悪者/尾月 side尾 いやだ、やめてと拒まれるのは好きじゃなかった。
数少ない言葉に生きていることを否定された気持ちになるからだ。
女はよくしゃべる。
よくしゃべるのに察して欲しい事は声にしない。
伝えたいことがあるから言葉にするものだ。齟齬があっては成り立たないから会話をするのものだ。
それでも「どうして分かってくれないの」などと言う。
普段、喉を震わせ吐き出していた音の数々は何だったのかと思う。だらだらずらずらと、肝心な気持ちは隠しておいて表面的な事象ばかりを話していたのか。
時間の無駄だ。
くだらない。
そう思った途端、欲情する。
突っ込んで揺さぶって、思うまま飛沫を撒くまでの情事を想像して止まれなくなる。
いやだ。
やめて。
初めて拒絶されたのは実の姉だった。
母に似て壮麗な、地元でも噂になるような女だった。
ただの──女だった。
細身の肉は雪のように白く、今に折れそうな華奢な腕はあたたかく、生ける動物の温度を持っていた。長い首の筋が突っ張って否定的に声を上げるのが煩わしくて、いつもよくしゃべるのに、抱かれるときも似たような声を上げるのかと知った途端、脳漿が沸騰した。
視界を染め上げた肌の白と血液の紅と髪の黒が同情的で艶やかで、息も忘れていた思う。
無理矢理抱いた──とそんな認識はなかった。合意の上だとも思わなかったが、吐き出した欲の塊が姉のシーツを汚したのを見た時、ようやく抱いたのだと実感が湧いただけだ。
泣きじゃくる姉の声に駆け付けた弟の顔が兄である男をどう見ていたのか伝わらなかったのだが、ただ立ち竦んで震えるその姿に燃えるような欲情を覚えてしまったのだから、弟の態度は拒絶そのものではあったのだろう。
尾形くんは優しいのね──と女は言う
しばらくすると尾形くんは酷いのね──と言う。
だから抱いた。化粧だの涙だので飾られた目が正直に心を繁栄し否定を滲ませるほど、欲に抗えなかった。
何が優しいのか酷いのか、あんなに話す癖に分からない。
言われる度に聞くのだが要領を得ない。
──男ならば話が通じるかもしれない。
男を抱く趣味はなかったが、女と違って、女が言う「優しい」と「酷い」を教えてくれるのならばいいかもしれないと思い直したのは月島基に出会ってからだ。
転職先で出会った現場責任者のその男は、わざと崩すような人間だった。
渡した製図通りの仕事をしない。
何度言っても支障のない程度に部品を変えたりする。
全く同じでもメーカーが違うとか製造年月日が指定したものと数日違うとか、本当にその程度に崩す。
初めは新入いびりのような嫌がらせかと思ったのだがどうにも違う。言えば謝る。正す。暫く共に働いて分かった事なのだが、そもそもが潔癖のような仕事振りなのである。
じっと食い入るように見詰めたと思えば全く視線が合わなくなったりして、会話のペースまで崩される始末だ。
左手の薬指に光る指輪を見た時は驚いた。
こんな人間と一緒になろうという女がいるのかと、失礼極まりない興味を持った。
月島は多くも語らないが、少なくも語らない。煩わしくない言葉数は男ならではかとも思ったのだが、そもそも女と同じ土俵で比較するものでもないだろう。
「酷い男だな、お前は」
喫煙スペースで同じ銘柄の煙草を咥える度、半端な歯切れで言う。過去の女の話だったり、好みの話だったり──基本的には下品な話題なのだが、決まって柔らかく微笑んで低く煙を吐く。
「優しいですよ、俺は」
三度目を超えた頃から様式美になったやり取りの理由は分からないままだった。
何故、酷いのか。
それが知りたくて月島に擦り寄ったはずが、時間が経過し過ぎた所為かどうでもよくなってしまった。
