光のお隣さん/第八話「ありがとうございました! お気を付けてー!」
見送りのために開けられた引き戸から冷気が吹き込んでくる。常に火のあるカウンター内でも、身震いするような寒さだった。出て行ったラハも普段より心なし時間を短めに、うーさぶさぶ、と呟きながら、小走りに駆け戻ってくる。
隙間のないよう引き戸を閉めて、テーブルの上を片付けると、四時間ぶりの無人、正確には、店員だけの時間となった。湯呑みに熱い茶を注ぎ、ラハと二人で、ふうふう啜る。
書き入れどきである年末だが、だからといって、毎日がてんてこ舞いになる訳ではない。特に十二月は、忘年会にクリスマス、仕事納めに大晦日と、イベントをいくつも抱えるからこそ、その合間の客入りは、若干、控えめなものになる。皆、休息が必要なのだ。肝臓とか、財布とかに。もちろんそれは酒や食事を供する側にも言えることで、たまには通常営業の夜がなくては、倒れてしまう。
「いらっしゃいませー! あ、こんばんは!」
サンクレッドが訪れたのは、そんな十二月の半ば、通常営業の夜だった。
ラハのよく通る出迎えに笑って応えたサンクレッドは、ざっと店内を見渡してから、カウンターへと足を向ける。すしざんまいのポーズで歓迎すると、顔を背けられた。ウケた。
「いらっしゃい」
「ああ」
「何にする?」
「熱燗。取り敢えず一合」
「はいよ」
徳利に清酒を注いで湯に浸け、ついでにぐい呑みも放り込む。ラハがサンクレッドにハンガーを薦め、コートを預かり、壁に掛けた。襟にたっぷりのファーをあしらい、腰を絞ったアーバンコートだ。その下にはシンプルな黒のタートルネックを着ている。まったく、スタイルの好い男にしか許されないような服装が、尽くよく似合っている。嫌みがないのがエスティニアンとは大きく違うところだった。
ラハに礼を言ったサンクレッドは、椅子に腰掛けておしぼりを使い、卓上メニューの裏表を、引っくり返しては眺めている。しかし、次の注文は、決めかねている様子だった。遅い時間だ、夕飯はもう、何処かで済ませたのかもしれない。何より、今夜のサンクレッドには、いつもの連れがいなかった。
「リーンは?」
「女子会だ。ガイアの家で」
「ついに盗られたか」
「まだ盗られてない」
頑なに否定はするものの、頭に「まだ」が付くあたり、陥落は遠くないなと思う。何より、リーン本人が、ガイアといることを楽しんでいるのだ。娘に甘い男親では、とてもではないが、止められない。
「どうだかな。女子会って言ったって、ガイアと二人だけなんだろう?」
「ヤ・シュトラさんもいる」
「保護者を数に入れるな。必死か」
「重要なポイントだろうが」
確かに。同じ屋根の下にオカンがいるかいないかで、気の持ちようは大きく変わる。とはいえ自分らの実体験を彼女らに当て嵌めていいものか。根本的なところが幾分ズレているような気がするが。
徳利とぐい呑みを湯から取り出し、さっと拭って、カウンターに出す。突き出しはちくわとこんにゃくの炒めもの。もとから少量の唐辛子を加えてある料理だが、サンクレッドはさらに七味を振った。基本、辛党の男だ。
「とはいえ、流石に遅すぎるだろ。迎えに行かなくてもいいのか?」
「今日は向こうに泊まるんだと」
「へえ」
「帰りは明日の夕方になる」
「そりゃ寂しいな」
「………」
「………」
「だから、その」
「わかった。すまん。皆まで言うな」
なるほど。そういう。はい。そういう。
不意打ちが過ぎて理解するタイミングを完全にミスった。目の前にいる白い男は、アルコールのせいだけでなく、仄かな朱を帯びている。琥珀色の目は落ち着きなく、明後日の方向に泳いでいた。メニューに迷って当然である。この男、食事をしに来た訳でも、酒を飲みに来た訳でもなかったのだ。
