Last drop of my blood1エクソシスム・アクシズ。
日本では東京と京都に拠点を構え、各国にも拠点を持つ国際的組織。エクソシスト達が管轄区画にて発生した悪魔関連の一切を執り行うのが専らの活動内容だ。
ちなみにエクソシスム・アクシズに加入前から独自に活動をしていた帝国時代の特殊祓魔局の名残で、日本ではエクソシストを祓魔官と呼んでいる。
エクソシスム・アクシズ東京支部は他の省庁と同じく千代田区にビルを構えている。一見他の官公庁やオフィスビルと変わらないが、その地下最下層には内部でも秘密裏になっている大聖堂がある。
日本に二人しかいない特級祓魔官、五条悟が制服である黒のキャソックを纏い、エレベーターケージのボタンを押す。エレベーターが上昇を始めて最下層から脱すると五条は漸く一息吐いてやれやれと肩を竦めた。隠しエレベーターから降りて地下駐車場に着くと1台のセダンが五条の前に近づく。リアシートに乗り込んだ五条は、組んだ脚の上にスマホを放り出してシートポケットからキャンディ包みのチョコレートを取り出した。
「クッソジジィどもが」
運転席に座る伊地知が返事しづらそうにルームミラーを一瞥すると、サングラスを掛けた五条の視線や意識はチョコレートに注がれていた。
「僕が知らないとでも思ってるんかね」
文句を言いながらカサカサと包みを広げると少し歪んだトリュフが姿を表す。
「関連性がまだ確定していないこともあるかと思いますが……」
「何?僕より老害の肩持つんだ?」
「いえ!そのようなつもりではっ」
「ま、いっけど」
あっさりと許す五条は芳醇なチョコレートの甘さに気を良くした。ほのかに苦いビターチョコレートにジャンドゥーヤクリームとヘーゼルナッツが包まれていた。その次は上品なキャラメル、更に取り出したのは甘酸っぱいベリークリームが包まれたチョコレートだった。五条がチョコレートを楽しんでいる間に車はエクソシスム・アクシズ東京支部の地下駐車場から地上へと出て六本木通りを南下する。
「祓魔補助官が対象を尾行中に、応援として現場にいた祓魔官が突如出現した二級悪魔により負傷……まぁ僕が何級の悪魔に妨害されようと関係ないけどね。前情報としてこれを教えないって魂胆がムカつく」
シートポケットに突っ込んだ指が何も掴めなくて、五条は不服そうに唇を曲げる。
「伊地知〜、今度銀座に行ったら補充しといてくれる?あ、待った。新宿にも店があったな。自分で買うからいいや。伊地知、酒が入ってるのも買ってくるんだもん」
「……も、申し訳ありません。高級チョコレート等にはあまり明るくないものでして」
右手を伸ばして隣のシートに置かれていた車内冷蔵庫の蓋を開ける。取り出したのは有名店の名前が箔押しされた小さな箱で、マカロンが6個収められていた。一番右端のピンクとパープルのコックでクリームを挟んだマカロンを摘み、口に放り込んだ。
「なぁんで長い時間掛けてエーテル体から受肉した悪魔が、全く自分に気付いていなかった祓魔官に喧嘩売るんだろうね?」
ラズベリーとカシス。酸味とクリームの甘味を程よく堪能したところで嚥下した五条が冷蔵庫からテトラパックのカフェオレを取り出して飲み始める。
「偶然か必然かっていったら必然だと思う。つまりこの子には悪魔側の何かがある」
五条の腿に器用に乗ったままのスマホには今までの話の渦中の人物が表示されていた。
『乙骨憂太』
コンビニで飲み物を取る瞬間が映し出されている。驚くことに悪魔さえも気付かないことが多い祓魔補助官の隠し撮りに、フードを深く被って見えづらいが乙骨の目線は確かにこちらを捉えていた。
「明後日誕生日なんだ?へぇ〜。何ケーキが好きか知ってる?伊地知」
「えっ!?そ、そこまでは……」
伊地知の動揺を表すように僅かに進路がぶれたセダンが、新宿の摩天楼の足元に飲み込まれていった。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※
3月6日。
新宿歌舞伎町。夜が更けても煌々と明るく眠らない街。サングラスにピンクや黄色のネオンが反射され、ラフな格好なのに俗物に染まらない雰囲気を纏った五条が、すれ違う視線を集めながらスマホに示された場所を目指して進んでいく。相変わらずの人ごみに五条は辟易とした表情を浮かべるが、そのおかげで誰にも声をかけられることなく済んだ。
「やっぱりここ好きじゃないな」
