明治〜大正あたりのいいとこのお坊っちゃん月彦✕女中のみちかさん♀ 今日も良い天気だ。
洗いたての白いシーツを物干し竿に掛け、皺を伸ばしていると軽やかな足音が聞こえた。
「みちかさん」
「……若旦那様……」
洗濯を干す、この僅かな時間、この家の一人息子である月彦と会える貴重な時間であった。
すらりとした長身の美男子で、旧制高等学校の制服である詰襟姿がとても凛々しく、みちかは名前を呼ばれるだけでも恥ずかしくて顔を真っ赤にして俯いていた。
毎朝、登校するこの時間にみちかが洗濯を干していることに気付いた月彦は、必ずここを通ってから家を出ているのだ。
「みちかさん、今日も有難う」
にっこりと微笑む笑顔は爽やかな朝の太陽のようで、みちかの顔は益々赤くなる。
「行ってきます」
「行ってらっしゃいませ」
深々とお辞儀をして、みちかは月彦の後ろ姿を見送った。
姿が見えなくなってから、みちかは腰に巻いた白いエプロンで顔を隠す。今日の若旦那様もとても麗しかった、今日一日頑張れる、そう思う十五歳のみちかだった。
この鬼舞辻家は地元ではかなり有名な名家であり、近年は貿易事業で急激に成長していた。だが、この家の主人夫婦は偉ぶったところがなく、気さくで心優しく、歳若い女中には行儀作法から読み書き算盤まで教え、嫁ぎ先も紹介してくれるので人気の就職先だった。
みちかの生家である継国家も、元は武家の名門であったが、明治維新以降、刀のない世の中では食うに困り、みちかがこうして奉公に出ることになったのだ。
武家の娘として躾の行き届いたみちかを主人夫婦は自分たちの娘のように可愛がり、病弱で家に閉じこもりがちだった月彦の話し相手として、身の回りの世話を頼んでいた。
そのこともあり、月彦もみちかを他の女中たちよりも身近な存在として共に成長してきた。
みちかは初めて会った時から月彦に対し淡い恋心を抱いていた。しかし、身分が違い過ぎる、と、その気持ちを隠し、こうして一目会うだけで満たされた気持ちになっていた。
そんなある日のことだった。
「お見合いですか?」
「そうだ。みちかもそろそろ十六歳だろう? 器量も良いし、どこに出しても恥ずかしくない娘さんだからな」
知り合いの息子が嫁探しをしていると聞き、みちかを紹介したそうだ。
「先方も一度会ってみたいと言っていてな。悪い話ではないと思うぞ」
「はい……」
色々聞いていると支度金もかなり用意してもらえるようで、弟の中学校進学の資金になるかもしれない、とみちかは考えた。
だが、胸にいるのは月彦ただひとり。
そんなことを口には出せず、笑顔で「有難うございます」と主人夫婦に礼を言った。
次の休み、主人夫婦が「お見合いで着る服でも買ってきなさい」とお金を渡してくれた。こういった気遣いも含めて、女中たちから慕われている夫婦だったが、みちかは話がどんどん具体的に進んでいるので気が重かった。
「あれ、出掛けるの?」
偶然家にいた月彦と出くわした。
「はい、旦那様と奥様の御厚意で服を買いに行くことになりまして……」
「なら私も一緒に行って良いかな? 気分転換したくて」
「え……?」
「嫁入り前のお嬢さんが男と二人で街を歩くなんて外聞が悪いかな?」
「とんでもないです!!」
ぶんぶんと手を振り、真っ赤な顔を左右に振る。その仕草が愛らしくて月彦は小さく笑った。
「少し待っていて。すぐに支度をしてくるよ」
「はい」
憧れの月彦と一緒に街を歩ける。それだけで嬉しくて舞い上がりそうだった。
鏡で服や髪型を整えていると、白い木綿のシャツにゆったりとしたスラックスにサスペンダー、丸眼鏡と流行りの格好に身を包んだ月彦がやってきた。屋敷内では着物姿、外に出る時は大抵学生服姿なので、とても新鮮であった。
本当は服を買う為の外出であったが、月彦とぶらぶらと街を歩き、初めて喫茶店に入り、コーヒーを飲んだ。その苦さに顔を歪めるみちかを見て優しく微笑む月彦。周りから見れば、自分たちは恋人同士に見えるのかもしれない、とみちかは想像する度に頬を染め、俯いていた。
「あの、若旦那様……」
「月彦でいいよ」
「では月彦さん」
おどおどしながら、みちかは縁談の話があることを月彦に打ち明けた。
「そう、おめでとう」
「でも私は……」
言いそうになり、ぐっと言葉を飲み込んだ。こんなことを言われても月彦はどうすることも出来ないだろう。自分と月彦では身分が違い過ぎる。自分の家柄では妾にしてくれと頼むようなものであり、そんなことをすれば鬼舞辻の主人夫婦や実家の両親も悲しむだろう。
「みちかさん、私はね、来年の春から帝国大学に進学する。寮に入るので家を出ることになっている」
