街中の銀杏並木が黄色く色づく季節。
18時をもうすぐ迎えるこの時間、バーリント市内の歌劇場前の階段下広場に、ダミアンは文庫本を片手に立っていた。
いつもの学校の制服姿ではなく、高級ブランドのスーツに身を包み、左手首にも海外製の高級腕時計をつけている。18歳の学生にはあまりにも高価な身なりであるが、曲がりも何も国内屈指の名門・デズモンド家の人間なのだからこれくらい当然である。
今日は土曜日。学校は休みだが、イーデン校の寮生であるダミアンがこうして校外に出て街中にいるのはめずらしい事だ。
今、ダミアンはこの場で待ち合わせをしている。相手は女性。この歌劇場で上演されるオペラを鑑賞した後、市内の高級レストランでディナーをする事になっている。
第三者から見ればデートと言われるであろうシチュエーションだろう。だが、ダミアンはそれを認めていない。ダミアンの中で今回は『オペラ鑑賞と食事』という位置付けだ。決してデートではない。
そろそろ待ち合わせ相手が来る頃だろうか、とダミアンは文庫本から目線を上げて周囲に視線を巡らせた。
ここはバーリント市内でも有数の大通りの1つに面している。ただでさえ人通りが多い所なのに、歌劇場があるので尚更行き交う人々が多い。徒歩でやって来たり、自前の送迎車やタクシーで乗り付けて来たり。この広場は待ち合わせスポットでもあるので、ダミアンのように待ち合わせ中らしき人もちらほら。まさにここは三者三様の様相を呈いている空間と言えよう。
と、ダミアンの目線が動きを止めた。
待ち合わせ相手を見つけたからではない。だが違う人物を見つけたのだ。
ダミアンが広場の西側に立っているのに対して、向こうは東側を歩いているので10メートル以上は距離がある。広場に街灯が灯っているが、ここはガス灯なので黄昏時ほどの薄暗さでしっかり見えない。
それでも、ダミアンの視線が捉えた相手は脳内に浮かぶ人物に相違ないと確証を持てた。
――だけど。まさか。
「……フォージャー、なんでここに……?」
クラスメイトで想い人でもある相手の名を思わず呟いた。そして、
「誰といるんだ……?」
彼女の隣に男がいた。
年は20代後半くらいだろうか。スーツに包まれた身体は細身で、身長はダミアンとそう変わらないか高いか。艶があって癖がないストレートのボブヘア。中性的で整った顔立ち。
ダミアンの記憶を総動員しても該当するヤツはいなかった。
(フォージャーが……俺の知らない男と……)
髪をハーフアップに結い、ふんわりした膝下丈のハイウエストスカートに、白いブラウス、その上に大判のストールを肩に掛けたアーニャが、男の腕を楽しそうに取る。対照的に男はしかめっ面で彼女を見下ろすが、振りほどくなどする様子は全くなく。互いに何か会話しながら、小柄なアーニャのペースに合わせて階段を登って歌劇場のエントランスに向かって行った。
「フォージャー――」
「ダミアンくーん! お待たせ!」
呼び掛けられた声に、ダミアンは我に返ってそっちを振り向いた。
栗色のセミロング、膝丈のタイトスカートのワンピースのこの女性が、今日のダミアンの待ち合わせ相手だった。
「待った?」
「いいえ、僕も今来たところですよ」
すぐに社交用の笑顔を張り付けて、同じく社交用の声音で応じる。
デズモンド家と古くから付き合いがある、経済界トップとも言われる一族のお嬢様で、今は市内のお嬢様御用達大学に通う1年生。ダミアンの2歳上だ。
このお嬢様の方からダミアンと2人で会いたいと申し出があったらしい。実家からその連絡を受けて、ダミアンは渋々応じたというわけだ。
つまり、これは接待である。
「久しぶりねダミアン君。ますますいい男になってる」
「そうですか? サラさんもお綺麗になられましたね」
「ありがとう。お世辞でも貴方に言われると嬉しいわ♪」
そうお世辞だ。『メイクが随分濃くなりましたね』なんて本音を言えるわけがない。あと香水もつけすぎですよ、とも。
「では、行きましょうか」
気分が乗らなくてもエスコートはしなければならない。腰に腕を当てて肘を曲げて見せると、接待相手は満足そうな笑みを浮かべて腕に絡み付いてきた。
◆◇◆
「――?」
歌劇場の階段を登りきるまであと数段の辺りで、アーニャは名字を呼ばれた気がして振り返った。
「? どうしたチワワ娘。こんな所で振り返ると危ないぞ」
「ねぇおじ、さっき誰かフォージャーって呼ぶ声聞こえなかった?」
隣を歩くユーリ・ブライアにそう問いかける。
「……さぁ。聞こえなかったと思うが」
「そっか。じゃあ気のせいかなー」
――もしくは、誰かの心の声だったか。
声の主とは距離があったのか、きちんとした音声と言うよりは気配みたいな感覚。その程度だと男か女かも判別出来ない。
眼下の広場をざっと見てみても、やはり距離があるし、薄暗いので人々の顔がきちんと見えない。
アーニャの事をフォージャーと呼ぶ人間はまあまあ限られるが――
「……ま、いっか」
おじの言う通り気のせいだった可能性が高そうだ。前に向き直って階段を登りきった。
「そう言えば、まさかチケット忘れていないよな?」
「うん、大丈夫。間違いなくこのポシェットに入れたもん」
「じゃあ出せ」
ポシェットを開けてチケットを差し出す。受け取ったユーリはチケットをざっと見て、
「まぁまぁいい席だな」
無愛想だった表情からわずかに口角を上げた。
「えー、真ん中より後ろの方だよ?」
「中央列のエリアだし、少し後ろの方がステージ全体が見渡せて却って観やすいんだよ」
「あーそっか」
「この辺りだったら演者の表情もなんとか見える距離だろ」
「なるほどー」
「前の方で観たいなら自分で金払って買うんだな」
「無理っ」