意げな笑顔が被せられる。
「ごめんね、なんか。迷惑かもしれないんだけどさ、こんなこと言われても」
手繰り寄せるような慎重さで、やわらかに言葉は続く。
「正直に言えばさ、みんなのことが羨ましくないって言えば嘘になると思う。僕がもう潮時なんだろうなって思ってた時、旭から連絡があってさ。今年も県大会止まりだったけど去年よりは順位も上がった、ベストは尽くしたから大学からがついに本番だって。ハルや真琴や郁弥たちともまた対決するんだ、もしかすれば選抜チームでまた一緒にリレーが泳げる日だって来るかもしれないからって。転校してから岩鳶のみんなで繋がってたのは僕だけだったんだけどさ、みんなきっと水泳を続けてるに違いない、全国まで行けばきっと大会でみんなに会えるから、その時でいいって信じてたんだって。大学まで持ち越しだっていうんなら、それはそれで楽しみが先延ばしになっただけだしって」
いつか叶えばいい、尽きせぬ努力のその先で――それがあまりにあっさりと、入学初日に叶うとはさすがに思っていなかったようだけれど。
「なんかさ、運命的だと思わない? みんながおんなじように都内の大学で、ハルと旭なんて中学以来の同じチームになれて、真琴だって当たり前みたいにこっちに来てて――まあ、あのふたりが離れられるわけないよね、とは思ったけどさぁ」
くすくすと笑いながら紡がれる言葉に、思わず釣られるように笑みがこぼれる。
「……まぁ。あるよね、それは」
精神論的なことを支持するつもりはないけれど、あのふたりの特有の距離感にはなにか外側からは窺い知ることなど出来ないような深い繋がりがあるのだろうとしか思えない。
「でもさ、結局思ったとおりだったんだよね。ハルや真琴や郁弥も、夏也先輩や尚先輩も――みんながそれぞれの形で水泳に関わり続けてて、人生を捧げたいくらいの宝物だって思ってて。なんかさぁ、そういうのを間近で見ちゃうと、僕って中途半端だよなあって情けなくなっちゃうんだよね。要は自分の限界の浅さが見えたからって、競技の世界から逃げただけなんだよね。たぶん耐えられないなって思ったから大学はバスケ部がない学校にしたんだけど、卒業した先輩がサークルのことを勧めてくれて。部活みたいな厳しい上下関係も特訓もないから、ただバスケが好きな気持ちだけで楽しめるよって」
すこしほっとしたようすの安堵を浮かべたゆるかな笑みに、こちらまで心がやわらかになぞられるような心地になる。
勝ち負けを賭けた熾烈な世界を降りたのだとしても、ただ純粋に競技を楽しめる心地よい居場所があるのだということを知られたことは、どれだけの救いになったのだろうか。
「ぬるいなって思うでしょ?」
「そんなこと……」
静かにかぶりを降り、自重気味な言葉を打ち消す。そんなふうに言ってほしくなかった、だって鴫野くんは――こんな言い分が身勝手な押し付けに過ぎないとわかっていても、それでも。
「それってそんなに悪いことなの? むしろ凄いことだなって僕は思うんだけど――だって、鴫野くんは自分にとってのバスケとのより良い向き合い方がちゃんと選べたってことでしょ? それってすごいことなんじゃないのかな」
ありとあらゆる条件に恵まれなければ、競技を続けることは到底出来ない。
家族の協力、恵まれた環境、当人の素質、折れない心と身体を持ち続けることが出来るのか、成長期の体の変化に耐えうるのか、そしてなにより、将来への展望が見えているのか――目の前に立ちはだかる見えない壁に阻まれ、多くの人間が熾烈な戦いの世界から脱落していく。たとえ必死にその世界にしがみついていたのだとしても、記録に残ることや、さらなる大きな舞台へと挑戦する機会を与えられる選手はほんの一握りに過ぎない。
「それに、バスケが楽しいんだってことを僕に教えてくれたのは鴫野くんだよ」
