一緒に「すみません薪さん。ご無理なのは分かっているんですが、お伝えだけ…」
おずおずと申し訳無さそうに語尾が消えていく青木の声をスマホ越しに聞きながら、頭の中でスケジュールを確認する。
どうしても臨席が必要な会議があった。青木もそれは分かっていて、でも、青木の手元で舞のお願いが止められたのが後日判明したら僕の機嫌を損ねる事も分かっていたのだろう。
「……」
意図せず重い溜息を吐いてしまった。
「あ。プロのカメラマンも入るんですが、フラッシュ焚かなければ写真も録画も録音もOKなんです! 動画撮ってもらって、後日、送らせていただきますから!」
青木が切り替えるように明るく宣言した。この話はもうお仕舞いと言うように。
その後、とりとめない話をして通話を終えた。お互いの残念な気持ちをゼロにする事は出来なかったけど、薄まりはして、僕は鬱々した睡眠不足に陥る事なく入眠できた。
溜息…。
いつのまに僕はこんなにも堪え性が無くなってしまったのだろう。青木と舞に関してのみ発揮される執着と貪欲さ。……溜息。
習い始めの舞の出番は午前中、発表会が始まってすぐ。開始後30分もしない内の舞の演奏を聴いたら、すぐに空港に取って返して飛行機に飛び乗って、ギリギリ会議に滑り込める。アクシデントがあったら間に合わない、そんな危ない橋渡ってしまうとか(親)馬鹿か僕は…!
1ヶ月前に福岡を訪れた時の光景がよみがえる。
舞と2人で散歩して帰って来て開けた玄関。
「ただいま」の声に珍しく応答がなくて、ピアノの音がしていた。
舞と2人、ピアノのある部屋に入ると、青木が一生懸命鍵盤と格闘していた。
僕らに気付いて慌てて練習を止めようとするから、
「続けろ」と促した。
練習を聞かれたくなかったらしい青木に
「何もしないで出来るのがカッコいいと思うのか? 努力して苦労して出来るようになる姿を見せるのは恥ずかしいか? なんでも出来る姿より、努力して手に入れる姿を見せるのも大切だと、僕は思う」と言ったら、一瞬止まった後、微笑んで、青木は又、鍵盤に向かい合った。
青木の手は大きくて、10度くらいは軽々とアルペジオにしなくても届く手で、幼かった日が甦る。
人が集まるホームパーティーも多々あった懐かしいあの家では、両親とトリオを披露する事も度々だった。だいたいは母がピアノで僕がバイオリン、父がチェロを弾いたのだけれども、ピアノで4手や6手連弾をする事もあった。
僕や母には届かない和音を楽々押さえる父の手。掌を合わせてその大きさの違いに「わぁ!」と思わず声が出たのを懐かしく思い出す。
大きくなったら僕にも届くようになるんだろうかと憧れたあの大きな手。(その日の夜、青木と掌を合わせてみた。残念ながら僕の手は、大人になってもラフマニノフをアルペジオ無しには弾けるようにはならなかったのを再確認した。だから届かないのかって。……うん……鍵盤じゃない"届かない"に思いが行っちゃったのは、夜だったからだよ!)