「……おめでとうございます」
月彦もこの屋敷を出るなら、自分の恋は結婚と月彦の門出を機に終わるのだと、涙が出そうになった。
「大学を卒業したら迎えに来るから、待っていてくれないか?」
みちかの小さな手を握り、真剣な表情で見つめてくる。
「家柄や身分、そんなつまらないものに縛られる時代はもう古いよ。これからはお互い愛し合っている者同士が夫婦として寄り添って生きていくのだ」
月彦の言葉を聞きながら、みちかはポロポロと涙を零す。
「時期がくれば私から両親に話すから、みちかさんはもう少し、うちで頑張っていてくれるか?」
「解りました……月彦さん……」
小さく頷いて、二人は手を繋いで屋敷に帰った。
みちかは預かったお金を全額、主人夫婦に返し頭を下げた。
縁談はもう少し待って欲しい、もう少し、この家に置いて欲しい、そう頼むと、主人夫婦は少々困っていたが、みちかの想いを尊重してくれた。
そして、月彦が家を出る前日の夜。
夕食を済ませた月彦がこっそり、みちかに「夜中に部屋に来て」と耳打ちした。
それが何を意味するか、解らないほど、みちかは幼くない。しかし、結婚前に……という戸惑いがあり、迷ってはいたが、入浴を済ませたみちかは足音を忍ばせて月彦の部屋に行った。
「有難う、来てくれて」
「はい……」
ぎゅっと月彦に抱き締められ、心臓が破裂しそうなほど高鳴った。
これから何をされるのか、詳しいことは何も知らないが、月彦に身を任せる覚悟で来たのだ。部屋の灯りを消し、枕元のスタンドライトだけを点ける。みちかの手を取って優しくエスコートし、ベッドに並んで腰掛け、月彦は優しくみちかの手を握る。
「暫く会えなくなるからね、みちかさんの見送りがない朝は寂しいな」
「そんな……」
恥ずかしくて目を見ることすら出来ない。そんな照れた様子のみちかの髪を撫でながら、月彦は優しく語り掛ける。
「毎朝、あの時間にみちかさんが洗濯を干しているって解っていたから、必ずあの時間に家を出るようにしていた。朝、みちかさんに会えるだけで清々しい気持ちになったからね」
「私も……同じ気持ちでした」
潤んだ瞳で月彦を見つめる。
子供の頃から月彦のことが大好きだったと震える声で伝えると、月彦の唇がそっとみちかの柔らかい唇に重なった。
ゆっくりとベッドに寝かされ、月彦の指が優しくみちかの浴衣を脱がせる。肌を見られることが恥ずかしくて顔を背けたが、月彦はベッドサイドのライトを消し、部屋を暗くしてくれた。
月明かりの下、二人は朝まで愛し合った。
「必ず迎えに来るから」
月彦は何度もそう言って、出発の時もみちかに伝えてから家を出て行った。
誰にも言えないが、こうして月彦の手で女になったという嬉しさと恥ずかしさを胸に、みちかはこれまで以上に屋敷の中で一生懸命働いた。
それから月彦は1年もしないうちに屋敷に戻ってきた。
元より体の弱い月彦は慣れない寮生活で体調を崩し、結核を患い、二十歳の若さでこの世を去った。
屋敷中が悲しみに包まれ、皆が涙を流して月彦の無言の帰宅を嘆いた。
「月彦さん……」
美しかった顔がげっそりと痩せ細り、まるで別人のようになっていた。それが月彦だとは思えず、みちかは地面に蹲って大きな声で泣き叫んだ。
自慢の跡継ぎを失い、それから程なくして月彦の母は床に臥せることが多くなり、主人も一気に老け込んだ。
仕事も上手くいっていないようで、鬼舞辻家の台所事情は一気に傾いた。これまでのように羽振り良く女中を雇えなくなり、少し多めに退職金を渡し、女中の数も減らしていった。
最後まで夫婦を支えていたみちかだが、夫婦に頭を下げられ屋敷を出ることになった。
月彦が亡くなって以来、みちかも心を病み、洗濯を干す時にいつも、いるはずのない月彦に挨拶をしていた。
その様子に加え、朝早くに月彦の部屋から出てくるみちかの姿を見た女中がいたので、二人がそういった間柄であったことを夫婦は知ったのだ。
「こんなことなら大学になど行かさず、みちかと夫婦になって、家に残ってくれたら……」
夫婦はみちかの手を握って泣いた。申し訳ないと何度も頭を下げ、泣きながらみちかを見送った。
心を病み、嫁ぎ先も働き先もなくなったみちかは、実家に戻ることも出来ず、退職金と月彦の写真を1枚貰って静かに屋敷を去った。
行き先のないみちかは、先に屋敷を出た女中の紹介でカフェーで住み込みの女給をしたが、客と寝る生活が続き、そのまま吉原へと移った。
とびきりの良い女がいると評判だったが、夜毎違う男に抱かれながら「月彦」という男の名を呼ぶ為、気味悪がられていた。
客が少しずつ離れていってから、みちかがどうなったかは誰も知らない。