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「からかいに来たのかい」
てっきり寝込んでいると思っていたティアは開口一番、可愛げの無いことを言った。
顔の下半分まで布団に潜り込んでおり、その視線は扉の前に立つ己に向けてじとりと向けられている。
「そんなつもりはないけどさ……まさかここまでお坊ちゃんだとは思わなかったんだよ」
「……グレミオは?」
「お喋り相手なら良いですよ、だってさ」
「ふうん……」
「折角ここまで来たんだし、お前が寝るまでは傍にいるよ」
「いやだと言ったら?」
「帰る」
「だろうなあ」
即答したテッドに、ティアは先程までの声色を抑えて笑った。
ただでさえ病人がいる場というのは苦手だというのに、好き好んで滞在なんてしたいと思わない。帰ってくれと言われたら、大手を振ってこの屋敷を飛び出していける。
しかしそれをしないのは、ティアが望んでいないから──そう、言い聞かせる。
近くにある机に備え付けられた椅子を手にテッドが近付いていくと、ようやく観念したのか、それとも安心できたのか、ティアは布団を捲り上げベッドに腰掛けた。
皆過保護なんだよ、と頬を搔きながら。
テッドが孤児に扮して各地を転々としていた頃に、運が良いのか悪いのか、五将軍の一人であるテオ・マクドールに発見され、年が近いだろうからとおそらく善意で将軍の嫡男と知り合いになった。
最初に出会ったティアの印象は、良い家庭環境で育った子供なんだろう、だった。名目上孤児であるテッドを前にしても蔑むことも怖じ気づく事もなく、子供特有の純真さを残した面持ち。疑うこともなく手を差し出されたのは久方ぶりの出来事だった。
一つ問題があったとすれば、差し出されたのが右手だったことだ。形だけで紋章が発動することはないと知りながらも、こちらの手に触れさせるのは抵抗がある。躊躇っているのをどう解釈されたのか、結局テッドは自ら握手をすることはなく、ティアの両手によって無理矢理握り締められることとなった。
ただの挨拶だと思っていた顔合わせだったが、テオがテッドをしばらくこの町に住まわせると決めてからというもの、ティアと会う日が次第に増えていった。ティアも年近い子供が珍しいのか、よく懐いた。
貴族の子という肩書き通り、勉学や長棍の修行を日々こなしながらも、空いた時間を作ってはテッドの様子を見にやって来た。美味い菓子や料理を持ってくることもあった。健気な奴だと思う。そうまでされて、悪い気持ちになる人間はいない。邪険にする必要すらなく、ティアの献身を甘んじて受けたし、ティアに対して相応の交流をしてきた。
ただ、それは決して、仲が良いからではない。必要だから、こうして傍にいる。
何十年、何百年経過しても見た目の変わらない不老の身では、真っ当な方法で路銀を稼ぐのも限界がある。獣の捕り方、食べられる野草の知識、生きるために必要な技術は嫌でも身についた。それと同じだ。テッドにとって大人の庇護を受けることは、生きるために必要なものだった。
ティアと仲良くしているのは、ティアの父親の保護下に置かれるための手段だった。そのはずだった。
ティアは帝国どころかこの町からもほとんど出たことがないという。幼い頃に何かがあったらしいが、あまり詳しくは教えてくれなかった。何か理由があって、過保護にされているのだろうことは察したが、踏み込まれたくない事があるのはお互い様だ。特にそのことに触れる必要もない。
理由は定かではないが、そのような生活を送っているからかティアは国外の話を聞きたがった。旅路の思い出を話してほしいとせがまれた。その、先週の話題の一つに、露店があった。
グレッグミンスターは赤月帝国の首都である。周辺の集落よりも遙かに整備された美しい石畳は帝国の繁栄を示すかのように煌びやかにすら映る。そんな、景観を重要視している街に雑多な露店など出ているはずもない。たとえあったとしても、ティアの環境では利用することはまずなかっただろう。
庶民の台所として機能している露店は、高級品とは縁遠いものの安価で美味い。串に刺して焼いた肉や魚、新鮮な果物を飲み物に加工した甘味、野菜を煮込んだスープ。美味かった記憶を掘り返しながら話していた。特に串を手に直接齧り付く肉の串焼きは特に興味を持ったようだった。
「僕も食べてみたい」
そんなことを言い出すまでに時間はかからなかった。
目を爛々と輝かせたティアに、しまったと思ったが既に遅し。
「グレミオさんの美味い飯食ってんのに」
「グレミオの料理は美味しいよ。でも、それとこれは別」
「俺は確かに美味かったけどさ、お前の口には合わないかもしれないぞ?」
「食べてみないと分からないだろう?」
道理を通すのは一体誰に似たのか。一度決めたら安易に曲げない芯のある性格が、テッドからしてみれば悪い方向へと働いた。
ティアは直ぐさまグレミオに頼みに行った。当然断られるかと思いきや、クレオ達を同行させる事を条件にあっさりと許可が下りてしまった。
後日、近隣の集落へと足を運んだ。露店で買った串焼きを片手に持ちながら市場を歩く。隣を歩くティアも同じように買ったものを手にしているものの、慣れていないためか食べようとする素振りすらなかった。
テッドが一口齧り付くと、真似をしてティアも肉へと歯を立てたが、その先をどうするべきか分からないのかじっとこちらを見詰めてくる様に、テッドは思わず噴き出した。
