しゅわしゅわミントのレモネード 地下鉄の駅からすぐ、とは言えこの暑さだ。屋外へ数歩出ただけでも汗が吹き出す。店に入り、駆け寄ってくるのを「待った、着替えてからな」と制してそそくさと二階へ上がった。ボディシートで汗を拭って髪を整え、少し風を浴びてから下りる。飲食店なのだから清潔感を持たなければいけない。素敵なケーキ屋さんなら、尚更だ。
階下のドアを開けると、クズリはすぐに駆け寄ってきた。
「おきがえ、おわった?」
「ああ、お待たせ――」
すん。
クズリの小さな鼻が上を向いて、ひと嗅ぎ。すん、すん、鼻を鳴らしてきょろきょろ。すぐに匂いの元を見つけ、百之助の脚にぎゅっと抱きつくと更にすんすんと嗅ぐ。
「スース―のにおいがするっ!ひゃく、ミントつんできたの?」
「スース―……ああ、汗拭きシートだよ。着替える時に体拭いたから」
「すー……うふふ、おはながスースーする。わたしもね、おふろあがりにちょぴっとスース―するおけしょうすい、からだにぬるよ。あにさぁにもぬってあげるの!ひゃく、スース―して、さむくない?」
寒くないよと返したらクズリは安心した様子でにっこりした。
「ちょうどぴったりね、きょうからミントをつかうんだよ!」
「ミントのケーキか、さっぱりしてて良さそうだな。どんなケーキなんだ?チョコミントとか?」
「ふふ、ケーキかなぁ?」
そう言って意味深に笑うとクズリはぱっと離れて、「すわってまってて!」を言いきらないうちに奥へ引っ込んでいってしまった。
こういう時は素直に『お客様』になった方が喜んでくれる。百之助は言われるまま手前の椅子へ腰を下ろし――すん、と自分の右手の甲を嗅いだ。メントールの匂いが鼻から目の方へスッと抜けていく。清潔感は大事だけれど匂いが強いのはいただけない、後でしっかり手を洗っておこう。とびきり美味しいケーキの香りを、三十枚三百円ちょっとのメントールで邪魔してなるものか。
キッチンから顔を出したクズリが持っていたのは、涼し気なターコイズブルーの液体で満ち、レモンの輪切りひとつにミントの葉をひとかけ浮かばせたグラスだった。
「おまたせしました、めしあがれ!」
「メロンソーダ……じゃないか、色が綺麗だな」
「ディアボロ・マントだよ!レモネード……たんさんのほうね、しゅわしゅわのレモネードにミントシロップをまぜたの」
「へぇ、レモネードにミントか。夏にぴったりだな」
クズリはにこにこして「のんでみて」とせがむ。仰せの通り、ストローを咥えてひと口。
ミントの香りは喉から腹に落ちず鼻から眉間の方に抜けていき、暑さに火照り頭から沸き立つ湯気を冷ましていく。レモネードの甘酸っぱさは涼やかに喉を滑り落ち、しゅわしゅわ柔らかい炭酸が籠る熱を掴まえて、一緒に弾けて消えた。
「おいしい?」
「うん、美味しい。甘いけど酸っぱくて爽やかで、今日みたいに暑い日だと最高に美味いよ」
「ね!ミントもいいにおいでしょ?ひゃく、ミントシロップってみたことある?あとでビンみせてあげる、すごーくみどりいろなの。でもね、レモネードにまぜるとすっごくきれいでしょ?それをね、」
背伸びしてテーブルを覗き込むようにしていたクズリは、中庭の方の窓辺へトテトテ走った。「こっちにもってきて!」手招きされるまま、百之助はグラスを手にクズリの方へ歩いていく。メントール香る手にグラスは一入ひんやりした。
「コップ、おひさまにあててみて」
「――あ、そういうことか」
見たい景色を理解した百之助はクズリの隣にしゃがんだ。そして窓から零れる夏の陽射しにグラスをかざすと、ターコイズブルーは透き通って輝き、陽の光は炭酸の泡に絡まって揺れる。しばし見惚れた後、一人と一匹は顔を見合わせて笑った。
「うみみたいで、きれいでしょ!」
「ああ、南の国の海みたいだな」
「おうちでもね、こうやっておひさまにあててみてるの。きらきら〜、ゆらゆら〜……レモンあじでしゅわしゅわしてスースーする、おいしいうみがあったらいいのになーって」
クズリは波に揺れるように小さな体を揺蕩わせる。グラスに満ちたターコイズブルーは光になって丸い顔にさし、クズリはまさにミントの海の中でにこにこしているように見えた。
「学校のプールで潜った時の景色、こんな感じだったな。青っぽい色の中に陽の光が帯みたいでさ、真っすぐさして、ゆらゆら揺れて」
「ひゃく、もぐれる?」
頷くとクズリは不意にもじもじして「わたし、じょうずにもぐれないの」と小さな声で零した。抱き上げた時の柔らかくて小さな体を思い出せば、潜る動きが難しいだろうことは想像し易い。「練習したら出来るさ」と返して頭を撫でるとクズリは嬉しそうにはにかむ。
「じゃあさ、ひゃく、いっしょにプールいこ!わたしにもぐりかたおしえて!」
「プール?いや、俺より平之丞さんの方が教えるの上手なんじゃないか?」
「あにさぁはじょうずよ、およげるしもぐれる……けど、わたし、ひゃくとプールいきたいよう。ひゃくといったら、ぜったいもっとたのしいよ!わたし、おともだちとプールいくのはじめて!」
百之助はいつも通り、平之丞に相談してからと返してお茶を濁した。無邪気な期待を無碍にできず、窘められて悲しい顔させる責任から逃げ、毎回平之丞に任せてしまう。
でも、プール――ヴァシリが来るのは毎年冬の頃で水遊びの時期ではないし、勇作から杉元たちと遊ぶのに誘われたこともあったけれど断った。プールへ、『お友達』と行くのは何年ぶりだろう。久しぶりでいきなり巨大ウォータースライダーに挑戦するよりかは、潜る練習用の、それもフォーゼ用のプールくらいが丁度いいような気がした。
ふと焼き菓子の棚にあったあるものに気がついて、百之助は立ち上がりそれをひとつ。すぐ振り向いて、きょとんとしているクズリに見せた。
「海にぴったりのやつがあった」
「……マドレーヌ!」
クズリは手を叩いて喜び、そしてぱぁっと目を輝かせた。
「そしたらさ、かいがらみたいにしろいマドレーヌのほうがいいよね?あじもディアボロ・マントにあうみたいにして、ええと……うぅん、つくってくっ!」
「あ、おいシェフ――」
メニューに付け足された『みなみのうみセット』のことを尋ねると、ヴァンドゥールは控えめに笑った。
「ミントレモネードの飲み物、ディアボロ・マントに、ホワイトチョコレートがけしたオレンジ風味のマドレーヌを添えたセットです。お席にお待ちすれば、何故このメニュー名か、お分かり頂けると思いますよ」