様々な欲望が間欠泉のように噴き出て辺りにまき散らされる様が、五条の視界には映っていた。目の前にある雑居ビルからもそれは溢れ出ていて、その深淵に潜るかのように五条は地下へと降りて行った。営業開始前であると承知の上でメンズオンリーと貼られているドアを開けると、怪訝な表情をしたスタッフが近寄ってくる。
「すみません、まだ営業時間じゃ……」
近づいて五条の姿を確認すると閉口し、少々お待ちくださいと奥へ戻っていった。その後店長らしき男性が代わりに奥から姿を現す。
「お、お兄さん、見ない顔だね。初めて?」
そう声をかけられて、五条は新宿に来て初めて表情を緩めた。
「うん、初めて。ごめんね。時間が早いって知らなかったんだ」
「いいのいいの!案内してたら営業時間になるから」
顔だけはいい。同期にはそう言われて、GLGと自称している五条はここぞとばかりに笑みを浮かべる。室内で掛けられている爆音の音楽だけが聞こえる沈黙の後、店長が懇切丁寧に教えてくれた。
「まずワンドリンク制なので、カウンターで注文してね。途中でチップタイムがあるからチップを先に購入しておいて。ドリンクと同じカウンターで券種と枚数伝えてくれたら一緒に支払いできるから。チップの券種は1000円、5000円、10000円。もちろん現金をチップで入れるのも可能だから最初に買いすぎなくても大丈夫だよ」
説明を受けて五条はとりあえず何人出演してくるのか尋ねた。
「今日は全部で6人だね。一通りひとりずつショーが終わって最後にもう一度全員回るから、渡すか悩んで渡せなかった子にも最後に渡せられるよ。あ、でもひとりだけ最後に回れない子がいるんだ。2つ目の演目の子。その子に渡したかったら終わった後のチップタイムで渡して」
無法地帯と思っていたが、この店はそこだけ都の条例を遵守しているようで五条は静かに驚く。
(2つ目の演目の子ね)
店長がお勧めするオリジナルカクテルをスルーしてメロンソーダとチップを頼んだ五条は客席に突き出したキャットウォークの最前列の席に座った。
「そうそう、各ショーの最初に撮影可否、SNS投稿可否について説明があるから、そこは守って。人に知られたくない子も結構出てるから」
「分かった」
スマホを弄っている五条を見て思い出したように店長が追加で説明してくれる。
「みんなに超イケメンが来てるって伝えてくる!」
と店長が嬉々として店の奥に消えるのを確認して、五条は取り繕っていた笑みをさっと落とした。営業時間になったようで、客席が埋まり始める。ショーが始まる10分前にはこじんまりとした店内の客席がほぼ満席状態になった。
念のため店内を見回してみたが、悪魔や悪魔憑きはこの雑居ビル内にはいない。ここに来る前に周囲を一周して悪魔除けの結界を敷いてきたのだから当然と言えば当然だが。
次第にBGMのボリュームが上がり始めて観客の雑談が自然と消えると、照明が暗くなりステージにスポットライトが当てられる。事前に店長が言っていた通り、パフォーマーの紹介に続いて撮影の可否などが説明されてショーが開幕する。
(プロレス……いやサーカスみたいなものだな。一番最初だからってのもあるだろうけど)
五条が思っていたほどの俗的な表現は少なく、ショー用の下着を纏った男性2人の絡みもアクロバットショーの延長として見ることができた。そしてチップタイム。狭い客席の間をパフォーマーが歩いて観客からチップを貰っていく。いや下着にねじ込まれていく。パフォーマーは受け取ったチップやねじ込まれたチップを丁寧に折って下着に差し込みなおしていった。体格がいいパフォーマーはしっとりと汗ばんだ肌にチップを貼り付けて客席を回っていて五条も思わず失笑してしまう。
(へぇ。こういう文化なんだ)
五条も勉強させてもらった分のチップを渡した。やけに他の席よりも五条の席のときだけパフォーマーの滞在時間が長いように感じたが、ステージに向き直ってメロンソーダを啜ると何故かパフォーマーに喜ばれた。暗くなったステージ上では次の演目の準備をしているようで、先ほどまでなかった椅子が置かれていた。五条が座っているパイプ椅子とは違う、アームレストがないハイバックチェアだ。
『続きましては~皆さんお待たせしました!月に一度しか会えない超レアキャスト!ユギア!撮影NGですのでパフォーマンスはその目にしっかり焼き付けてくださいね!』
再び照明が落とされてアナウンスが入ると五条は客席の視線が暗がりに置かれた椅子に集まっているのを感じる。
(……源氏名、掛けちゃいけないヤツと掛けてるね!?それ怒られちゃうよ!??)
