神よ、これは罰なのでしょうか。
今は遠い天上へと問いかけるが、当然答えなど返ってこない。
落ち着け、大それた事態ではない。そう己に言い聞かせるが、どうしたところで落ち着けそうにもない。
「ノースディン」
小声で呼び掛けるが、返事はない。規則正しい呼吸に、その鼓動。穏やかに眠っているようだ。
なんとか距離を取ろうと動くが、案外逞しいノースディンの胸に抱きすくめられていて、それは叶わなかった。
何故こんな事態になってしまったのか、と数刻前のことを思い起こすとどう考えても自分に非がある。ノースディンは被害者と言えるだろう。
小さくドアが開く音がして、その後にベッドへと歩み寄る足音がする。人間の時と比べ、聴覚が鋭くなっているようで、些細な音だが目が覚めてしまった。
夢か現か曖昧な中、重い瞼を開くとそこには寝支度を整え、濃紺のナイトガウン姿の吸血鬼としての父がいた。
いつもは一部の隙も無いような出で立ちの相手に、新鮮な気持ちになる。
ノースディンに与えられた今の己の衣服も同じもので、お揃いだ、と少し面映ゆくもある。君はいつもそのような格好で寝ているんだな、と思うが眠さによりうまく言葉は出ない。
「すまない、起こしたか」
「ん……」
曖昧に返すと、ノースディンの手が癖の強い髪を撫でつけてくる。あまりに心地良く、再び眠りに落ちそうになってしまう。
髪を撫でられるなど、子どもの時分でも早々無く、離れていく手があまりに名残惜しくなりその手首を思わず捉えてしまった。
「クラージィ?」
「もっと」
たったそれだけの言葉だったが、それは明らかに催促の言葉だった。そして、その後のことは覚えていない。
だが、目が覚め今のこの状況を鑑みるに、ノースディンの親心に漬け込み、ベッドへと誘い込んだに違いない。
ノースディンは優しい男だから、きっと無下になど出来ずこうしてさして体格の変わらない男を抱き締め、あやすようにして眠ったのだろう。
健やかな呼吸を前に、起こすことは躊躇われる。彼が起きたら謝らなければ。
遮光カーテンから外の様子は分からないが、おそらくはまだ日が沈むまでは時間がありそうだ。
今の己に出来ることは、ノースディンの眠りを妨げないように、じっとしていることだけだ。
眠ってしまえばいいのだが、いつもの眠気は何処へやら遠くに行ってしまったようで、眠れそうにない。
せめて視界からの情報を遮断しようと瞼を閉じると、今度はノースディンの体温や背に回った手のひらが気になってしまう。
無意識なのか、本当の子どもをあやすように背や髪を撫でられて落ち着かない。
こんなことはノースディンも本意では無いだろう、と罪悪感が押し寄せてくる。
思考の渦に飲まれそうになっていると、ノースディンの呼吸が規則正しいものから深呼吸のようなものへと変わったことに気が付いた。
なにが起こっているのか暫く分からなかった。だが、はたと気付く。
見ることは出来ないが、ノースディンの顔が己の癖の強い髪に埋もれ、嗅がれている。
「っま、ノースっ……」
羞恥に顔が火照る。何をしているんだ、君は。そう言いたいが言葉が出ない。
けして、臭くはないとは思う。身の回りのものは全てノースディンが用意していて、髪も彼が揃えたもので整えているのだから、むしろ彼好みの良い香りなのだろう。
だが、そういった問題では全くない。
やめてくれ、頼むから! 叫び出したいほどのその願いは、全くノースディンに届くことは無く、今度は耳朶の裏にノースディンの鼻筋が触れ嗅がれる。彼の口髭が触れ擽ったい。
「な、何故、やめてくれっ」
流石にこの状況はまずいのではないのだろうか、と焦りが芽生えてくる。くすぐったさに体が震えるが、力強く抱きすくめられ逃れられない。
「ノースディン、頼むから……」
ドラルクのように、いっそ灰になりたいとさえ思うが、彼の儚さは到底己には無く、情けなく震えた声が出るだけだった。
だが、懇願にノースディンの動きがぴたりと止まり、起きてくれたのだろうか、と安堵する。しかしそれも束の間に、項の辺りを彼の口唇が這った。
これはもしかして噛もうとしているのではないだろうか、と本能的な恐怖に体が強張る。
「わ、私は美味くないと思う……!」
