【よだつか】夜鷹純の困惑 夜鷹純は、非常に困惑していた。
中学生の明浦路司を見つけたら、表向きのコーチとしての役割はすべて高峰先生に押し付けて、光相手にしていたように、たまに僕が見本を見せてやればいい、と漠然と考えていた。
そもそも、僕は他人や血が繋がった家族でさえも、誰かが近い距離にいるのは苦手だった。だから、いつでも関係を切れるように、線を引いて距離を置いていた。
唯一、友人と言えるのは同期だった慎一郎くらいだ。
なのに、司とは既に深く関わってしまっている。
司の話を聞こうともしない親の元から誘拐同然に攫った時から、僕はきっとおかしかった。
駅弁の肉を差し出されて食べたのも、髪に触れるのを許したのも。
会ったばかりの男を前にしてバスタオル一枚で無防備に跨ってくる彼に、嫉妬に似た苛立ちが渦巻く。
温風と共に優しく髪を梳かれて、目の前の身体を抱き寄せたくなった衝動に激しく困惑し、苛立ちどころではなくなった。ほんのりと上気した風呂上がりの瑞々しい肌に腕を回して、頬を擦り寄せたいと思うなんて。
ゆるゆると髪に指を通されるのが心地良い。様々な気持ちを吹き荒れさせた時間は、カチリとドライヤーのスイッチが切れる音と共に終わった。
中学生を相手に、何を。今日の僕は本当におかしい。高峰先生との約束もあるし、さっさと寝てしまおう。
ベッドに入って照明を落として、深夜の予定を伝える。それだけのはずだったのに、司に『大好き』だと言われて、心が踊った。彼がフィギュアスケートを志したのは、僕の演技を見たからなのだと初めて知って、彼の人生を他の誰でもない僕が変えたことに悦びを覚えた。
そんなに僕が好きだったのなら、巻き戻る前に出会った時にももう少しくらい、違う態度でも良かっただろうに。いや、僕は何を考えているんだ。これはもう早く眠るしかない。
僕は目を閉じればすぐに眠れる自信がある。だけど、あまり夢見は良くなくて、いつも深く眠れた気がしなかった。フィギュアスケート選手を引退してからは特に酷くて、あまり眠らない不規則な生活をしていた。
それなのに、今夜は温かくて幸せな夢を見ていたような気がする。温かいものを放さないように抱き締めると、ふんわりと温かさが増し、安心して心が満たされる。
ピピピピ、と目覚ましの電子音が鳴って目が覚めた。
寝起きは良い方だ。起きてすぐに動けなくては話にならない。
しかし、目に入った光景に理解が追い付かず、状況を把握するのにしばらくの時間を要した。
僕の腕に抱かれ脚を絡められて気まずそうにしている司と間近で目が合う。
「…………」
何もしていないとは思うけれど、僕の方から抱きついている時点で言い逃れはできない。
僕は何も言えずに起き上がり、その辺に脱ぎ捨てていた服を着始めた。
思考は混乱し続けていても、手早い身支度には慣れている。リラックスして深く眠れたせいか、いつもより身体が軽くてすっきりしている。
「着替えた? 行くよ」
どうしてあんなことになったのか自分でもわからなくて、僕は何事もなかった振りをするしかなかった。
深夜のスケートリンクで高峰先生に司の才能を認めさせることはできた。しかし、司を高峰先生宅で預かってもらうのは断られてしまった。
新幹線での移動中に、僕の引越し先の手配は依頼済だ。名古屋の家は引き払って、必要なものだけ送ってもらうことになっている。
ここのスケートリンクに近いマンションを選んだから、二人で住むには手狭だろう。寝室も一つしかないし。でも、毎晩一緒に寝れば、またさっきのように心地よく眠れるだろうか。その誘惑に抗えず、僕は部屋が狭いのを言い訳にすることにした。
翌朝、すぐに買えるスケートシューズの中では一番上級者向けのものを買い与えた。司ならすぐにジャンプを飛ぶようになるだろうから、これで慣れておいた方がいい。
司に『コーチ』と呼ばれるのは慣れないが、『先生』と呼ばれるのはもっとダメな気がした。彼はまだ僕より背が低くて、純粋に慕ってくれているとわかるきらきらした眼差しで見上げてくるから、尚更困惑する。
買ったスケート用具はホテルに届けるように依頼し、司を連れて服を買いにいった。司が今着ている服や靴はかろうじて破れていないというような有様で、彼には似合わない。