陸の上で、水泳とは違う体の使い方でコート内を駆け回ること、仲間とのチームワークの中で、時に知性をフル回転させながら勝利を目指して協力しあうこと――個人競技が基本となる水泳の世界では味わうことなどなかった、世代や立場の違う異なる相手同士での力の渡し合いが勝利を導くこととなるバスケットの世界には、水の中でひたすらに自身に向き合いながらタイムを競い合うことの中では決して見ることのできなかった景色が広がっていた。
「遠野くん……」
すこし俯いた顔が、めずらしくぎこちなく視線を逸らす。もしかすれば、照れているのかもしれない。いつもおおらかな笑顔で何を話しても受け入れてくれる鴫野くんのそんならしくもない態度に、じわりと心の端を温めてもらったようなおだやかなぬくもりを味わう。
「鴫野くんや経験者のみんなには手加減してもらってるんだろうけど――パスがもらえると嬉しいし、いいプレーが決まって、そこに少しでも関われたら誇らしくなるんだよね。ここにいてもいいんだって、そう思わせてくれるみたいな」
自身の限界とせめぎ合うことから解放された世界は、いつのまにか見失いかけていた純粋なスポーツの楽しさを、チームの中で自分の居場所を見つける喜びを教えてくれた。
「そんなに気に入ってくれた? バスケ」
「水泳の次にね」
きっぱりと得意げな口ぶりで答えれば、心からの穏やかに綻んだ笑顔がそれを受け止めてくれる。
「ありがとう、遠野くん」
「お礼を言うのは僕のほうでしょ、誘ってくれたのは鴫野くんだよ」
「だって――」
やわらかに細められたまなざしに、そっと心を包み込まれるのを感じる。
「あーぁ」
ぐんと腕を伸ばし、大きく息を吐きながら鴫野くんは答える。
「みんなもちょっとくらいはバスケに興味持ってくれたっていいのになぁ。旭はたまにきてくれるんだけどさ、『時間が空いたし付き合ってやるよ』だってさ。なんかさ、それってちっとも対等じゃない感じだよね?」
「――仕方ないんじゃないかな、まぁ」
「もうちょっとうまく言えないの? って思うよね、まぁ、そういうのも含めていいとこなんだけどさ」
不満げな言葉の裏には、染み渡るような親愛の情が込められていることが手に取るように伝わる。
「真琴は何回か来てくれたんだよ、結構上手。遠野くんと一緒で飲み込みが早いのかな。宗介は小学校のころにはたまに付き合ってくれたんだけど、なんだかんだで忙しいからって中々来てくれなくて。凛がこっちにいる間に佐野対岩鳶で3on3対決しようよってずっと言ってるんだけどさ。いっそ遠野くんと組もうかな。また凛と勝負したいでしょ? 遠野くんも」
「こっちの方が随分有利になっちゃうんじゃないの?」
「本当だ」
明るく笑う横顔が、光に縁取られて淡く輪郭を溶かす。
「ごめんねなんか、辛気臭い話聞かせちゃって。不思議だなぁ、旭にも全然話したことないのにね、こんなこと。遠野くんって話しやすいのかも」
「そうなのかな――ありがとう」
不可思議なくすぐったさに襲われていれば、瞼を細めた優しい笑みがじいっとこちらへと注がれていることに気づく。
ひどく照れくさいのに、とびっきりあたたかい。眩しいほどの輝きを前に、なぜだか握り込んだ指先がわずかに震える。
「あのさ、遠野くん。この後って時間ある?」
ぱちぱち、と優しい瞬きと共に告げられる言葉に、思わずわずかに声を震わせるようにしながら答える。
「うん」
とびっきり得意げに笑いかけるようにしながら、あたたかな言葉は続く。
「もうすぐ友達の誕生日なんだよね、何がいいかなぁって考えてて――遠野くんってセンスがいいからさ、よかったら一緒に選ぶんでほしいなあって」
「あぁ――、うん」
ぎこちなく笑うこちらを前に、うんと優しい笑顔がそれを包み込む。
あともう少しで、『仲間』と迎える十九歳の誕生日がやってくる。