Voice(in your mind.)「遠野くんってさ、良い声だねってよく言われない?」
「なに、いきなり」
照れくささを隠せないままにぎこちなく視線を逸らすようにしても、人懐っこくこちらを追いかけるまなざしの気配はありありと伝わる。
飴玉みたいにきらきら透き通った瞳を子どもみたいに輝かせながら、いつもどおりのあのいやに嬉しそうな口ぶりで鴫野くんは言葉を続ける。
「前から思ってたんだよね――それとほら、これ。遠野くんにどことなく似てるでしょ」
しなやかな指先の示す先にあるのは、底がまあるく広がったぽってりとしたシルエットのガラスのカップに入ったコーヒーアフォガートだ。
「初めの口当たりは冷たいのに舌に乗せるとフワッとあったかくて、ほろ苦いのに甘いところとか。なんか遠野くんみたいだよね」
やわらかに答えながら、銀色のスプーンを持った手はすこし蕩けたバニラアイスを掬い、口元へと運ぶ。まるでお手本のような滑らかさで行われるその仕草には、いたって無邪気なその口ぶりとは裏腹の不思議な艶かしさがうっすらと漂う。
「んー、美味しい~! ね、遠野くんもひとくち食べるよね?」
いつもそうするように、うっとりと瞼を細めながら目の前へと差し出されるスプーンを遮るようにそっと手を振って見せれば、すこしだけ不満げに唇を尖らせながらの「遠慮しなくていいのに」だなんて言葉が返される。
からかわれていることくらいわかっていても、何度経験したって慣れることなんてすこしもないのは我ながら困ったものだとは思うのだけれど。
「……鴫野くんも食べるでしょ」
ことり、と小さな音を立ててフォークを置き、鮮やかな赤と黄緑の二層とが折り重なったフランボワーズとピスタチオのムースケーキのお皿を手前へとそっと差し出せば、パチパチと、おおげさなそぶりで大きな瞳をしばたかせながらの「いいの?」だなんて返事が返される。
「遠慮しなくたっていいよ」
精一杯にぎこちなく笑いかけながら答えれば、子どもみたいにやわらかく瞼を細めた綻ぶような笑顔がおだやかにそれを受け止めてくれる。
おなじ歳のはずなのに、こんな時の彼はひどく子どもっぽくて無防備だ。おそらくはきっと、性分だなんてものだけではなく、そうさせてくれるだけの環境で生まれ育ってきたことが起因しているのだろうけれど――こんな些細な瞬間にも、お互いが過ごしてきた年月の積み重ねの違いは如実に現れる。
「ありがとう、じゃあこっちもね」
当然のように差し出される目の前へと差し出されるカップをどこかためらいながらそっと受け取り、手にしたフォークでそっとバニラアイスの山を崩す。
薫り高く、ほのかな苦味を舌に落とすエスプレッソとコクのあるひんやりと冷たいバニラアイス、ほのかなメープルシロップの甘味が施されたグラノーラ。異なる食感と温度が口の中で渾然一体となって溶け合うことで生まれるハーモニーは、ほっと心が安らぐような不思議な心地よさをもたらしてくれる。見た目からいい意味で予想を裏切らないものではあるけれど、確かに間違いがなく美味しい。
手元に落としていた視線をそっとあげて見れば、テーブルの向かい側ではもうすっかり見慣れてしまった満面の笑みが広げられている。
「これもすっごく美味しい~! 遠野くんってセンスがいいよね」
「……そうかな。ありがとう、でも」
ごく自然にこぼれ出る褒め言葉に、それほどの重い意味合いがないことくらいは充分すぎるほどにわかっていたって、心は否応なしにやわらかく軋む。
コミュニケーションの基本は、場の空気を自在に読み取りながら相手の欲しがるようなとっておきの言葉を何気ないふうを装って差し出すこと――きっとこちらとは違って、わざとらしい作為もなしにすんなりと『それ』をこなしてしまえる彼の周りにたくさんの人が集まるのは、ごく当たり前のことなのだろう。
なにせ、こんな自分にまであたかも受け入れられているかのような錯覚をやすやすと与えてくれるのだから。
「――そんなこというけど、鴫野くんだってそうじゃない?」
ふぅ、とちいさく息を吐きながら、大きな窓からもたらされるやわらかな光にくるまれたぐるりをぼんやりと見渡す。
都心からはすこし離れた閑静な住宅街の中にある、知る人ぞ知るような佇まいのこんなカフェへと案内してくれたのだって彼の方だ。
おそらくアンティークなのであろう選び抜かれた家具に、天井から下がったシャンデリア、やや燻んだブルーの壁にはLPレコードとジャズのライブのフライヤー、ところどころに飾られた生花とドライフラワーに洋書、心地よいボリュームでうっすらと流れるジャズの音色。