フィルターを挟む上唇と下唇がかさかさしている方が気になった。甘い柔軟剤の匂いが気になった。毎日嬉しそうに手作り弁当を開く横顔が気になった。定時で帰ろうと必死な指示口調が気になった。タイピングの遅い太い指が気になった。存外よく利く低い鼻が。丸っこいのに横から見ると平たい坊主頭が。シャツ越しからでも分かる筋肉質なカラダが。
尾形と呼ぶ、気を緩めた声とか。
「ねえ、月島さん。」
「何だ。」
「俺とこうして会う時、どうして指輪を外すんです?」
酔うと缶ビールの飲み口を噛む癖とか。
深夜の冷たさに似合う仏頂面とか。
「これは俺にとって社会とか世間に繋がる道具なんだよ。」
細くなった瞳は全く笑っていない。微笑みのような形にはなっているが。
欲情しない。
月島と云う男が何もかもが欲しいと思う。結婚なんぞクソ喰らえだと思う。そんな女は似合わないと思う。閉じ込めて誰の目にも触れないようにして、俺の為だけに生きるようになって欲しいと思う。愛おしいと思う。狂おしいと思う。こんなに何もかもをタイセツに思える人間は初めてだった。
欲情にはならない。
だから余計に愛おしい。
拒絶されれば──どうなるのだろうか。
想像するだけでオカシクなる。
「ここは世間でも社会でもありませんか。」
分かりきったことを聞くと、分かりきったことを聞くなと叱られた。封を開けずにテーブルに無造作に置かれたままの煙草のボックスケースを眺め、心が満たされるのを待つ。
「恋愛するんだったら社会も世間も必要ない。違うのか」
月島はぐずぐずになった冷奴をまた崩す。
崩すのが好きな男だ。
「月島さん。」
「何だ、尾形。」
「俺のこと、迎合し続けてくださいね。もう俺、あんたに拒まれると何するか分からんのです。」
「拒まれるようなこと、するつもりないんだろうが。」
「拒まれないって諒解してるからしないのかもしれませんね。」
拒まれると存在を否定されたような気がする。嫌だやめてはこれ以上ない侮蔑の言葉だ。
厭わしくなるほど、淫らに感じる。
衝動のまま淫欲に身を任せれば存在を否定されると理解していても、そう納得するほど抑制が出来ない。
月島を厭わしく思わない。だから欲情しない。すると拒まれない。方程式も導き出す答えも簡単だ。それでも月島にとって何が拒む対象になるのかを知らないから、如何ともし難い。
「俺は何があっても尾形を拒まんよ。」
崩した冷奴を口に運び、咀嚼するぬるぬるした音と共に言った。照れ隠しなのか思いつくままなのか、酔っているのか。
「だいすき、なんだろうなぁ、俺も。」
「…はあ?」
くつくつ、くつくつ。
ヘタクソに笑うのがアルコールを含んだ頭をより酩酊させる。
今この瞬間にも崩されている。
「だってお前、かわいいもんな。」
──俺だって勃ちゃしないけど。
飾らないひとだ。出会ってからずっと嘘も繕いもない。ちょっとした見栄と潔癖とを内蔵させた小さな身体がそれなりに生きているだけだ。
男の一人暮らしの部屋には些末な犯罪がひしめいていて、そのうちでも密度の高い、しかし清廉な完全犯罪が恋愛という形を持っている。
月島基と尾形百之助だけの社会が、世間が、成り立っている。
綺麗に生きられるのはこの瞬間だけだからと歪な会話を繋げている。
「ねえ、月島さん」
「何だ」
「あんたの倫理観もまあまあ捨てたもんじゃないですね。」
「ふたりで悪者になりゃあそれは善人だと思うがな。」
「ふふ、じゃあ月島さんと居られる最後の瞬間までは──俺は善人で優しい男ですかね。」
「じゃあいつかは悪者で酷い男だな。」
「ええ。お互いに。」
いつか。
どこかで生きていることすら曖昧になってしまうまで。
《了》