「あー、っと」
なんだ。こういうときは、どういうことを、言うんだったか。
人並みかそれ以上には恋愛もこなしてきたはずなのに、恐ろしいことに、ストレージから、一切のデータが吹っ飛んでいる。何故だ。自分はここまで初心な人間ではなかったはずだ。場所だって自分の店であり、同じ屋根の下にオカンがいる訳でもないというのに。そういやオカンは元気だろうか。最近電話をしていない。
放っておけばどんどん逃避しようとする意識を捕まえ、小さな箱に閉じ込めて、改めて、考えを絞り出した。是非については問うまでもない。訊いて、確かめるべきは。
「……俺の家で、いいか?」
尋ねると、口をへの字に曲げたまま、サンクレッドは何も言わずに、こくりと頷いた。うわ、かわい。
いや違う。うわ、かわい、ではない。当店は絶賛営業中。とろけている場合ではない。直視していてはやられてしまう。どうにかして気を散らさなくては。このかわいさを、愛しさを、他のもので、塗り潰すのだ。
そう思いながらカウンター内を探るように見回すと、のんびりと湯呑みの茶を啜っているラハと、がっつり目が合った。そういえば、いた。当たり前だが。全部、ばっちり見られている。
「いや、今のは、」
「お疲れさまー」
早い。判断が早い。
「木曜だし、もう零時過ぎだし。あとは、オレ一人でなんとでもなるから」
「いや流石に! 流石にそれはない!」
「気にしなくていいのに」
「よくねえ!」
「いいよ。ぶっちゃけ、今のあんたらを、二時間も見せられる方がつらい」
それはそう(それはそう)。我ながら、なんという雇い主だろう。めきめきと腕を上げていくアルバイトくんの目の前で、客との色恋にうつつを抜かすとは。乙女のように両掌で顔を覆ってしまいたい。と思ったらサンクレッドが先んじて実行してしまっていた。
「ほらほら、帰り支度する。お客さんのいないうちに」
「いやでも……」
「あんたじゃないと作れない料理は品切れってことで」
「うん……」
「お客さんにはご来店時にあらかじめ確認をとるから」
「はい……」
「お目当ての料理が複数なかった方には、一杯サービスしていいか?」
「行き届いている……お願いします……」
てきぱきとエプロンを外されて、カウンターから追い出される。いつまでも顔を覆っているサンクレッドの隣に座らされ、何故か、新しいぐい呑みが目の前に置かれたと思ったら、サンクレッドの徳利に残っていた酒をすべて注がれた。頼んだ当人が固まっているので、あんたが空けろ、ということらしい。ほぼ機械的に中身を干した。味はいまいちわからない。
「サンクレッドさんも、お勘定! いつまでも乙女してないで!」
客に勘定を急かすという、接客業にあるまじき行為。サンクレッドがのろのろと財布を取り出している間に、ラハは、ハンガーからコートを外して、持ち主の手へと押しつけた。
「二百円とレシートのお返しです。ありがとうございました!」
そして、五分とかからぬうちに、ほとんどの用意が整ってしまった。あとはサンクレッドと自分がコートを着るだけである。本当にいいのだろうか、これで。
「ラハ……」
「またな!」
取り付く島もない。
「あ、コンビニ寄って帰れよ」
言わんでもいいことは言う。
「サンクレッド……」
「ああ……」
これ以上は、ここにいるだけ、ダメージを食らう。もそもそとそれぞれのコートを着込み、引き戸の方へと足を進めた。
「がんばってな」
トドメを刺すな。お前に人の心はないのか。
ヤケクソになってサンクレッドの肩を抱き、冬の街へと逃げた。未熟な恋を若者にあしらわれるおっさんが二人。
「ありがとうございました! お気を付けてー!」
張りのある声が、温かな質量をもって、背中を優しく押した。