外の世界とは時間の流れ方までが違うかのような、隅々まで美意識の行き届いた特別なこの空間は、一歩足を踏み入れただけで素直に心地よく感じられたのだから。
「こんどはぜったいに遠野くんと来たくて」
席に着いてすぐさま、どこかしら歯に噛んだようすで告げられた時の、子どもみたいなまっすぐな輝きを思い出すだけで、じわりと胸の端からあたたかな感触が込み上げてきてしまうのを抑えきれない。
「いろいろ案内してくれるでしょ、いつも」
「だってさ、特別な場所とか気に入ったものって、自分で独り占めなんかしてないほうがもっと楽しいでしょ?」
さも当たり前、と言わんばかりにきっぱりと答えるその姿には、迷いなんて一欠片も見受けられない。
「……そうなんだ」
思わずゆるやかに息をのめば、向かい側からは「ごめんごめん、話の途中だったよね?」だなんてやわらかな笑みが返される。
「遠野くんってさ、いい声だよなあってずっと思ってたんだよね。落ち着いてて、程よく低くて、でもちょっと甘い雰囲気もあるっていうか……電話とかで聞いたら必要以上にドキドキしそうだなぁって。あ、いい意味でだよ?」
「……そうなのかな、ありがとう」
「よく言われない? てっきりそうだと思ってたんだけどなぁ」
まっすぐにこちらをみつめながら落とされる言葉に、胸の奥をやわらかくくすぐられるような心地を抑えきれなくなってしまう。
はぐらかすように曖昧に笑うこちらを前に、うっとりと瞼を細めるようにしながらの優しい言葉が続く。
「ほら、宗介もいい声だと思うんだけどさ、すごく低い声でしょ? 高校から東京に行っちゃったもんだから、三年の夏までずっと会えてなくてさ。久しぶりに会ったらすっごくびっくりしたんだよね、体つきもだけど、声とか話し方もずっとトーンが低くなってて、大人の男! って感じで。颯斗も最初に会った時はすっごくびっくりして怖がっちゃって。無理もないよね? あれだけ体も大きくて声もああだからさ、威圧感がすごかったみたいで。幼稚園の時に遊んでくれた宗介くんだよって教えてあげたらすぐ懐いてたんだけどね」
「山崎くんなら無理はないかもね……」
失礼に聞こえないように、と、うっすらとした苦笑いと軽い口ぶりで答えれば、やわらかく綻んだ笑顔が受け止めてくれる。
たしかにあの、一見しただけではとても同じ歳には見えないような威圧感を感じさせる佇まいには独特の存在感がある。
これが鯨津の山崎か、と初めて間近で目にした時からの印象は次第に距離が近づいていくのにつれて良い意味で二転、三転したのだっていまだに記憶に新しいほどだ。
それにしたって、いつでも自然と話題に上がる幼馴染の彼らを語る時に彼の見せる、特別な親密さを潜ませた優しい色が滲んだその笑顔は見ているだけのこちらにまで穏やかな快さを手渡してくれるのだから不思議だ。
「だよね? 絶対損してると思うんだけどさ、ほんとはあんなに面倒見もよくて優しいのにね。ある意味、遠野くんとは正反対で似たもの同士なのかも」
「どういう意味なの?」
すこしばかり憮然としたようすで尋ねてみれば、くすくすとやわらかな笑い声に包まれながらの優しい言葉が続く。
「遠野くんはさ、声の調子とか話し方もすごく穏やかでしょ。――それでもただ単に愛想がいいんじゃなくて、譲れないものがしっかりあって、その芯の強さが現れてる感じっていうのかな。気安く近づこうなんてしたらすごく綺麗な笑顔で遠ざけられちゃうようなところがあるから、最初の感触だと冷たいのかなって誤解しちゃうんだけど、ほんとはそうじゃないよね」
うんと濃く抽出したあたたかくてほろ苦いエスプレッソと、冷たくて甘いバニラアイス――正反対のはずのそれが、熱によってゆるやかに蕩かされながら渾然一体となるように。
次第にこっくりとやわらかなキャラメル色になっていくそれをスプーンで滑らかに掬い上げ、器用に口元へと運びながら、ぽつりぽつりと優しい言葉が続く。
「よく似てるよなぁって思ったんだよね、すっごくかっこいいよなぁっていうのもね。ほら、僕っていっつもヘラヘラしてるでしょ? 旭にもしょっちゅう言われるんだよね、顔にも態度にも締まりがないよなって。いくら友達だからってちょっとひどくない?」
気まずくなるほどの直裁な表現のすぐあとに、いまやよく知る仲になった間柄の彼の名前を出されれば、思わず身構えていたこちらの態度もたちまちに綻んでしまう。