本名を知っているが故に吹き出しそうになる口元を抑えて、その椅子に座る青年を視始める。テカった生地のローブを纏っていて、その安っぽさとスリットから覗く素肌とのアンバランスさが厭に目につく。
(……なんだ?これ)
五条が眉を顰める。
(視えない。いや視えるけどどうなっているのか分からない)
通常ならその人間の魂の本質は、善悪のバランスが取られている。いわば陰陽図のように。もしも悪魔が憑いていたとするとどす黒く濁った陰だけの本質になる。先程も調べた通りこのビル内には悪魔も悪魔憑きもいない。
(けど……似て非なる何かが。本質の変化が激しいし、誰かが隠すように手を加えている)
彼の魂は黒い靄のような膜で覆われているが、時折そこから漏れる眩しさが目を閉ざしても脳裏を貫く。目を凝らしていたところでスポットライトがステージ上の彼を照らす。アップテンポな洋楽、所謂EDMのイントロが流れ始めた。歌に合わせて立ち上がり、スリットから惜しげもなく晒される細い足。不相応とも思える黒い厚底のショートブーツを履きこなし、椅子の周囲を歩き回るだけで店内の温度が上がった。
事前の調査結果では乙骨憂太が演劇やダンスを嗜んでいるなんて書いてなかった。10歳頃より引き籠りがちになり内向的。睡眠障害の影響で昼夜逆転の生活。通信制高校へ進学。それもプログラミングスキル関連で芸能コースとは違う。報告書はざっとこんな感じのことが書いてあった。それなのにどうだろう。歓声を浴びながら、椅子に逆向きで跨って情事を真似て腰を振る姿は余りにも乖離しているように見えた。
『私だけが貴方を自由にできる』
そんな意味の英語が流れた後に更にテンポが上がって纏っていたローブが足元に落とされると興奮の歓声が一層高まる。下に纏っていたのは黒いエナメルのボンデージベストとホットパンツ。その上にハーネスを装着していて、キャットウォークを歩いて客席に近づくと大胆に足を広げてしゃがんだり、寝そべって客席の反応を煽っている。メイクで若干大人っぽさを出しているとはいえ素のあどけなさが隠しきれていないのに、その持ち得る妖艶な雰囲気は夢魔に似ている。
(ま、夢魔はこんな可愛いもんじゃないけどね。ん~夢魔じゃない。てか悪魔じゃないのに人のでもない。いや人なんだけど……普通じゃない。自然体じゃない)
湧き上がる客席で五条だけが冷静にその熱演を傍観している。猫のようなしなやかな体躯を披露し踊ってノッている乙骨が五条の傍まで近寄ってきた。
(気付かれた?)
