はじまりの話よりも前の話(雑渡編) だいたいがあの土井半助という男は、雑渡に冷たいのだ。
尊奈門に冷たいのは仕方がない。土井の都合はお構いなしで、あれだけ押し掛けて付き纏っていれば、対応が雑にもなる。
だが、雑渡は彼に何かした事はない。むしろ、ほとんど接触がない。
最初は気にしていなかった。雑渡の組頭という立場と、忍術学園の教師という立場なら、警戒して然るべきだろうとさえ思っていた。
幾度も忍術学園との縁ができるうちに、おや、と雑渡は気付いた。
部下たちが、土井とそれなりに仲良くやっている事に。
誰とでもという訳ではないが、タソガレドキ忍者というだけで毛嫌いはしていない。尊奈門をよく迎えに行く山本や高坂は割と頻繁に会うせいか、よく話をしている。彼らとの会話では、笑うことさえしていた。
彼らに気付かれないよう、こっそりとそれを眺めながら、雑渡は首を傾げる。
部下たちに尋ねてみたりもした。
高坂は困った顔をして、自信なさげに答えた。
「それは……やはり、組頭というお立場のせいなのではないかと」
山本の答えは簡潔だった。
「組頭が生徒にちょっかいを掛けているせいでは?」
なるほど。納得できない事もない。
つまりは、雑渡だけが特に警戒されている訳だ。
仕方ないと言えない事もない。立場的に、そのくらいの自覚はある。実際、隙があれば突く気ではいるのだから。
だから雑渡は、土井に関する疑問を持たない事にした。
納得し切れた訳ではない。が、何となくではあるが、予感がしたのだ。
彼には、あまり近付かない方が良いと。
雑渡は素直にその勘に従う事にして、土井の事を気にするのをやめた。
忍術学園にいれば、否応なしに関わりは生まれてしまう。
特に雑渡がよく行く保健室は、土井もよく来る。元気な一年生の保健委員によれば、胃薬をもらいに来ているとの事だ。
「なかなか治らないから心配です」
と、原因の一端である教え子が言うのだから、教師というのは大変だと若干の同情を覚える。
その日、保健委員が全員集まった保健室で、雑渡は彼らの話を聞いていた。聞いているだけで情報収集になる。本当に大事な話は伊作がやんわり止めるが、生徒たちの雑談だけでも、情報としては充分だ。
わいわいと賑やかな保健室から、各々の用事で委員が一人減り二人減り、最終的には雑渡と伊作の二人だけになった。
「私もそろそろ実習があるので出なければいけないんです」
と言われれば、もうここにいる理由もない。では帰るとするかと立ち上がりかけた雑渡は、向こうから誰かが来る気配を感じた。伊作はまだ気付いていない。教師だ。
そこまで思った時、伊作が「そうだ」と言った。
「もしかしたら、土井先生が来られるかもしれません」
こちらに向かう気配が止まり、薄くなる。雑渡がいるのを察したのだろう。
「土井先生か……」
「? 土井先生が何か?」
伊作は、不思議そうに尋ねる。
土井から警戒されている事を、わざわざ言う必要もない。といって、避けられてるだの嫌われてるだの言う気もない。生徒たちは土井先生の事が大好きで、それは伊作も変わらないからだ。
だから、ふと思いついた返答をした。
「土井先生を見ていると、昔いた犬を思い出すんだよね」
「え……犬、ですか?」
伊作はどう返答したものか、戸惑ったようだ。悪い意味ではないと言うように、笑いかける。
「昔、似ているのがいてね」
雑渡は笑いを含む声で言った。
気配が遠ざかる。別に入ってきてもらっても構わないが、自分の噂話をしている現場には入りにくかったか。
雑渡の言葉は、嘘ではなかった。実際に、古い記憶が呼び起こされのだ。
似ているとは言ったが、雑渡はその犬の外見について思い出せない。もう何十年も前の話だからだ。
雑渡が幼い頃、忍犬として躾けられていた何頭もいる犬のうちの一匹だった。