鴫野くんの話の広げ方の巧みさや、絶妙にこちらに気を遣わせないやわらかな態度をあらためて実感させられるのは、たとえばこんな瞬間だ。
「まあたしかに少しくらいは言葉を選んでほしい気もするけど……それはそれで椎名くんの良いところじゃない? それだけ心が許し合える関係だってことの証でもあるんだろうし」
思えば、郁弥の中学時代の仲間だという面々との中でも、意外なほどに一番親密に見えたのが、おおよそ郁弥とは正反対の性格のように見える彼だった。
いままでまるで見たこともないような――それこそ、夏也くんの前ですら――子どもじみた態度でムキになっては口喧嘩の応酬を繰り広げ、時にはひどく手慣れたようすで鴫野くんや橘くんが仲裁に入る場面に立ち会うことだって、もはや名物とも言えるようになっていたのだから。
「ハルや郁弥と違って、旭ってなんでも割とすぐに考えがそのまま表に出るからさ。気取ってるってふうに見えちゃうんだろうね?」
たしかにあの飾り気のない態度や実直な振る舞いを見れば、こちらのことが不思議に思えるのだろうだなんてことはわかるのだけれど。
「僕もいまだに言われるけどね、嘘くさい笑い方するなって」
苦笑いまじりに答えれば、どこか興味深げにこちらをじっと見つめるまなざしとともに、ぽつりと優しい言葉が落とされる。
「悔しいんだと思うよ、きっと。遠野くんともっとちゃんと友達になりたいってことだよね、要するに」
「ならいいんだけど――」
「そうに決まってるでしょ、信じてよ?」
ぱちり、と得意げな目配せと共に告げられる言葉に、ぶざまなまでにさあっと心は波打つ。
「――鴫野くんはさ、」
少なからずの動揺を悟られないようにと、努めて平静を装いながら答える。
「思わせぶりだって言われない? よく」
さっきだってそうだ――声がいい、だなんてさりげない褒め言葉を糸口にして、どこかこちらの芯に迫ってくるような言葉を持ちかけられるのだから。
もし一時が万事この調子だなんていうのなら、体がひとつでは足りるわけがないだろう。
「そうかなぁ?」
こちらのそれとは違う――すこしも気取ったところを感じさせない、すこし鼻にかかった印象のやわらかくて甘い、ささやくような声がテーブルの向かい側からは届けられる。
「僕はほんとうに思ったことしか言わないよ?」
ほら、こういうところ。思わずぎゅっと掌を握りしめたくなるような衝動に駆られながら、苦笑い混じりに答える。
「じゃあ気が多いってこと?」
「どうだろうなぁ」
はぐらかすみたいな笑い方は、それでいて煙に巻かれているかのような居心地の悪さを感じさせる事がすこしもない。
「照れくさくなるんだけど、ちょっとしたことでもその都度褒めてくれるから」
推し並べて高い社交スキルの一環かつ、からかわれているだけだなんてことくらい百も承知でも、微塵も心を動かさずにいられないわけがない。
「外国だとそうでもないって言わないっけ? 遠野くんはアメリカ帰りだっていうから気にしないでいてくれると思ったんだけどなぁ。よくいうもんね、日本人は謙遜が美徳だと思ってるから褒められ慣れてないって」
「人それぞれじゃないかな」
すっかりお得意のものだったはずの取り繕うような愛想笑いで答えれば、きらきらとまばゆく輝くような、まるでこちらとは正反対のそれにやわらかに迎え入れられてしまう。
不思議だ――こんなにもまっすぐな目で見つめられてしまえば、居心地の悪さを感じたってすこしもおかしくないのに。いつでもやわらかくほどけたような笑みを絶やさない綺麗な弧を描く唇の形や、人好きな印象をもたらす柔和なまなざしは、あたかもこちらを穏やかに受け入れてくれているかのような錯覚をいつだってもたらすのだから。
「まぁ、でも……うれしいよ、すごく。ありがとう」
ありがたいことに、賞賛の言葉をかけられること自体は珍しくない。いっぱしの日本人らしく、あまり大袈裟になりすぎず、不快感を与えないように気を配りながらそれを受け止める術だって身につけてきたつもりだ。それでも――こちらへと掛けられるもののその大半は大人に気に入られる『都合のいい子』であったことや、水泳の成績の類――自らの努力で身につけた『成果』としか言えないものだ。
こんなふうにやわらかな何気ない手つきを装いながら日和自身の内面へと優しく触れてこようとしたのはきっと、彼ぐらいしかいない。
――こんなにも、いつまでも慣れずにいてしまうのは、だからだ。
「僕も思ってたんだけど、前から」
「なになに?」
嬉しそうにやわらかく瞼を細め、すこしだけ身を乗り出すようにして見せる子どもみたいな無邪気でやわらかな態度を前に、にこやかに笑いかけるようにしながら答える。
