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    hirata_cya

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    hirata_cya

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    K2/二次創作/譲テツ/死に水師弟/寛解時空/全年齢
    A5/二段組/66P/500円

    「とっくに、オレのじゃねえってのに、なあ」

    11/4:本編書きあがりました。サンプルと言いつつ本編全部公開します。本にはこれに加えて譲視点のおまけがちょっとつく予定。

    #譲テツ

    アイラブユー・アイノウ 一生の不覚だ。
     これを思うのも幾度目になるのか。
     某国で無痛兵士の実験をしていたがKの介入で政府が心変わりをし檻にブチこまれたとき、筋肉ダルマからボコボコにされた挙句埋められかけたとき、とある独裁国家で下手を打ち捕まったとき、ドイツでペスト菌を研究している怪しげな施設に入り込んだはいいがバレて取っ捕まり暴れすぎて壁に拘束されて施設ごと爆破されかけたとき。
     指折り数えていくと思ったより多くて厭になる。まったく波乱万丈の人生ですねえと呆れる顔が、脳裏に浮かんで消えた。
     建物と言えば民家しかない、田舎の細道。これが五〇年から前であったなら、舗装されていない土の道で、そこらじゅうが水たまりだらけだっただろう。
     今は流石にどんな田舎であっても道路舗装率は高く、ブーツとコートの裾を揃って泥塗れにすることはない。
     視線の先にはちっぽけな猫。
     黒の多い三毛で、三毛猫ということは雌だ。
     概ね黒い額に、ひらがなの「て」と読める具合で赤い毛が生えている。
     どら猫の口にはお魚、ならぬ魚の形をした赤い革製のキーケースがしっかりと咥えられている。
     こいつとの追いかけっこは既に一〇分近くに及ぶ。それも傘もなしに雨に打たれながらだ。
     何が楽しくてこんなことをしているのか、それは猫に聞いてみないと分からないし、此方は猫語を解さない。
    「よォしいい子だ、それを寄越しな」
     キーケースへ向けてそっと指を伸ばす。
     猫は油断なく目を眇めて全身を緊張させた。
    「あ、おい、待て……」
     後ろ足がばねのように跳ねる。
     小動物は軽やかに駆けてゆき、そうして生垣の内側へするりと入りこんだ。
     舌打ちをして生垣沿いを速足で進む。
     猫ならば左右の髭を結ぶ円形に収まる隙間を潜り抜けられるのだが、こちとら人間様である。骨格と関節の可動域とそもそも大きさの違いがあるからして、そんな真似は出来ない。
     ほかに通れるところを探すよりほかない。
    「名胡桃医院」
     少し進んだところに鉄製の門があった。
     院名が記された真新しい看板を確認したところ今日は休診日のようだが、門が開いているということは敷地内に入ってもよさそうだ。
     邪魔するぜ、と言って門を潜る。屋敷の人間に許可は取らない。人影がないのだ。
     インターホンなどというものもないのでそもそも許可を取ろうとしても取れない。
     猫の姿はすぐ見つかった。刈り込まれた芝生の上を、広い庭の奥に聳える大きな建物へと向かいしゃなりしゃなりと優雅に歩いている。
     些か懐古主義が過ぎる意匠。洋風の屋敷だ。
     壁が白く塗られている。玄関ポーチはイオニア式の柱を模したコンクリートの柱で飾られていた。
     一階の大窓は上部がアーチ状になっている。
     二階はといえば、それよりは控えめな大きさの四角い上げ下げ式で、洒落た木製の窓枠が目立つ。
     化粧腕木によって軒が大きく張り出している。屋根に葺かれているのは洋瓦でなく和瓦であるが、弁柄色をしたそれは、建物の雰囲気に不思議と調和していた。
     メディタレーニアン様式を目指しつつも、気候や建材などの関係で結局和洋折衷の佇まいになった、といった風情。
     猫の尾を追い、ぼんやり灯りが灯っている玄関へ歩を進める。
     これほど立派な普請ではなかったが思い返せば実家も洋風に寄せた建築の医院だった。
     しかし己が餓鬼の時分ですら建物のあちこちにがたがきており、雨は漏る床が軋む、納戸は扉が閉まらない。
     挙げ句近所の餓鬼どもに幽霊が出ると軽口をたたかれるような有様であったと記憶している。もう五十年から昔の記憶だ。
