ワフッ、とドッゴの声が聞こえる。
うつ伏せになった腕の中へと潜るように鼻先を押し付ける仕草に促され、浮奇は意識を浮上させた。ぼんやりと視界に写る時計はまだ昼前を差している。
「んん〜どうしたの?」
普段は寝室に入ってくることはないのに珍しい。主人が構ってくれず手持ち無沙汰なのだろうか。寝起きでぼんやりと纏まらない思考のまま、暖かくふわふわな巨体を撫でる。寝室には暖かな光が差し込んでいて、まだ微睡から醒めない浮奇は再び夢の世界へと戻ろうとした。
「!?」
と、纏っていたブランケットを何かに引っ張られ覚醒を強いられる。慌てて目を開ければドッゴが端を咥えているのが目に入った。
「遊びたいの?」
主人であるファルガーによって躾の行き届いたドッゴは、元来の大人しく穏やかな性格も相まって今まで浮奇に対して強く何かを仕掛けるようなことはしてこなかった。困惑する浮奇に気付いているのかいないのか、頬を舐めたと思えば再びブランケットを引っ張ってくる。
「ちょっ、待って待って、落ちる!」
寝返りで絡んだのか体の下に入り込んだブランケットごと引っ張られベッドから落ちかけた浮奇は、今度こそ慌てて身を起こした。当のドッゴは浮奇が体を起こしたのを見届けると、振り向きもせずに足早にリビングへ消えていく。
「なんなの?」
あまりに唐突な出来事に呆気に取られていると、リビングから急かすように鳴き声が聞こえてきた。絡みつくブランケットから這い出た浮奇は、カーディガンを羽織りながらリビングへと向かう。
「もう、本当にどうしたの?」
リビングで浮奇を待っていたドッゴの視線の先には、ソファに横たわるファルガーが居た。
「ふーふーちゃん?こんなところで寝るなんて珍しい」
ソファへと近づいて覗き込めば、ファルガーが眉間に皺を寄せて瞳をキツく閉じていることに気付く。悪夢でも見ているのだろうか、薄っすらと汗の滲む額に前髪が張り付いている。思わず前髪を払おうと額に触れた指先が、やたらと高い熱を感じた。
「ぅき?」
眠りが浅かったのか、触れられたことでファルガーがゆっくりと目を開ける。舌足らずに呼ばれる名前に、浮奇はあることを確信した。
「うん、浮奇だよ。おはよう、べいびぃ」
「おはよう」
ほとんど開いていない瞳へ浮奇を映したファルガーが寝転んだまま力なく両腕を伸ばしてくるのに応え、浮奇は屈んで中途半端な姿勢になりつつも背中へ腕を回した。
「ここで寝てるの珍しいね?」
「あついし、からだがおもい」
予想外に淡々と伝えてくる様子に、浮奇は数回瞬きをする。もしかして、自覚がないのだろうか。
「ふーふーちゃん?多分、熱あるよ」
「ねつ?」
「うん、体温測ろうか」
体温計を取りに行こうと起こしかけた体は、背中で組まれたファルガーの腕に阻まれた。
「ふーふーちゃん、離して。体温計を取りに行くから」
幼子にそうするように優しく声を掛ければ、返事の代わりに小さく名前を呼ばれて。それきり、ファルガーは黙ったまま腕を離す素振りもない。体調を崩すと人肌が恋しくなるとはいうが、普段のファルガーからは想像も付かない姿に浮奇は頭を抱えた。あまりに殺傷力が高すぎる。
とはいえ恐らく高熱であろうファルガーは息苦しそうで、浮奇は頭を振って冷静さを取り戻す。
「ふーふーちゃん、ここじゃ俺の腰が痛くなっちゃうからさ。一緒にベッドに行こう」
暗に独りにはしないことを伝えながら言い方を変えれば、ファルガーはすんなりと腕を離してくれた。体調を崩していても変わらない優しさに奥深い愛情を感じる。
「ありがとう。体、起こせる?ベッドに行く前に、ちょっと寄り道するからね」
かなり怠さもあるのかゆっくりと起き上がるのを手伝う。おぼつかない足取りのファルガーの手を取り、浮奇は必要なものを集めるべくリビングを後にした。
