幕が下がるぐちゃり、と腐った肉が裂ける音がした。
自らがふるった刃先にも、同じく酷い色をした液体がこびりついている。
「…はぁ」
今日何度目かも分からない、溜息を付いてばかりの七海は、いい加減参っていた。
呪霊の強度は2級ぐらいのものだったが、数が多くて仕方ない。祓っても祓っても、どこからか湧き出たのか次々と七海に向かってくる。
昼食後からの急な依頼で、時刻はもう19時を回っており、とっくに労働時間外である。
駅前から一歩路地に入ったこの場所は、昼でも日が当たる事はない店が集まり、まるで時代遅れの繁華街といった所だ。
「…もう、こいつで終わりでしょう」
最後の一体を祓う。
するとその呪霊から血のように流れる黒い液体は、まるでマグマのようにゆっくりと、近くの廃墟のホテルへと戻るように入っていく。
「…まだ、いるのか」
重い足取りで、七海は黒い液体を辿っていく。エレベーターは当然壊れ、機能していない。仕方なく底が抜け落ちそうな錆びた階段を上がっていく。
「あ、…なな、な、みミ。ヒ、さし、ぶリだ、ネ」
「…は」
上がった先には、天井まで伸びた巨大な呪霊が目を閉じ眠っていた。その容姿は酷く醜いが、腹の中心が膨らんでおり、そこに4本の腕がまるで胎児を守るかのように置かれている。
そしてその中心から、聞いたことのある声が耳に入り、七海は冷や汗が止まらない。
「ご、メな、さイ、げとうさ、ん。……………どうしても会いたくて」
グチャグチャと不快な音を立てながら、巨大な呪霊の腹の中から、1人の人間が現れた。
「…は、いばら?」
黒い制服を着ているのが分かる。
黒い短い髪を揺らし、黒く吸い込まれそうな大きな瞳を開け、七海を見つめていた。
それは、10年前に失くした友人に酷く似ていた。
「僕、本当は人の前には出られないんだ。夏油さんとの約束で。助けてもらって嬉しかったし、夏油さんには感謝してる。だから夏油さんのやる事を手伝ってるんだ…ごめんね。でも、やっぱり七海に一度だけでも会いたくて」
人好きののする幼い顔、全てが過去の思い出と同じままだった。
「な、何を言っている」
灰原雄という青年は10年前に七海の傍で死んだ。呪霊に身体を喰われて、上半身は何とか連れて帰る事ができた。
灰原の遺体を必死に学校に運んだのは七海自身である。
忘れるはずがなかった。
「お前は、…誰だ」
「七海、」
「呪霊の、仕業だろう。…正体を見せろ」
「僕に、会いたくなかった?」
「やめろっ」
「七海、僕」
「灰原は、死んだんだ!」
「七海、あれは間違いなく灰原だよ。私が蘇らせて、やあっと人の形に出来たというのに。灰原ったら、約束を破ってでも七海に会いたかったんだねぇ?」
最悪の呪詛師が、隣で愉快そうに声を出して笑っていた。夏油が言葉を発するまで、七海はその存在に気が付かず、目を見開くことしか出来ない。
「っ…」
「ごめんなさい、夏油さん」
「灰原、何度も言っただろう。君は計画の切り札だ。悟と七海を一瞬でも引き止められればって」
「ごめんなさい」
「計画が台無しだよ」
「ごめんなさい」
「…まあ良いよ、じゃあね、七海」
「…はっ、待て!くっ」
『ガァァぁあああ』
甲高い悲鳴のような呪霊の声と共に、夏油と灰原はその腹の中に入ると、一瞬にして七海の前から消え去った。
✳✳✳
「七海、僕の事軽蔑した?嫌いになった?」
子ども達を逃がした七海の背後から、懐かしく冷たい音色が響いた。
「お前は、…灰原じゃあない」
「七海」
「呪霊が喋るな!」
七海は怒りで我を忘れそうになりながら、手に力を込める。
灰原は人が好きで、人を守る為に死んだというのに。
目の前の存在は、その真逆の行動をとったのだ。
到底信じられず、鉈を取り出す。
「七海が一回呪術師辞めたの知ってるよ。僕のせいだよね?ごめんね、辛いのにまた戻ってきたんだよね?…ごめんね、だからね、今度は」
「貴様は灰原じゃないっ!」
「僕が、…守ってあげるよ。七海」
「ぐっ」
突然、黒い影が七海の手足に巻き付き、締めあげる。動くことの出来ない七海を見つめながら、灰原は満足そうに微笑んだ。
そして七海の愛していた、暖かい陽だまりのような笑顔を浮かべながら灰原は、ケタケタと笑いながら、酷く不釣り合いな呪いの言葉を吐き出す。
「僕だって、辛かったんだ。でも今日でおしまい。これからはずっと………ずっと一緒だからね、七海」
「は、…い、ばら」
「好きだよ、七海。…君しかいらないんだ」
大きな影が2人を包み込むと、そのまま溶けるように地面へと消えた。
新宿での事件の後、一級術師七海建人の消息は、依然行方不明のままである。