最早、起こさないようになどと悠長に思う事態はとうに過ぎ、必死に言った。
まともに血が飲めず、この体はなかなか肉が付かない。到底美味いとは言えないだろう。
「私は婦女でもないし、君の使い魔でもない! 寝惚けているのなら止めてくれっ!」
藻掻き、その腕から抜け出してなんとか距離を取ることが出来ると、目前にノースディンの顔があった。青い睫毛が瞼を縁取り、その一本一本を数えることが出来そうなほどの距離だ。
美しい赤い瞳は冴え冴えとしていて、到底寝起きのようには見えない。そして、その目に竦められたように体が動かなくなってしまう。
魅了の使い手だと聞き及んでいるが、その能力とは関係なく彼は美しいと思う。
捕らわれるように抱きすくめれていた腕は、今は軽く背に添えられている程度で逃げるならば今だと警鐘が脳裏で鳴り響く。だというのに逃げられない。
「寝惚けていないなら、続けて良いのか?」
「は?」
やはり、寝起きとは思えない、はっきりとした声音だ。いつから起きていたのだろう、いつから私を私と認識して触れていたのか。
ノースディンの手が頬を包みしっかりと視線が合う。その指が、今は人と異なる長く尖った耳を撫でた。
顔が近付くのが分かるが、避けることも出来ずにいると柔らかに耳を齧られて悲鳴じみた声が漏れた。
「クラージィ、私の可愛い子」
名前を呼ばれてしまえば、ノースディンが誰かと間違っているのではなく、正しく認識しているの認めざるを得ず、逃げ道が塞がれる。
「ノースディン、なんで」
こんな真似をするんだ、いくらなんでも戯れが過ぎるのではないか。そう言葉を紡ぎたいのに、ノースディンの親指の腹が下唇をなぞってきて言葉に出来ない。
「ここに口付けられたことはあるか?」
問いにぎこちなく頭を振ると、ノースディンが瞳をすぅと細めた。見たことのない表情に背筋が震え、ベッドの中で後退りするが、すぐさま腰を抱き寄せられ距離を詰められる。
「っんぐ」
口唇と口唇が触れ合い、離れたかと思えば間髪をおかずに何度も口付けられる。苦しくて、ノースディンから逃れようと手を彼の肩に置き押しやると、ほんの数センチの距離を開けて離れた。
息を整えながら、何故ノースディンがこんなことをしたのかを考える。
彼は魅了の使い手だが、私相手に試みる必要などない。だから、これは彼の意思というよりも浅ましい感情を見透かされたのだと思い至る。
「ノースディン、こんな……こんな施しのような真似は止めてくれ」
「なにを言ってるんだ?」
整った顔が虚を突かれたように目を見開くと、案外と幼い印象になる。ノースディンの腕に力が入っていないうちに、身を起こしてその顔を見下ろした。未だに腰回りに腕が回っていて、その腕を外そうとするが、力が籠っていてなかなか外れない。
仕方なく諦めて、彼の手の甲に手の平を重ねた。
「だから、このような……。君の望みではないだろう。私に慈悲をかけてくれたのだろうが、そういうものは、両者の思いが重なって初めて行うものだと思う」
「なるほど」
「ノースディン?」
少しだけ室温が下がり、じっとその赤い瞳に見つめられ、動けない。見下ろしているのはこちらなのに、威圧感とでもいうのか怯んでしまう。
覚えたての日本語で『蛇に睨まれた蛙』という言葉が脳裏を過った。
「そうか、なるほど。お前は覚えが良いが、こういった物事に鈍いのだったな」
「えっ」
どさり、と簡単にベッドに引き戻され、身を乗り上げられ抜け出せないように体重をかけられる。
見上げれば、ノースディンは笑っていた。だが、その瞳はいつもの慈愛に満ちたものではなく、獲物を狙うような酷薄さが見て取れた。
「私の可愛い子。言葉にしないと分からないというのなら、何度でも言うし、何度でもその身に刻んでやろう」
ノースディンの鋭い牙が覗き、引き攣った声が出る。
その後の記憶はところどころぼやけているが、ノースディンの言葉の通り、何度も私にも分かるようにその思いを心身に刻まれた。
次に目覚めた時は茹だるような頭でも、ノースディンの機嫌は戻り、むしろ良いことが分かった。
機嫌よく私の世話をするノースディンに、私は気まずい思いをしながら、ままならぬ体でただただそれを受け入れることしか出来なかった。