     現代の建築基準と建築材料と地方の財力ではこんなものは建てられまい、と思うくらい贅沢な佇まいであるにもかかわらず、妙に清掃が行き届いて綺麗な屋敷だ。庭の草木は隅々まで手入れされ、片隅に竹ぼうきが置き忘れられている。
     今オレが立っているポーチの隅っこには信楽焼の傘立てがあり、ビニール傘が貸与のためなのか、忘れものなのか、ひとつちんまりと納まっている。
     それでいて、嘗ての建物をカフェだの資料館だの、いわば懐古趣味を満足させる為の見世物として修繕した際に出る、指に小さな棘を刺したときのような違和感がない。
     此処は未だ、建てられた時の目的のまま現役で使われているのだと。門脇に掲げられた真新しい医院の看板と記された診療時間が雄弁に語る。
     猫は意外なことに逃げる様子を見せなかった。扉の前で両足を揃えてきちんと座っている。
     まるで待てば開くことを知っているかのように。
    「諦めろ、今日は休診だとよ」
     だからその魚を返せと身を屈めかけたところで、ガチャリ、と金属の擦れる音がした。
     錠前の機構が動くような。いや、ようなではない。そのものの音。
    「どうしました、か……」
     ふわ、と。消毒薬の匂い。観音開きの戸が僅かな軋みを立てて開く。
     厭に聞き馴染みのある声に、まさか、と瞠目する。
     三毛猫がヘェ、と江戸っ子のような声を上げた。
     あれほど執着していたキーケースを、これはもう要らないとばかりにぽとりと床へ落として、色の褪せたデニムに湿った身体を擦り寄せる。
     細身の部類だが鍛えられた体。纏う白衣の裾が、脛のあたりで重たげに揺れた。
     こんな雨の日は湿気で膨らんで仕方ないのだ、といつかぼやいていた明るい色のくせ毛。猫の毛のように柔らかなそれを、左側だけ長く伸ばして、端正な部類に入る顔立ちを半分隠しているのがなんとも勿体無い。
     右目が一度瞬き、薄く開いた唇は細く息を吐く。刹那、全身の筋肉が緊張した様子がうかがえて、それからすうと力が抜けた。
    「雨宿りですか? ドクターTETSU」
    「……おめぇ」
     穏やかで静かな声だった。
     相手は平常の、日常の。常日頃の何てことはない立ち居振る舞いで対応しようと決めたらしい。
     しかしこちらはそうもいかないのだ。
     眉根を寄せて眉間に皺を作る。
     子供に大泣きされたことがある。
     気の弱い婦人が悲鳴を上げかけたこともある。
     自他ともに認める強面は、社会の裏を渡り歩く仕事をする上でこれ以上ない武器となるものだが。出会ったその日からこちらに怯まなかったこの男には、いまだ威嚇の効果がない。
     男は雑にも見える手付きで三毛猫を抱き上げ、ついでにキーケースを拾い上げる。ヘェ! と猫が抗議のような声を上げた。
     猫の扱いに慣れているように見えるのは、過去、短くはない期間猫と暮らしたからだと知っている。
    「赤鰊」
     お魚咥えたどら猫、と面白そうに呟いて、細く長い指がキーケースを差し出してきた。
     もとはテメェが寄越したもんだろうがと胡乱に目を眇めるも、相手の余裕は揺るがない。
    「その様子だと、あちこち走り回っているんですね」
    「引退しろってか? オレから医者を取ったら一体何が残るってんだ」
     故郷は捨てた。家族も皆死んだ。
     振り返ってみれば人生を捧げてきたのは仕事であり研究で、それが無くなってしまったとあってはこの世界でどう息をしたらよいものか決めかねているところがあった。
     結果、ある程度の患者はよそへと回しながら、自分の納得いく範囲で医者を続けている。
    「いえ。元気そうで安心しただけです」
     声音に皮肉や嫌味は含まれていない。
     ただ、混じり気のない好意と、微温湯のような優しさだけがそこにある。
    「あなたが帰国して何年でした?もう随分、声を聞いていないし顔も見ていない気がします」
     帰国、という表現に眉を顰める。
     スキルス胃癌。嘗てこの身に巣食った病の治療はアメリカに渡って行った。
     やんちゃというには社会の裏へと潜りすぎていて、危ない橋を全力でもって疾走していた昔の所業を振り返ると正規の手段でビザが取れるかは怪しかった。入国審査ではねられる可能性もあった。
     しかし蓋を開けてみればそこは朝倉が根回しをしていたのか、拍子抜けするほどすんなりとした渡航となった。ヒスパニック系の入国審査官に「Good Luck」と微笑まれて手まで振られた。