素材はいいのだから、きちんと磨けば誰もが振り向くようになる。彼はもっと自分の魅力を自覚するべきなんだ。
ホテルに戻って届いていたスケートシューズを履かせ、フィッティングに問題がないか確かめてやっていたら、上からぽたぽたと雫が降ってきた。
「……また泣いているの」
司の大きな目が涙に濡れて潤んでいる。スケートシューズがそんなに嬉しかったんだろうか。その顔を直視していられなくて、肩口に抱き寄せる。
司は高峰先生の前でも泣いていた。そして、『夜鷹さんみたいな選手になりたい』と言ったんだ。
さっき美容室で整えてトリートメントされた明るい色の髪を撫でる。
「えっ、あっ、あの……」
もっとこうして触れていたい。貸し切りの予約が取れなくて、僕が司にスケートを教えるのは一週間も先になってしまった。手放すのが惜しくて、この後の予定を伝えながら赤くなった耳朶を撫でる。
面倒だけれど、住所変更の手続きや、弁護士との打ち合わせ、今後についての根回しがいる。
僕は司をクラブでのレッスンに送り出して、各所に連絡を取った。
司がホテルに戻ってきたのでドアを開けてやると、勢いよく抱きつかれた。
「夜鷹さん! 俺にスケートをやらせてくれて、ありがとうございます 夜鷹さんが選んでくれた靴がすっごく良くて、全然違ってて色々教えてもらえて……」
「……うん」
こんな風に誰かに懐かれた経験がないから、ものすごく困惑する。これは、抱き締め返してもいいのか?
しかし僕の曖昧な返事のせいで、司は僕から慌てて離れてしまった。
「すっ、すみません、急に抱きついたりして」
「……いや、感情表現はオーバーなくらいでいいよ。日本人は恥ずかしがって表現が苦手な人も多いから」
僕の言葉は他人にはあまり上手く伝わらないようだから、これも真意が伝わっているのかわからない。
すぐに抱き返して『良かったね、スケートは楽しかった?』と訊いてやれば良かったのかもしれない。
司が僕に対して遠慮することがないよう、何も問題はなかったと伝えるのに、自分でも必死だなと自覚する。
時間が巻き戻る前の歳を考えるともう四十近くだというのに、中学生を相手にもだもだと考えているのが信じられなくて、混迷が深まった。
レストランでの夕食時に話を振ると、司はそれはそれは嬉しそうに顔を輝かせながら今日のスケートレッスンについて話してくれた。
司が高峰先生のスケーティングをベタ褒めしていて、じりっと嫉妬の気持ちが湧く。高峰先生は、僕がスケーティングの技術を認めている数少ない指導者だ。だからこそ司のスケーティングコーチを任せたのだし、司ならあのスケーティングを完璧に身につけるだろう、と思う。だけど、高峰先生がこれから毎日司の賞賛を一身に受けて、このきらきらした眼差しで見つめられているのかと思うと、平静でいられない。
他にも各分野のコーチを付けようと思っていたけれど、気が変わった。二十三歳の身体は現役時代と遜色なく動くし、十四年の間に蓄えた知識もある。
僕が教えられることは全部、僕が教えよう。
司が高峰先生の娘と滑ってすごく楽しかったと興奮気味に話すのを聞いて静かに苛つきながら、僕は新たな決意を固めていた。
「司は英語は話せるの?」
レストランで食後のコーヒーを飲みながら、話を振る。フィギュアスケートの大会で上位になれば、頻繁に海外遠征することになる。可能ならジュニアの内から海外の大会に慣れておいたほうがいい。空港や滞在先のホテルや大会会場では、最低でも英語が話せないと不便だ。
「えっ、英語……です、か。一応受験勉強はしてたんですが、話すとなると……」
「英語は今後必要になるから、喋れる範囲で自己紹介してみて」
現在どの程度の英語力があるのか、聞いてみないとわからない。
「うう、わかりました。マイネームイズ、ツカサ・アケウラジ。アイワントトゥービー、フィギュアスケートプレーヤー。ええと、アイ、ラヴ、ジュン・ヨダカ……」
「んっ」
飲みかけのコーヒーが喉に詰まる。
「あっ、その、違うんです、変な意味じゃなくて『めちゃくちゃ好き』って英語でラヴですよね めちゃくちゃ好きで憧れてて、目標の選手だって言いたくて」
「うん、……そうだね」
僕は目の下を覆うように片手を当てて半分顔を隠した。触れた頬が熱くなっている。
これは、困惑だけでは済まないかもしれない。