顔どころか、どんな毛色をしていたか、どんな大きさだったのかさえ、まるで覚えていない。
その犬は、雑渡の事が好きではなかった。
唸ったり噛み付いたりした訳ではない。ただ、決して触らせてくれなかった。
大人に頼めば押さえるなり何なりして手伝ってくれただろうが、幼い雑渡は意地になって、一人でその犬を追いかけ回していた。
犬は、いつの間にかいなくなった。どこか別の所へやられたのか、死んだのか。それとも雑渡が先に興味をなくして、意識の外へ行っただけなのか。それさえ、もう覚えていない。
ただ、一度たりとも撫でさせてもらえなかった記憶だけが残った。いや、残ってさえいなかった。今、たまたま浮かび上がって来ただけだ。
あの器用にするすると逃げる犬と、雑渡の視界から消えようとする土井が、重なった。
それだけだ。
「では、私は失礼しようかな」
そう雑渡が立ち上がり、伊作が別れの挨拶をしようとした時。
保健室に爆発音が響いた。
「何事だ!?」
すぐさま飛び込んで来たのは、土井だった。音を聞いて、引き返して来たのだろう。
「こんにちは、土井先生」
「あ、はい、こんにちは……じゃなくて! 何があったんです!」
保健室内は酷い有様だった。包帯や軽い道具は悉くが床に転がっているし、火薬の匂いもする。
「ど、土井先生〜」
雑渡の下から、伊作が姿を現す。見た所、怪我はないようだ。
「外から急に焙烙火矢が飛んで来て、軽く爆発して、棚が崩れてきて、雑渡さんが庇ってくれたんです」
伊作がすらすらと説明する様子に、慣れを感じる。「そうか」と普通に受け入れる土井にも。
「二人とも、怪我は?」
「ありません」
「同じく」
伊作と雑渡が答えると、土井はふぅと息を吐く。
「なら良かった」
安堵したように呟き、固い表情を少し崩した。
「本当に。このくらいで済んで良かったです」
「ああ。まったく、誰が投げたんだか。見つけて、新野先生の所に謝罪に行かせないとな」
「まずは片付けますね」
「そうだな」
まるで日常通りの会話に、これが保健委員の日常なのか学園の日常なのか、部外者の雑渡は若干遠いものを感じた。
「ところで、伊作くんはそろそろ実習だったのでは?」
「あ」
雑渡の言葉に、土井が伊作を見る。
「なら善法寺は行きなさい。報告と片付けは、私がしておくから」
「そんな。私も片付けます」
「組ごとの実習だろう。おまえが遅れたら、食満にも影響が出るぞ」
「留三郎なら大丈夫です!」
「こらこら」
土井は苦笑しつつ、伊作を「いいから行け」と促す。伊作は未練ありげにしつつも、土井と、それから雑渡に礼と詫びを言って、去っていく。
残ったのは、雑渡と土井の二人だけだ。
「片付けを手伝いましょうか」
「いえ。たいして手間はかかりませんので、お気遣いなく」
目の前で会話をすると、土井は不自然に逃げたりはしない。ただ、会話を切り上げるのは早い。
雑渡を激しく嫌っている訳でもないが、好意的でもない距離。弁えた事だ。
雑渡もそこで粘りはせず、あっさりと引いた。
「では、失礼」
そのまま、出て行こうとした時。
「あの」
土井に呼び止められて、少し驚いて振り返る。土井から引き止められたのは、初めてかもしれない。
「礼が遅れました。雑渡さん、伊作を庇って下さって、ありがとうございました」
そのまま、土井は頭を下げる。その律儀さに感心すると同時に、雑渡の頭に、何故だか、このタイミングで、悪戯心が生まれた。
今なら、触れるな。
ほんの思いつきで、土井の下げた頭に手を伸ばす。簡単に触れたのに気を良くして、更に頭巾の上から、わしわしと、犬にするように撫でた。
やり終わる前に、しまったなと思った。
「なっ……何をするんですか!!」
土井は雑渡の手を振り払って、顔を上げる。怒らせた。仕方ない。今のは自分が悪い。
