キスの味は、やっぱりよくわからない。「ねぇ、困ったよ」
「はぁ?」
「もう動かない方がいいかもしれない」
「またサボりか?本部に戻って報告しねぇとだから急ぐぞ。後でアイスー」
「違うんだって。ほら見て……」
握っていた掌を広げればふわりと蝶が飛んではアキの目の前で舞っては何処かに飛んで行った。
「……寿命、吸えなくなっちゃった」
ぽかん、と口を開けたままのアキを余所に今日、僕にしてみたら頑張って働いた方じゃない?なんて続けた。
「お前血は?」
「この前ちょっとした喧嘩をしたんだ」
「誰と?」
「……マキマと」
はぁぁぁ。なんて大きな溜息が聞こえる。
「だからさ、先に報告行っててくんない?僕は後から行く」
「分かった。報告は電話で済ます。お前はあのベンチにでも座ってろ」
「うん。疲れたしそうする」
そう言って赤いピアスが離れていく。ベンチに腰かければどっと疲労感が押し寄せてきて目を閉じた。何処かで甘い匂いがしてお腹も空いていることに気づく。あぁ、早く終わらないかな、何もかも。遠くで喋るアキの声が小さく聞こえた。
あたたかくてゆらゆらと揺れる。目を開ければ真っ黒な背中。
「うわ、ここどこ」
「何処って俺の家に帰る道」
「なんで?」
「なんでってお前が休める場所で此処が一番近いからだよ」
「チェンソー君とパワーちゃんと住んでるんでしょ?」
「あぁ。二人は午後から任務で居ねぇけどな」
「ふぅん、そう。ねぇ僕さ、疲れるくらいなら死にたいんだけど今日は頑張ったよ。ねぇ、実績詰めた?」
「あぁ。つうかなんで急に」
「この前助けてくれたお返し。人間に借りがあるのは嫌だから」
「そうかよ」
「うん。あとさ、僕おぶられたの初めてだけど結構乗り心地悪いね」
「うるせー」
「でもほんと、キミだけだよ」
「何が?」
「こんなに世話焼きなの」
「うるせぇ」
人間の背中は広くてあたたかかった。布越しでも伝わるその熱を直で触れたらどれほどなのか、興味なんて無かったのに少しだけ気になった。僕に躊躇いもなく触れてくれるのはきっと、君だけだから。
「脱げ」
「はぁ?」
「はぁって、スーツのままだと寝にくいだろ?」
「そうだけどさ、ここで?」
「ここでって、別に俺の部屋だからいいだろ」
「まぁ良いけどキミってさ、結構無頓着だよね」
「そうか?」
これでも着とけと渡されたTシャツから羽を出した。アキには二度と着れなくする。いつも隣で香るこの柔軟剤の匂いが自分からするのは少し不思議で、ぼす、と沈み込むシーツからも同じ匂いがした。
「うわ、煙」
「俺にも一服くらいさせてくれ」
「キミって髪下ろしたら別人だね」
「そりゃどうも。少しずれて」
「なんで」
「お前の二倍働いた俺はもっと疲れてるんだよ」
断る理由が見つからなくて、少しだけ横にゴロンと転がった。
「キミは僕を怖がらないよね」
「悪魔怖がってちゃ公安は務まらねぇだろ」
「僕に触れたらただでさえもう無い寿命を取られちゃうかもなんだよ」
「でも今はその危険性もねぇしな」
そう言って頬を抓られた。
「いひゃい」
「はは」
お返しにと同じように肌に触れる。初めて触れる。
「なんだよ。抓らねぇのか?」
「どのくらい力入れて良いかわかんない……」
「痛くなりそうだから、このままでいい」
「ねぇキスはさ、そんなにいいものなの?」
「はぁ?」
「だって人間は特別に感じた人にしかしないんでしょ?よくわからないけど」
「酔っぱらいを除いてな。気になんの?」
「うーうん、僕には関係のないものだから別にっ、ん」
ふわりと唇に熱が触れた。キュッと目を閉じる前に見た静かな顔が脳裏に焼き付いて離れない。じんわりと伝わるこの熱で頭が沸騰しそうな感じ。
「……どう?」
「っびっくりした」
「はは、だな」
「でも、いや、じゃないよ。もう一回して……だって!僕は多分この人生で今しか出来ないから」
「別に理由がなくたってしてやるぞ」
「っうるさい」
緩く弧を描いた薄桃色のその唇を先程よりも深く感じる。やり方なんて分からないから全部キミ任せのキスだけど。ゆっくりと唇を割って入ってくる舌は苦くて知らない味がした。だんだんと苦しくなっていくのに離れたくなくて、でも離れないとダメな気がしてアキの肩をグイグイと押してみたけど僕の頭を支える手に力が入るだけで離れなかった。気持ちよくて何処か安心する感覚。少し嬉しくてでもなんで嬉しいのかは分からない。
ゆっくりと離れていく口から透明の糸が垂れては拭われた。
「……ほんと、キミだけだよ」
「俺だけだな」
「悪魔嫌いな癖に」
「お前だって人間嫌いだろ」
「ちょっとだけ特別だから」
「じゃあ同じだな」
「なにが?」
「感情が」
「感情が?わっ」
アキに抱きしめられて胸に頭を寄せた。トクトクトクと動く心音は僕のと同じ速さだった。
「戻れなくなっちゃうよ」
「ん?」
「キミがこんなにあたたかいって知ってるのにもう触れられ無くなるから」
「別に最後じゃねぇから良いだろ?」
「なんでよ」
「俺が死ぬ時か死んだ時、またしてくれればいい。まぁろくな死に方はしないらしいけどな」
「じゃあ次はもっと先がいいや」
「なんだそれ」
本当に、なんだそれ。死ぬことばっか願って、人間なんて苦しんで死ねばいいのに。少しでも真逆のことを祈ってしまうなんて。
「ねぇ僕がまだ血を飲む気力もないって言ったら?」
「お前がそれで良いって言うなら持ってきてもらった血液パックを冷蔵庫にしまうかな」
「なにそれ。じゃあ一生分チャージしてからにする」
「あいつらが帰ってくるまでだな」
「僕が起きるまでだきしめててよ」
「お前は何処かの姫か」
「僕は天使の悪魔だよ」
「それは知ってる」
最初で最後のキスの味は煙草の味だった。だけど僕は煙草の味なんて知らないから、きっとこれはアキの味。まだまだ死ねない僕はこれから先君が居なくなったって、この匂いで何度だって思い出すのかな、ってちょっとだけ思った。居なくならないで、なんて言えないから。