     知った顔に迎えられ、錚々たる顔触れのチームまで組まれて開始した先の見えないはずの戦いはものの数年であっさり停戦と相成る。
     日本ではいまだ承認されていない、開発されたばかりの新薬か。はたまた遺伝子を分析し体質に合うものを選択すると説明を受けた上で試みた新しい治療法か。
     治験が充分でないとの説明をあらかじめ受けた上で、好きにやれといくつか試したうちのどれかひとつがどうやら劇的に功を奏した。
     何故生きているのか不思議だと。目の前の男を除く全ての医者に検査結果を検分されたうえで首を傾げられた。そんな半分ほど彼岸に足を突っ込んだようなそれは酷い有り様から。真田徹郎は往生際悪く此岸へ戻ってきてしまった。
    「二年だろ。耄碌するにゃあだいぶん早いんじゃあねえか? 譲介」
    「あなたが耄碌していないかの確認です」
     憎まれ口には悪たれ口で。
     速いテンポで卓球の球をぽんと打ち返すようなやりとりも二年ぶりになるのか。
     とはいえ昔はもう少しは遠慮のある奴だったのだが。主治医という立場になってからは、そんなものは何処かへ吹っ飛ばしたとばかりにのべつこの調子であった。
    「立ち話も何ですし、中に入りませんか? この雨、暫くは止まないと思いますよ」
     和久井譲介は「ちなみにその傘、骨が折れているので貸せません」とついでのおまけの如き調子で、此方の逃げ道を完璧に塞いだ。


    ***


     中に入れと言った癖に譲介が案内してきたのは勝手口だった。
     表からだと居住スペースまで遠いんですよここ、とこちらが訊いてもいないことの説明をしながら、広い庇の下をぐるりと回る。
     古い医院の建物には入院施設が備えられていることが多い。そして昔の医者はたいてい仕事場である病院に住んでいた。
     患者のための空間と、医療従事者の居住空間をゆるく隔てるために、中の間取りが間怠っこしくなっているのかもしれない。
     件のどら猫はといえば、キーケースを奪って逃亡したアクロバティックさは一体何処へやら、という猫かぶり具合で大人しく譲介の腕に納まっていた。
    「災難でしたね。この猫、革製品が好きなんです」
     近所では有名な猫で、病院の周辺をなわばりとしているらしい。ただこの付近の住民は猫の癖を全員承知しており、万が一何か盗まれても慌てず騒がず飼い主の家へ尋ねゆくのだそうだ。
     事情を話せば、蒐集された盗品を猫の寝床から回収した飼い主が平身低頭しながら返してくれるという寸法である、と譲介が歩きながら語った。
    「もと野良で、だいぶ昔に植木屋の大将が拾ったんだそうですが、脱走癖があるんです。先週、帰ってこないから先生も見かけたら教えてくれませんか、と飼い主から聞いたばかりで」
     猫は人間の気を知ってか知らずか、譲介の腕の中で機嫌よくごろごろ喉を鳴らしていた。
     雨は益々激しくなって、絹糸で紡がれた暖簾の如く景色と軒下を隔てて烟る。こりゃあこいつの言う通り暫く止みはしないなと諦めた。
     これは建物を見回したときにも思ったことだが、古い建物の癖に存外立派な基礎があり、一段上がったところに白い塗料で塗られた扉がある。
     扉の下、開いても当たらないギリギリの場所へ、陶器の茶碗が伏せて置いてあった。下に何か紙が敷いてあるのを見て取って、譲介に声をかける。
    「ああ、それはもう良いんです」
     おまじないだったんです、変な叶い方をしましたけれど。
     そう告げて、譲介は猫を抱えたまま器用にひょいと碗と紙を拾い上げた。ちらりと見えた紙には、筆文字で何かが書いてあった。
    「いい茶碗じゃねえか」
     重石にしているわりには良い焼き物なので褒めると、鍵を開けようとする動きが刹那止まった。
    「越中瀬戸焼の灰釉だそうですよ」
    「朝倉の息子の趣味か」
     さあ? と肩をすくめて、譲介が勝手口の扉を開く。洋館のくせに居住スペースは靴を脱ぐ仕様のようだ。
     三和土にブーツを置き去りにして、すっかり湿って重くなった外套を脱いだ。すかさず掛けておきますのでこちらへどうぞ、と手が差し出される。
     昔から何かと細かいことに気の付くヤツだった。いや、他人の、特に大人の動きを細かく観察して、どんなに小さい反応でもすぐ対応ができるように身構える性質だった、のほうが近いか。
     それは集団生活を余儀なくされていた生い立ちで培ったもので、きっと本来の性質ではないのだ。
     ティガワール大使館のヤマ。