「鴫野くんはさ、声も魅力的だよね」
「えっ、」
戸惑いを隠せないようすの照れ笑いを前に、どこか得意げな心地になりながら言葉を続ける。
「ぱっと聞いてすぐわかるじゃない? ああ、鴫野くんだなって……やわらかくて、すこしくすぐったく感じることだってあって――、聞いてるだけで不思議と心地よくて」
ややハイトーンのあまやかな響きの中にひそやかに漂う、言いしれようのないやわらかく燻った匂い立つような薫り。こうして何気ない会話で耳にしているだけで、バニラアイスにラム酒やリキュールをかけたような、甘い口当たりの奥にふわりと立ち昇るかのような不思議な浮遊感にふわりと捕らえられてしまうのだから。
途切れ途切れに、頼りない思考を手繰り寄せるようにしながら言葉を紡げば、目の前で見つめる姿はみるみるうちに、いつもなら目にしたことのないようなはじらいを隠せない色に染め上げられていることに気づく。
「……ごめんね、もしかして何かおかしなことでも言ってた?」
慌てて取り繕うように言葉を掛ければ、打ち消すような明るい笑顔がそれを受け止めてくれる。
「ちがうって、そんなことないよ。ただちょっとびっくりしただけで……ほら、遠野くんって声もだけど言葉の選び方がすごく綺麗でしょ? だからそんなにまっすぐ言ってもらうとさ、ほんとに僕のこと? ってなっちゃって。どうしよう、いますぐ旭に自慢したいんだけど」
くすくすとかろやかな笑い声を上げながら掛けられる言葉はいつもと違ってすこしだけあやふやに滲んだ色やあたたかな気配を帯びているかのように聞こえて、鼓膜だけじゃなくて心の内側までゆるやかに震わせてくるかのような錯覚を呼び起こしてしまう。
「そんなに特別なことは言ってないと思うけど……」
「遠野くんの声で遠野くんに言われるからだよ、わかんない?」
ぱちり、とまばたきをこぼしながら告げられる言葉の奥底には、痺れるようなあまい香りがうっすらと漂う。
「鴫野くんって――」
つづくはずの言葉を前に、ふいに喉を詰まらせてしまう。
たしかに胸の中では、手渡したい思いを紡いでいたはずなのに。まっすぐにこちらを見つめてくれる、やわらかな光を跳ね返す輝きに満ちた瞳を目の当たりにすれば、たちまちに泡のようにそれらはあっという間に溶けてしまう。
「うん、なあに?」
待ちきれない、と言わんばかりにやさしく投げかけれる問いかけに、ゆるやかに頭を振るようにして答える。
「……ごめん、なんでだろ。なんだかうまく出てこなくなってきたみたいで」
本心から遠ざけさせるための取り繕った言葉や笑顔ならいくらだって渡せたはずなのに――心の内、やすやすと触れさせまいと覆い隠してきたつもりの箇所へとこんなにも優しい手つきで手を伸ばされれば、途端にいいしれようのないもどかしさで胸が詰まらされてしまう。
なによりも不思議なのは、こんな不都合をすこしも息苦しく感じないことなのだけれど。
「じゃあいつかまた聞かせて、その時まで待ってるから。いいよね?」
「……うん」
力無く答えながら、ぶざまに揺らされる心の奥で光る、数えきれないほどの鮮やかな色にじっと目を凝らす。
アフォガートにはイタリア語で「おぼれる」という意味があることを、鴫野くんは知っているだろうか。
もしそれをいまここで伝えたら、彼はどんな顔をして見せるのだろう。
「ねえ、よかったらもう一口いる?」
ふいうちのように向かい側の鴫野くんへとフォークを差し出せば、照れくさそうにはにかみながら、それでもいつもあの調子を崩さないやわらかな笑顔が返される。
「冗談にしてはきつくない?」
「冗談にしてるのは君の方だと思うけど?」
精一杯の強気な笑顔と口ぶりを受け止めるように、しなやかな指先はひどく遠慮がちな手つきでこちらの手にしたフォークをそっと奪う。
「遠野くんってさ――、」
やわらかに瞼を細めながら、いつものそれとはどこかしら異なった色を帯びたあまやかな吐息が洩らされる。他の相手となら気まずく感じるかもしれないこんな沈黙の間すら、いまなら不思議と心地よいのはなぜだろう。
ことり、と控えめな音を立ててフォークを置きながら、やさしい言葉が掛けられる。
「ごめん、うまく言えないや――また今度でもいい?」
「また会ってくれるんならそれでもいいけど?」
「……こっちのせりふだよね」
交わし合うまなざしの奥では、言いしれようのない穏やかな色がしずかにまたたく。
いまはただ、あともうすこしだけこのままで。