「申し訳ない、つい」
「ついって何ですか! 私は犬ではありません!」
さっきの伊作との話も、しっかりと耳に届いていたようだ。
幸いな事に、すぐに土井の文句は収まった。
「大声出して、何事ですか」
山田が顔を出してくれたからだ。
「や、山田先生……いえ、何でもありません」
土井はすぐにそちらに意識を向けた。
土井もいい大人だ。目の前の男に頭を撫でられました、とは言い難いだろう。
「私が不作法をしましてね。申し訳ない」
土井は不満そうな顔をしたが、山田に理由は知られたくないようで、
「いえ。こちらこそ声を荒げて申し訳ありません」
と、これまた律儀に頭を下げる。山田は二人を見比べはしたが、追求しては来なかった。
「それで、この保健室の状況は何ですかな」
「ああ、これなんですけどね……」
そのまま土井による状況の説明が始まり、雑渡が補足する。犯人探しに多少の興味はあったが、首を突っ込む事でもないから、説明が終わると雑渡は今度こそ帰路についた。
一人になった雑渡は、帰りの道々で、さっきの記憶を反芻する。
主に、土井半助の事を。
雑渡に触れられた土井は、驚いていた。
あの時、やってしまったなという考えと同時に、驚いた後の反応は何になるか、と興味が湧いた。
気分を害しつつ我慢するか、流すか、ストレートに怒り出すか、笑って場を誤魔化すか。
観察する雑渡の前に現れた結論は、怒りだった。
ただ、その前。
怒りが現れる前の、俯いた顔が上がった、そのほんの刹那。
彼は純粋に驚いて、形容したがたい表情をしていた。信じられない、という様子で。
嫌悪の色ではない。
落ち着かない、ぎこちない、恥ずかしい。
強いて言うのならば、そんな言葉が浮かぶ。
それは、本当に一瞬だけ浮かんで、すぐに消えた。見間違いかと思うほど、本当に束の間だった。
それから、彼は怒り始めた。雑渡の目には、怒る事を決めたから怒った、という風に見えた。
さて、あれば何だろう。
雑渡の経験から照らせば、あれは、好意を持った相手への反応だった。
つまりは、彼は自分に気があるのか?
「ふむ」
断言はできないが、可能性はある。好意を寄せられるという、それ自体は、雑渡にとって珍しい事ではない。
珍しいのは、それを察した己の心が、ふわりと少し浮き立つ感覚を覚えた事だ。
随分前から忘れていた感情。こんな事は、久方ぶりだ。
一度そうかと思ってみれば、何もかもの辻褄が合う。
雑渡だけが妙に避けられている事も、いつだって事務的な対応も、自分からは一歩たりとも近付いて来ない事も。
あれが好意の裏返しだとしたら、何とも可愛いものだ。
悪い気はしない。素直にそう思う。
が、雑渡はそれで浮かれるほど能天気ではなかった。
そもそも、人は望む結論があると、それを補強する情報に飛びつきやすい。あの一瞬の情報だけでは、結論を出すには弱い。
であるならば、もっと深く知る必要がある。土井半助という男を。
それからも雑渡は忍術学園を訪れた。
前回の件で、不運に巻き込んでしまったと伊作からは丁寧に詫びられた。それを見ていた下級生たちは、また何かあったんですかーという程度で、驚きもしない。
詳細を話して聞かされれば、「それくらいで済んで良かったですね!」と逆に伊作を慰める。
君たち大丈夫か、と少し思いつつも、まあそれも保健委員らしい。
特に土井の事を聞いたりはしなかった。こちらから言わなくても、それなりに土井の名前は出る。
特に乱太郎がいると、ああ言われたこう言われた何をしていた、と色々話してくれる。
なるほど、こうやって無意識に聞いていたから、接触が少ない割に彼の事を知っているのかと、今更のように気付く。
肝心の土井は、相変わらずだった。まず、会わない。たまたま顔を合わせても、会釈してすれ違う。警戒心は感じるが、それ以外は何もない。