えーと。なんだっけ。そうそう。1ヶ月前にはまだ形になっていなかった発表会の曲。
今日は舞のピアノの発表会。
まだ習い始めの舞は、1人で短い曲を1曲と青木との連弾を1曲弾く事になっている。
「マキちゃんにも聴きに来て欲しいな」という舞のお願いを青木から伝えられたものの日程的に厳しい、のを無理矢理弾丸スケジュール強行して、今、僕は福岡のピアノ発表会会場入りしたところ。
来られるかどうか微妙だったから事前連絡はしなかった。終わってからゆっくりもしていられないからこっそり聴いて帰ろうと思っていたのに、めざとい青木にあっさり見つかった。
というか、なんかロビーで、舞と繋いでる手じゃない方の手でスマホ持って難しい顔で通話している青木とバッティングした。
何があっても舞の出番終わるまではと消音モードにしていたスマホをポケットから出して、第八管区室長の置かれている状況を察した。まだ僕の出番じゃない…けど、青木は。
顔合わせるつもりも言葉交わす予定も無かった2人の許に歩み寄る。
舞と繋いでいた方の青木の大きな手に僕の手を重ねて外して、僕より小さな舞の手をしっかり受け取って握った。
「行け」
賢くて僕よりずっと聞き分けの良い娘が
「行ってらっしゃい。行ちゃん」とニッコリと笑った。
青木は切なそうな顔を一瞬して、でも、すぐに室長の顔になって
「行って来ます!」と出口に向かって走り出した。
聞き分けの良い、賢くて優しくて諦める事を知ってしまっている娘は、その背中を暫く追っていた。
青木の後ろ姿を追っていた舞が僕の視線に気付いて
「マキちゃん! マキちゃんが来てくれて嬉しい!」と笑う。
僕の出現があったからとて、青木の退場は淋しいだろうに、舞は笑った。
「あのね。もう楽屋に行かなきゃなの。舞、順番がすぐだから。行ちゃんと楽屋に行くところだったの」
舞の小さな手には大きな楽譜。あ、そうだ、連弾…。
とりあえず舞と一緒に楽屋へ向かい、先生に事情を説明する。
「まぁ。…でも、お仕事ですものね。お父様も残念でしょうけれども。大丈夫ですよ。私がお父様の代わりをさせていただきますから。レッスンの時は私がお父様のパートを弾いてましたし。舞ちゃん、大丈夫よね?」
「うん」
舞は返事したけれども…。
舞台袖で待つ小さな子達は、舞と同じようにソロと連弾で臨むようで、それぞれ保護者や兄弟と緊張しながらも舞台への順番を待っている。
僕は舞が持っていた楽譜をパラパラと捲った。
1ベル、2ベルが鳴って発表会が開始する。
最初1人で出てお辞儀してソロで弾いた後、連弾する人も袖から舞台に上がって2人で弾いて、終わったら2人でお辞儀して舞台袖に戻ってくる。ふむ。
舞の出番になった。
発表会用のドレスを着て舞台中央まで出て堂々とお辞儀をする舞。なんて可愛いんだろう。
ソロ曲は短い。すぐに出られるように僕の持っている楽譜を受け取ろうと準備を始めた先生に、僕は提案を持ちかけた
青木と違って一度もレッスンを受けていない僕の提案を、でも、先生は了承してくれた。
さぁ、ソロ曲が終わった。次は連弾だ。この前聴いているし、連弾だから楽譜有り。大丈夫。
背後から近付いて隣りに座った僕を見て、舞が目を丸くした。
「間違えたらごめんね」
ニッコリ笑って小さく声をかけたら、舞の顔が、ぱぁーっ!と輝いた。
(マキちゃん!!)
声に出さずに名前を呼ばれて舞台の上、青木の代わりに愛娘の相方を勤めて音を重ねた。
楽しくて、あっという間のひとときだった。
演奏終えて、ニコニコの舞を客席の青木母に託すともう僕には時間が無くて、なんか興奮してる青木母(とその周り)に「すみません。飛行機の時間が」と言い逃げて呼んでおいたタクシーに飛び乗り空港へ。そして、帰京。
会議にも無事、間に合った。
心地良い疲れと幸せな舞台の余韻で1日を終えて帰宅したら青木からの着信。
ひとしきり、見たかった!とか、ぶつぶつ言っていたが、「おまえが居たら僕は舞台に上がってない」と冷静に返してやった。
送られてきた動画は御母堂と御母堂のお知り合いらしき人々の声入り。
「あ?? 薪さん?」
「え?一行君じゃない。誰?」
「うわっ!綺麗!!」
「ウチの嫁! 自慢のウチの嫁!!凄いんだから!!!」
しーっと嗜める声も入って演奏中は静かだったけど、僕らが舞台袖に引っ込んだ画の後、暫くひっくり返った座席だか床だかの画と共に御母堂の興奮したドヤ声が僕について語っていて……。
まぁ、とにかく。第八の緊急案件も大事に至らなかったし、疲れたけど、疲れたから?僕はきっと今日もぐっすり眠れるだろう。離れている家族の夢が見られたらいいなと思う。(おわり)