     手術を終え、体力が続かずヘバったオレの醜態。
     腹の立つことに、それをいち早く察していたのはこいつではなく神代一人であったから。
     譲介の前では弱いところを見せぬように、限界ギリギリまで虚勢を張り平気に見せていた。
     だからあの時まではまだ、子供の聡い目を誤魔化せていた。
     再会してからは虚勢が一切通用しなくなった。子供の処世術としての観察眼が、いつの間にやら医療従事者のそれに変化を遂げていたからだ。
     心なしかであっても口数が減り僅かであろうと動きが鈍くなれば、調子が悪いならきちんと申告してくださいよと前もって釘を刺された。
     蹌踉めいたところを見つかろうものなら我慢は止めてくださいちゃんと不調は教えてくださいとあなたにお願いしませんでしたか僕は、と大層に叱られる羽目となった。息子ほどの年頃の男からこんこんと説教を食らう日々。あの頃は随分尻の据わりの悪い思いをしたものだ。
     治療とは相手に弱さを曝け出すことだ。
     お前であれば、お前でなければと頭できちんと納得していたとしても、感情の上では割り切れぬもののほうが多かった。
     できる限り弱みを見せぬよう、肩肘張って生きてきた時期がなまじ長いだけに、尚更。
     譲介の手でぱちりと廊下の電気が付けられて、外は認識しているより薄暗かったのだと悟る。
     勝手口であるので、目に入る部屋は当然台所となる。
     まず、矢鱈と大きいシステムキッチン。シンクがぴかぴかに光っていて、蛇口はセンサー式の混合水栓。食器洗い機もある。時代の最先端を走っているようでいて、目立つのは四口のガス焜炉。停電してしまえば使えなくなるIHヒーターとは違い、電気が通じなくともガスのロックを外せば使えるため、災害時に配慮した結果ガスという選択なのかもしれない。
     とはいえ、丸鶏が焼けそうな大きさのオーブンなんぞあったところで住人は持て余しそうだが。極論、独り暮らしの煮炊き道具としての鍋釜なら、フライパン一つに鍋一つで完結させることも可能なのだ。
     銀色の冷蔵庫は家庭用でなく業務用で、容量が千リットル近くありそうだ。洒落たイタリア製のコーヒーメーカー、大きな電気ポット。黒い炊飯器。棚に収まる電子レンジは見知ったメーカーのものだが見たことがない型だった。
     知らぬ間に新機種が出たのか。好奇心がふいと頭をもたげる。良く見ようと身を傾けたところで、ずいとバスタオルを差し出された。何処かへ消えていたかと思ったらこれを用意していたらしい。
     素直に受け取り濡れた髪を拭く。やらなければ在宅介護も学んだという医者の手づから子供のように髪を拭かれかねない。
    「随分な設備だな」
    「殆ど朝倉先生、の部下の方の手配ですけどね」
     僕の意見は殆ど反映されていません冷蔵庫とか。と言う口ぶりからすると、施設の運営には確実にクエイドが噛んでいる。こいつがここにいる時点でその可能性は元から高かったのだが。
     やたらと広いリビングダイニングへ通され、ソファを勧められた。
     まず床面積と家具のデカさでここはアメリカの住宅かと錯覚するが、向こうの住宅によくある、カウチに寝そべって怠惰に眺める大画面のテレビモニターは無い。パソコンで用が足りてしまうので必要がないのか、待合室に患者が退屈しないようモニターを置いていてそれで済ませているのか。
    「何も無いので退屈でしょうが、この建物、間取りが複雑なのでうろうろ動き回らないでくださいね」
     お茶を淹れて来ますので待っていてください、あと猫をお願いします、と使用済みのタオルを回収した代わりにあたたかくなめらかで案外骨ばったいきものを押し付けて、譲介はキッチンの方へ戻る。
     通りすがり様にチェストの上にある写真立ての一つをぱたりと伏せたのが見えたが、隠したいのなら敢えて暴き立てる権利など此方には無い。
     珈琲か紅茶か質問が無かったのは尋ねなくても分かっているからで、珈琲でしょうの確認すら無いところに「何年一緒に暮らしたと思っているのか」という傲慢さが透けて見えた。
     譲介本人は「僕はもう子供じゃないんですよ」と良く口にした。そして言葉のとおり予想をいともたやすく飛び越える。
     此方が根本的に一緒に暮らしていたころと然程変わっていないことを見抜かれている。
     時は平等であるとは言っても、十代の三年間と五十代の三年間では時間の感覚が違う。
     人間五十年も生きればそう簡単には変われない。対して若者は変わるのだ、驚くほどに。
     ふかふかのソファへ腰を沈める。