ティアはむっとした様子で、しかし笑われたことよりも食べ歩きが上手くいかない事への不満の方が勝るのか、今度は大きく口を開けるとそのまま肉を齧り取った。口に入りきらなかった分がぽろりと地面に落ちるのと、串焼きを地面に落とすことを防ぐように慌てて両手で支えたのは同時だった。まるで餌を頬袋に詰め込んだ小動物だ。笑いが収まらないテッドに、恨めしそうな顔をしたティアが肘で小突いてきた。
空腹を満たすための行為が、これほど楽しいとは思わなかった。露店では肉と野菜を煮込んだスープだけしか買わなかったが、それでもティアは満足そうにしていた。
だからかもしれない。テッドは油断していた。
普段からグレミオの手の込んだ料理を味わっているティアは舌が肥えているだけではなく、新鮮な食材と清水を口にしていたのだと。そもそも食べるものの質が異なっていたことに、考えが及ばなかった。
街で出会ったグレミオからティアが病床に臥していることを聞いたのは、体調が悪くなってから二日後のことだった。
どうやら食事も満足に摂ることができないでいるらしい。ただ、医者曰く命に別状はなく、しばらく安静にしていれば問題ないとのことだった。
ティアの父親は肩書き通り多忙な身で、現在は北方にある国境に配備されており、この屋敷にほとんど帰ることがない。クレオやパーンも護衛として共に暮らしているが、身の回りの世話役はグレミオただ一人しかいない。そのグレミオも、今日は買い出しのため屋敷の外へと出向いている。
そういうときにいつも傍にいる姿がないのは心細いに違いない。ティアは何も語らないだろうが、間違いなく寂しがっているはずだ。息子と仲良くしてやってほしいと言われていた手前、このまま見て見ぬ振りをするわけにもいかないだろう──
テッドは頭の中で言い訳を並べつつ屋敷へと足を運び、今に至る。
寝込んでいるところを見られるのは本意ではなかったのか、ティアはどこか口を尖らせているようにも見える。
「別に横になったままでいいぞ?」
「だから……もう元気なんだってば」
「本当に?」
「本当。……グレミオのやつ、態々テッドに留守番を頼むなんて、過保護すぎるんだ」
「頼まれたわけじゃないけどな。お前が寝込んでるって、たまたま教えてもらったんだよ」
「教えたってことは頼んだのと同義だ」
「文句が言えるくらい回復したってことだな。良かった良かった」
テッドの言葉に、ティアはばつの悪そうな表情で押し黙る。グレミオから聞いていた通り、医者に診せたから既に快復に向かっているのだろう。しかし、それでもまだ万全ではない。その証拠に、テッドが屋敷を訪れた時にもティアはすぐにはベッドから出ては来なかった。
「……テッド、ここにいたってつまらないだろう?釣りに行くと言ってたのに。僕はもう大丈夫だから行ってきなよ」
ティアが顔を背けたように見えたのは、窓から空を覗いたからだった。態々見るまでもない、透き通るくらいの快晴だった。
先程まではあんなにも快活に話していたのが嘘のようだった。いつもは年相応に好奇心旺盛にもかかわらず、変な所で遠慮をする。
「大丈夫だって言うなら、別にいいんだけどさ」
「うん」
「俺は釣りよりも、ここにいたい」
「……いいの?」
「お前こそ」
「しょうがないなぁ」
ぶっきらぼうな言い方とは裏腹に、ティアは顔を綻ばせた。喜んでもらえたこと以上に、テッドは己が口にした言葉に愕然としていた。
ここにいたいなんて、嘘でも言ったことがなかった。
この街はいい街だ。首都であるからかもしれないが、治安もいいし活気もある。食べ物も美味い。ただ、同じように居心地の良い街はこの世界にいくらでもあった。食料調達に手間がかかることの面倒さはあっても、その土地を離れることに躊躇いはなかった。己がいることで平和な地に争いが生じてしまうくらいなら、立ち去ることに迷いはない。なのに何故、ここにいたいと強く願ってしまうのか。
──そんなこと、分かりきっている。
「なあ、ティア……お前さ、五年後も十年後も俺とこうやって話をしたいと思うか?」
唐突な問いに呆気にとられた様子だったが、しばしの間の後ティアはしっかりと頷いた。
当たり前じゃないか、とティアは力強く断言した。それはきっと心の底からの言葉なのだろう。それならば、と続けて問いかける。
「じゃあ、俺と一緒にいたい?」
「もちろん」
照れ臭そうにしつつも迷う様子は無く、真っ直ぐな瞳がテッドを射抜く。
その答えを聞いて、テッドは体の芯から熱くなる心地がした。
五年後や十年後も変わらずに一緒にいられる保証はどこにもない。真の紋章を宿していることを、時の流れに置いて行かれることをティアに伝えたら、どのような反応をされるだろう。驚くだろうか。悲しまれるかもしれない。それでも、見限られることはないだろうと、根拠のない自信が湧いてくる。
今後、離れ離れになってしまっても、このときのこの会話は、この先の長い長い人生を生きる糧になるだろう。
「よし。それじゃあ、その五年や十年分の思い出を今のうちにたくさん作っておかなくちゃな。元気になったら……狩りの仕方、教えてやるよ!」
「うん!」
テッドが手を差し出すとティアも迷わずそこに自身の手を重ね合わせる。そのまま強く握り締めた手は長棍を握る武人特有の硬さがあったが、悲しいくらいに温かく、酷く心地が良かった。