静かに息を飲んで見上げれば、ほんのりと朱に染まった顔が近づいてきた。
「ください」
そう言って手を伸ばして掴んだのは五条のメロンソーダ。呆気にとられている五条に笑みを返して、乙骨はメロンソーダを飲みながらステージに戻っていった。客席はざわつき、視線は乙骨から移り五条に注がれる。妬みや冷やかしの声が上がるが、五条が一瞥投げれば嘘のように静まり返った。
「……いやぁユギアくん、面食いだったんだなぁ」
そんな呟きが後方から小さく聞こえてきた。
チップタイムが始まるが、なかなか彼は客席にやってこなかった。客席の背後にあるカウンターでスタッフに話しかけていて、何かを待っているようだ。その間客の視線が突き出された尻に集中していることを本人は分かっているのだろうか。スタッフから渡された飲み物を片手に漸く客席を巡り始める。熱狂的なファンもいるようで諭吉を取り出し口に銜えて、乙骨が触れ合わないぎりぎりのマウストゥマウスでチップを受け取っていく。これには五条も開いた口が塞がらなくて、乙骨を目で追う間何も考えられなかった。五条の近くに来るまでにホットパンツの縁はチップで埋まり、入れきれなかったチップが今度はハーネスに挟まれていく。そして乙骨は五条の隣に立つと持っていた飲み物を差し出した。
「これ、どうぞ。さっきメロンソーダ貰っちゃってごめんなさい」
「…いや、気にしないで」
新しいメロンソーダを渡された五条は、屈託なく笑う乙骨にチップを手渡す。
「ありがとうございます。この後も楽しんでいってくださいね」
礼を告げた乙骨が立ち去って五条はメロンソーダに視線を落とす。
「……誑しっぷりが凄いな?」
最初のには入っていなかったチェリーが底に沈んでいた。
着替え終わった乙骨が共演キャストに一人ずつ挨拶をしてからショーで盛り上がる店内をこっそりと抜け出す。帽子を深く被り直して、周囲を見渡しながら雑居ビルから駅に向かう狭い路地に進む。しかしそこには乙骨の目の前には五条が道を通せんぼするかのように佇んでいた。
「やあ、久しぶり」
「……さ、さっきの」
帽子とマスクで顔を隠した乙骨がその大きな瞳をさらに見開いて驚いた。
「な、何の用でしょう?」
警戒心をあらわに乙骨が後ずさる。恐らくストーカー等と同一視しているのだろう。
「ちょっと君に聞きたいことがあってね。そんなに警戒しないでよ。乙骨憂太くん」
その瞬間、乙骨の身体は宙に浮いていた。いや対面していたはずの五条が乙骨を抱えて跳び上がっていた。
「え、えぇ~~!??」
「しー!しー!!人払いの結界は張ってないから静かに」
さっきまで地面に足がついていたはずなのに今は足元に何か踏める感覚はないし、雑居ビルの屋上ですら見下ろす高さの視界に乙骨が声を上げるのは道理というものだ。しかし五条が空いた手で口元に指を立てると、咄嗟にマスクの上から手で口を覆う。
「彼は君の知り合い?」
五条の言葉に乙骨が足元ではなく正面を見ると、そこには自分たちと同じく宙に浮いている人がいた。今乙骨を抱えている五条とは違って、その人には羽根が生えていて空を飛んでいる。人のようで、獣にも似た何者かだった。
「……え?な、何が?」
信じられない現象の連続に乙骨が戸惑いの声を零す。
「あの悪魔。知り合いじゃないなら、何も話さなくていいね?祓うよ」
五条が手を翳せば、危機を察した悪魔は踵を返し飛び去ろうとした。しかし五条の視界に入っているうちは射程内。五条がフィンガースナップした瞬間に空中で塵と化した。
良く分からないうちに始まって終わった戦いに、乙骨は呆然と隣の五条を見上げる。
「悪魔除けの結界の外からずっと君を監視していたみたい。君、悪魔が見えるでしょ?」
ゆっくりと下降していき、ついに爪先に地面の感触が当たった。乙骨の身体から五条が腕を放すと震える身体がアスファルトへと崩れ落ちる。乙骨は先程五条と出会った場所に戻ってきた。乙骨の目の前には見たことのない赤黒い炎が燃え広がることなく一か所で燃え続けている。
「大丈夫?」
手を差し伸べられて見上げれば目の前の炎とは真逆の蒼炎を宿した瞳が乙骨を映していた。
「あ、あなたは、一体……?」
乙骨が戸惑いながらも手を重ねると軽々と起き上がらせてくれた。
「僕は五条悟。さっきみたいな悪魔やそういった類を祓う祓魔官で、君を保護しに来たんだ。あ、12時回っちゃったね。誕生日おめでとう」
本名から誕生日まで知られている気味悪さに、本能的に鳥肌が立つ。
「え……え?え~~~~!?」
「だから、人来ちゃうってば!しー!」
乙骨憂太の18歳の誕生日は、これから続く長い戦いの幕開けとなった。