セロトニン完結編 今年の夏は暑くなるとテレビで言っていた。
教師が去った学校は、新しい生物教師を迎え何事もなかったかのように学校生活の回転数は落ちることなく続いている。同級生たちの好奇の目や噂話も、新学年を迎えて各々の学校生活のリズムに順応することのほうに重点が置かれるせいか、若さゆえの記憶の新陳代謝のせいか、はるか昔の話のように忘却の彼方へと消えつつあった。
ただひとり、一紀だけが、御影の不在による空白に慣れない。廊下の影から、あの長身の教師が、出席簿と教科書を持ち、白衣を羽織ってのっそりとやってくるような気がしていた。
また、理科準備室の窓枠にもたれて階下を眺め、顔見知りの生徒たちに手を振ってくれるような気がしていた。
園芸部の畑は、春蒔きの種が植えられなかったせいで、畦は夏の日差しに泥団子をなして所々に雑草が生えている。一紀は昼休みにひとり畑の前に立ち、かたくなった地面を見下ろした。御影の手で、黒々と美しく光る肥沃な土壌となったそこは、主を失い荒れ果ててしまった。一紀の心を豊かに満たした彼が去って一紀の涙が枯れ果てたように、畑の土も梅雨で土壌の栄養分が流れ、やせた土が広がっている。
梅雨明けが近いこんな時期に、野菜を今から植えてもうまく育たないだろう。
校内の、どこにいても居場所がない。温かな、毛布にくるまっているようにふくふくと逃避していた理科準備室から離れて半年が経ち、その間に御影は消えた。屋上にいた風真も颯砂も、卒業してしまった。あの頃の居心地の悪さほどではないけれど、相変わらず自分はホルマリン漬けのかえるのような息苦しさで、ガラスの瓶の中を漂うばかりでどこにも泳いでいけない。外に出ることもできない。
息苦しいとき一紀は傘をささない。道ゆく人々が傘をさして歩く中、その傘で作られたバウンダリーをひらひらと回避しながら歩くとき、自分は自由だと感じることができた。傘で制限される動作より、ささずに濡れてもいいから身軽に動く気楽さを好んだ。だから彼はしばしば風邪をひいた。
学校を休む。熱で思考と現実の輪郭がぼやけ、喉の痛みや息苦しさや布団の中にこもる熱を感じながら、外からの音に耳を澄ませる。明け方の新聞配達のバイクの音は聞き分けられるようになったし、郵便配達のバイクの音も聞き分けられるようになった。水曜日の昼時には、近所のパン屋がサンドイッチをワゴンに積んで売ることも知った。自分の部屋の窓から見える電線は偶然五線譜で、もしも自分が零一さんのようにピアノが弾けるなら、その電線にとまる鳥を音符に一曲弾けたかもしれないと、思う。それはきっと短調のメロディになるんだろうなと思いながら、棚に並ぶ問題集の背表紙を目で追えば、別に好きでもなかったけれど教師が担当するというただそれだけで選択した生物の教科書が目に入る。本当は自分は地学が好きだった。地層の断面を見るのが、好きだった。時間を積み重ねた上に風雨に晒され崩れていく儚さが好きだった。最終的には砂に帰すことがわかっていても、積み重ねずにはいられない地層は、まるで自分の積もり積もる御影への思いのようだった。
そうして梅雨の時期、一紀は例年になくよく学校を欠席した。期末テストも近いのに欠席の多い様子を周囲は心配したけれど、一紀は構わなかった。彼はよく、一年前は御影と学校で過ごしていて、それは自分にとってこの上もなく幸せな一時期だったと回想していた。そうやって過去を振り返ると、御影のいない現在の寂しさの色が一層濃く感じられた。よく他愛のないことでも送り合っていたメッセージアプリのアカウントは、御影が一紀との関係を弁解したあの日に消えてしまった。送っても仕方のないメッセージを打ち込み、そしてそれをデリートしてまた打ち込み、自分の言いたいことはこんなことではないとデリートしているうちに、言いたかった言葉もまた消去してしまったようにただ、御影に対する想いだけが募っていった。いいかげんこの思いを一紀自身も、持て余していた。
ある日やっぱり熱を出して、窓の外の五線譜を眺めていたとき、急に何もかもに腹が立ち、御影からのメッセージを全て、衝動的に消してしまった。衝動的な行動だったけれど、消したあとの後悔が起こらず、むしろなんだか清々しくさえあったことに驚いた。そしてそのことは、一紀の心を軽くした。自分の心を重く引き留めていた御影との思い出のループから抜け出した好機のように思っていた。彼は気分よく眠りについた。そして翌朝、御影とのメッセージを全て消去してしまったことを後悔した。
一紀の心には、御影を断ち切りたいという思いと、まだ好きだという思いの両方があって、それは日々拮抗していた。彼の情緒はますます上下に激しく揺れた。
そんなある日、学校の帰りに海岸沿いの道を歩いていると、黒いネクタイをして学校へ行ったあの日のことを思い出した。冬の日風真の前で泣きながら御影のことを打ち明けた日以来、行っていなかった。御影の手は夏でも冷たかった。彼の手の冷たさを思い出したいと、唐突に思ったのだった。
風真がその護岸をひょいと乗り越えたように、一紀もまた同じようにして砂浜へ下りる。夏の海は、風向きのせいで冬ほど海鳴りはうるさくない。凪いだ海面は、夏の予感のブルウを反射して、海面が輝いている。
一紀はローファーと靴下を脱いで砂浜を進み、波打ち際の海水に足を浸す。すると、御影と自分ににまつわるあらゆる記憶が、足の爪先のほうからぐいぐいと自分の中に浸み込んできた。あの冬の日、この海で放流した御影との記憶の一部始終が海の分子に溶けて漂い、そして再び海に足を浸した一紀の元へと還ってきたようだった。
一紀は御影の手の冷たさを思い出して、泣いた。
家に帰ってくると、机の上に自分宛ての白い封筒が、あった。その、字の癖だけで御影からのものとわかる。手紙には冗長な近況報告も、あの日の言い訳もなかった。ただ一言、「やっぱり会いたかった」とあって、その語尾の使い方がおかしくて一紀は笑ってしまった。
セロトニンと、唱えなくても笑えそうな気がしていた。