「これ持てる?」
「うん」
「ありがとう」
片手しか使えないのは不便だが繋がれた手を解きたくなくて、浮奇は手近にあった小さいカゴをファルガーに抱えさせた。素直に受け取ったファルガーの頭を撫で、キッチンや洗面所へと寄りながらスポーツドリンクと冷却シート、タオルと体温計と解熱剤をカゴへ入れていく。
必死に閉じかける瞳を開けようと戦うファルガーの意識を保つべく、歩き回りながら浮奇はドッゴの今朝の散歩のことや天気のことなどを話かけ続けた。ぼんやりとしたファルガーからは、普段の数倍はふわふわふにゃふにゃした答えが返ってくる。
「これで最後かな」
最後に立ち寄ったファルガーの部屋からブランケットへ手を伸ばす。手触りの良いそれはファルガーのお気に入りで、浮奇が体調を崩したり気分の悪い時に掛けてくれたこともあった。
「あっ、」
ブランケットを取り上げた拍子に、白い羊のぬいぐるみが転がった。配信でも時折登場するそれはよくブランケットと一緒に置かれている。一緒に連れて行こうとしたが、寝室のドアを開けるためにもふらふらしているファルガーを支えるためにも片手は開けておきたい。あとで拾ってあげることにして諦めかけた浮奇の足元を、ドッゴが通り過ぎた。
「持ってきてくれるの?」
真っ直ぐにぬいぐるみへと向かったドッゴは、咥えて拾い上げると浮奇の足元へと戻ってきた。さすがファルガーの相棒である。
「ふーふーちゃんに似て賢いよね。ありがとう」
心配そうに主人を見つめるドッゴの頭を撫で、浮奇はようやく寝室へと辿り着いた。
「着いたよ、ベッドに入ろう」
ぬいぐるみをベッドの上へと置いて少し離れた場所で見守る体勢になったドッゴを見届けてから、ファルガーをベッドへと押し込む。大人しく潜り込んだファルガーが無言のままで浮奇の服を掴み引き摺り込もうとするため、浮奇は慌てて片手を着いてベッドへと腰掛けた。
「んん、」
「まずは熱を測るのが先だよ」
やや不満げな声を漏らしたファルガーがふらふらと腕を伸ばしてくるのを利用して、脇の下へと体温計を差し込む。代わりにそっと頭を撫でた。
「ふーふーちゃん、苦しくない?」
「うん、」
程なくして音が鳴り、浮奇は手を止めないまま体温計を取り上げる。38度5分。
「やっぱり熱あるね」
「ねつ、」
「うん、熱」
ぼんやりした瞳で見上げてくるファルガーの額へと冷却シートを貼れば、きゅっと目が瞑られる。完全に眠ってしまう前にストローを刺したスポーツドリンクを渡して水分補給を促し、ついでに解熱剤を飲ませた。あと必要なのは十分な睡眠。
「ぅき」
「なぁに?」
不安げに揺れる声で名前を呼ばれ、腰掛ける浮奇へと彷徨いながら手が伸ばされる。ドッゴがベッドの上に置いてくれたぬいぐるみを枕元へ置いて、ファルガーの隣へと寝転んだ。
「うき」
「ここにいるよ」
伸ばされた手を捕まえてしっかりと繋いで、ぴとりと身を寄せてくるファルガーの背中をトントンと優しく叩く。
「ふーふーちゃんのそばにいるよ」
柔らかな声で言葉を伝えれば瞳が完全に閉じられ、程なくして穏やかな寝息が聞こえた。
「甘えてくれて、頼ってくれて、ありがとう」
ファルガーが素直に甘えてくれたことが純粋に嬉しかった。隠すことが人一倍上手な彼が弱さを見せてもいいと思える程度には心を許されている。叩き起こして知らせてくれたドッゴにも、頼っていい人だと認識される程度には信頼を築けていたことも分かった。
ソファで見た時とは打って変わって、ファルガーの表情は穏やかだ。起きたら食べられる様にお粥を用意しよう。ドッゴには特別なとき用のおやつをあげよう。その前に、大切な愛おしい貴方が穏やかな夢をみられるように。
願いを込めて歌を紡いだ。