「浮奇、髪を…」
風呂から上がって雑にタオルドライした髪先からポタポタと雫を落としながらリビングへと向かったファルガーは、先に風呂を上がってソファに座っている浮奇に声を掛けようとして途中で言葉を止めた。熱心に手元を見つめる浮奇の前には、黒いネイルの瓶が置いてある。静かに近寄れば足音に気付いた浮奇が顔を上げた。
「ふーふーちゃん、上がったの?おかえり。」
「あぁ、ただいま。ネイルしてるのか?」
「ううん、これから。ちゃんと髪拭いてきた?」
母親のような口調で問いかける浮奇に、頷くことで返事をする。そのまま浮奇の隣へと腰掛ければ、動いたことで髪先から落ちた雫がソファに染みを作った。
「うそつき。」
「…拭いた、軽く。」
目敏く気付いた浮奇にぺしりと膝を叩かれて思わず言い返す。自覚はあったが反抗期の子供のようなセリフに一瞬目を丸くした浮奇がクスクスと笑いだして、ファルガーは顔ごと背けた。珍しくバスタブに湯を張ったせいなのか身体だけでなく心まで解されたようで、どうしようもなく甘えたい気分だった。
「ちゃんと乾かして。風邪ひいちゃうよ?」
「..ん、」
ファルガーの気持ちに気付いているのか優しく声を掛けてくる浮奇に、ファルガーは手にしていたドライヤーを持ち上げて見せた。途端にまだ熱い身体をぎゅうっと抱きしめられる。
「ベイビー、俺に乾かして欲しくて持ってきたの?」
「たまには良いだろ。」
「俺はいつでも大歓迎だよ?まだネイルしてなくて良かった。」
嬉しそうな顔でいそいそとファルガーの方へ身体を向け直す浮奇に、ファルガーはコンセントを差し込んだドライヤーを手渡して背中を向ける。
一緒に暮らしてから時折こうして相手の髪を乾かすことはあったが、その殆どは浮奇が頼んでくるか手入れをしたがるかの二択でファルガーが自分で頼むのは稀だった。鼻歌でも歌い出しそうな様子の浮奇にされるがままに身を任せる。初めて頼んだ時は他人に頭を触れられる経験が少ないせいか眠気を誘われて、カクリと首が落ちたのを浮奇に笑われたことも今ではいい思い出だ。
「…ふーふーちゃんもしてみる?」
手持ち無沙汰になってテーブルに置かれたネイルの瓶を手に取って眺めていれば、ドライヤーの音に掻き消されないように少し声を張った浮奇に問いかけられた。
「いや。それに俺の爪じゃ難しいだろう。」
「そうかもしれないけど…」
しっかりと冷風で仕上げてからドライヤーを止めた浮奇が慣れた手付きでブラシを通す。さらりと指の間を滑り落ちる感触を楽しんで、コンセントを抜いたファルガーからコードを受け取って手早く纏めた。
「よし、終わり。」
「ありがとう。」
礼を言いながらドライヤーを受け取って、代わりにネイルの瓶をテーブルへと戻す。片付けに行こうとしたファルガーを浮奇が寝巻きの裾を掴むことで制した。
「ねぇ、ふーふーちゃんもネイルできる方法あるよ。」
「俺が?」
「うん、ちょっと待ってて。」
首を傾げるファルガーを置いて浮奇が自室へと向かう。大人しく待っていれば透明なケースを手にした浮奇が戻ってきた。
「それは…?」
「練習に作ったやつだから、少し雑だけど。」
ケースに並んでいたのは様々な色に彩られた爪の形をしたプラスチックだった。綺麗に整列されているそれは、大きいものから小さいものまで指の数だけ並んでいる。
「ネイルチップだよ。」
「…ねいるちっぷ?」
「ふふ。手、貸して。」
言われるまま手を差し出すと、浮奇は光に反射して煌めくベージュ色のチップを手にした。
「チップ自体にネイルをして、テープとか糊で爪に貼るの。」
「爪に貼る?」
「うん、…ほら、こんな感じ。」
チップの裏にテープを貼った浮奇がファルガーの人差し指にチップを乗せて軽く押し付ける。赤い指の先端に色が乗せられて、ファルガーは思わずじっと指先を見つめた。
「すごいな、ネイルしてるように見える。」
「でしょ?でも俺のサイズに合わせてるから少し小さいね。」
ファルガーにとっては大きいも小さいも分からなかったが、指先を彩るそれにやけに興味を唆られる。少し前に浮奇に誘われてその指先に色を乗せた時には、義手の影響か細かい力加減ができずに不格好になったそれに予想はしていたがやや落ち込んだこともあって、ネイルをする浮奇を見る度に少し苦い思いをしていた。
「今度、ふーふーちゃんの大きさに合わせて作ろうか。」
「これを作れるのか?」
「うん。ネイルスタンドを使えばやりやすいし、ふーふーちゃんも自分で作れるんじゃないかな。一緒にやってみる?」
「何を言っているのかよく分からないが、やってみたい。」
「ふふ。色はたくさんあるから好きなの選べるし、きっと楽しいよ。」
ファルガーの返答に浮奇が嬉しそうに笑う声が聞こえる。一度挫折しているだけあって、再びチャレンジできるのはファルガーにとっても嬉しかった。
「…でも最初に作るのは紫がいい。」
「そうなの?」
こくりと頷いて、ファルガーは浮奇と真っ直ぐ視線を合わせた。
「紫にすれば、いつでも浮奇と一緒にいられるだろう?」
ファルガーを痛いくらいに抱き締めて音にならない言葉で唸っていた浮奇が、ようやく言葉らしい言葉を返したのは、それから数分後のことだった。