なるほど良い忍者だ。
雑渡に尻尾を掴ませない。やはりあの犬が浮かんで、一人笑う。
何度目かの訪問は、殿からの書状を学園長へ届けるお使いだった。
夜更けに学園長の元を訪れる時は、どこにも寄り道はしない。真っ直ぐに向かう。学園に着いた時点で仕事はほとんど終わったようなものであるが、何しろ忍術学園は、いつ何が起こってもおかしくない場所だ。重要な用件であるほど、真っ先に行わねばならない。
学園長は普段と変わらぬ態度で雑渡を迎え、書状を受け取る。返答が必要とは聞いていないから、雑渡の忍務として残るのは、帰る事だけになった。
「ところで、最近学園によく来ているようじゃの?」
世間話のように、切り出された。
「はい」
雑渡は素直に肯定する。隠しても仕方がない。余人ならばいざ知らず、相手は大川平次渦正だ。
「ま、来るのは良いのだが、少し道筋が変わったように見えてな。何ぞ、気になる事でもあるのかのぉ?」
さすが、鋭い事だ。
「……少し、確認したい事がございまして」
「ほう。何を、と聞くのは野暮かの」
このまま追及が始まれば、隠し切るのは困難かと思ったが、そうはならなかった。
「ま、よいわ。ご苦労であった」
「はっ」
頭を下げた雑渡が下がろうとした時。
「誰に用事があるのかは知らぬが、山田先生は出張中じゃよ」
一瞬動きを止めた雑渡は、何と答えたものか束の間悩んで、
「……失礼致します」
それだけを言い残し、今度こそ姿を消した。
学園長の気配がなくなる所まで来ると、雑渡はようやく立ち止まる。
廊下に人気はなく、ただ虫の声と鳥の声だけが聞こえる。そこでようやく、一息つけた。
最後に、随分な衝撃を与えてくれたものだ。どこまで分かっているのかと疑問だが、恐らくは、すべて掴まれていると考えた方がいいだろう。
油断も隙もない。
が。
止められなかったという事は、雑渡を強く止める気はないという事だ。今の所は。
このまま帰ってもいい。土井の気持ちの確認は、急ぎの件ではない。
けれど、そうしたら、雑渡は落ち着かない日を過ごす事になる。彼の心が自分に向いているのかどうか、雑渡はすぐにでも知りたかった。
初めて土井に触れたあの日に感じた軽い高揚感は、今では胸の奥で焦燥感となっている。土井の心を深読みして、姿を目で追っているうちに、雑渡の心にも火が灯りつつあった。
まさに藪蛇であったが、納得もしていた。
近付かない方がいいという直感は、こういう事だったかと。
「ふむ……夜襲をかけてみるか」
取りようによっては物騒極まりない言葉を、布の中で呟く。空を見上げれば、都合よく月のない夜だ。
そう思ってから、雑渡は胸の内で笑った。
月明かりがあろうとなかろうと、関係ない。火の灯った部屋にいる人物の元へ、正面から飛び込むというのに。
そっと、教員長屋の方へ足を向ける。
土井の反応が期待通りであるかどうか。おそらくだが、目算が外れることは無いだろう。
が、もしも。
何もかも雑渡の見当違いで、土井の心がこちらに向いていないとしたら。
それならば、それでも良い。
その時は、こちらを向かせればいいだけの事だ。
それくらいはさせてもらう。雑渡の心を振り向かせたのは、土井なのだから。
土井と、それから普段は山田もいるはずの一室まで辿り着く。
中の気配は、一人だった。山田が不在なのは分かっていたが、他の誰かがいる可能性はあったから、ひとまず安心する。
ここに着くまで、何の邪魔もなかった。幸先は悪くない。
雑渡は、声をかける事なく戸を開けた。
夜襲なのだから当然だ。
土井はあまりにも堂々とした侵入者に、声を失っていた。このまま押せそうだ、と踏んだ雑渡は微笑む。
「やあ。こんばんは」
夜襲に来たよ、と胸の内で呟きながら、雑渡は土井に向かって最初の一歩を踏み出した。