     膝の上の猫は案外大人しく身体を丸めている。
     さて、ごく普通にもてなされているように感じるものの、これは結構な窮地である。どう切り抜けたものか。
    「何を難しい顔をしているんですか」
    「てめぇのせいだ」
     反射的に言い返して、しまった、と思う。
     白いマグカップを二つ持ち、譲介がダイニングの入口に立っていた。身長の割に長めの脚を上手く使い少ない歩数でソファの側、オレの近くへと辿り着く。
    「へえ。何がです?」
     ローテーブルへと、マグカップの一つをことんと置いて、怜悧な顔立ちが笑みを浮かべる。こういう作り笑いはこいつの得意とするところだった。己を人当たりがよさそうな人間だと認識させる能力に長けている。しかし一定の距離からは、けっして踏み込ませはしない。
     ここで向こうのペースに持ち込まれてしまえば、逆さに振っても鼻血も出ないくらいにそれはもうこってり絞られるのは目に見えていた。
     なにせ此方には分かりやすい弱みがあるもので。
     ならば別の疑問をぶつけてやったほうがいい。
    「将来有望なクエイド所属の若手研究者が、なんたってこんな日本の片田舎にいやがるよ」
     和久井譲介は、かの有名な医療財団クエイドにスカウトされ、米国へ渡り医師免許を取得したという日本人としては珍しい経歴を持つ医師だ。
     つまり彼の免許はアメリカ、それもスペイン語で「天使たち(Los Angeles)」の名を冠す街を有する州でしか通用しない。
     その上とある事情が絡み、少なくとも今後数年、譲介はクエイドで働き続けなければならぬ身上のはずだった。間違ってもこんな日本の片隅で合わせていい顔ではないのだ。
     此方の疑問と動揺を尻目にして、整った白皙はしれっと宣う。
    「夏休みなんですよ」
    「夏休みィ?」
    「ここ二年間、休みを取らないで働き詰めだったもので。朝倉先生が随分心配してくれてですね。日本にクエイドが一枚噛んでいる僻地医療の為の診療所があって、職員がバカンスで一ヶ月休みを取る予定だから、住み込みで留守番はどうかと」
     それは夏休みとは呼ばないのではないだろうか。いいところがオレの若い時分は学生がよくやっていたリゾートバイトである。その上現場は観光地でもなんでもない日本の僻地だ。人口の少なさで神代一人の村とタメを張る。
     医者というものは生涯学習が前提の職業である。さらに言うなら休みと言いながらも他所の病院で働く仕事中毒者がよく見受けられるが、こいつもご多分に漏れないらしい。
     だが。この国で医師として短期であっても働いているというのなら、法的な問題はクエイドの方で解消しているにしても。どうしても気になる点があった。
    「免許はどうしたよ、おめぇ」
     医師免許がなければこの国でまっとうに医師として働くことは出来ない。長年違法診療を続けた挙げ句に無理を通して道理を引っ込めたドクターK、神代一人という存在は、今後金輪際現れないであろう相当なレアケースなのだ。
    「あなたの治療中に書類申請を出していて。此度目出度く通過していましたので一年前に試験を受けてこちらの免許も取りました」
     それは。医師免許が州ごとに異なるアメリカと異なり、日本は国家資格に通れば全国どこでも通用するので助かりましたとまるで歯医者の予約でも取ったかのような調子で語るような行いではない、と思う。
     譲介はもともと日本で医師免許を取ることを目指していた。更に六年かけて神代一人のもとで医学を学んでいた過去があるとはいえど、免許を取得するための専門教育を実際に受けた場所は言語の違う国なのだ。日本で同じ資格を得ようとすれば、異国語で記憶した専門用語を母国語で学習し直す必要があろう。
     臨床の激務をこなす合間に勉強を続け、一発で国試に通るためにいったいどれだけの苦労を重ねたのだろう。クエイド財団のサポートがあっても平易な道のりではとうていないのだと容易く測り知れるそれを、譲介はずいぶん長い時間をかけてやり遂げたのだ。
    「K先生のところでお世話になった看護師の方に、免許がないことを随分心配してもらって。なので、此方でも通用する資格を持っておくに越したことはないなあと。何れこちらに帰ってくるつもりはありましたし。朝倉先生も本拠地はあちらですが、日本の医師免許を持っていますしね」
     口をつけていない珈琲の水面に、天井の明かりが反射している。
     こちらの納得していない顔色を読み取ったのか、譲介が静かに笑った。
    「朝倉先生に怒らないでくださいよ。ほんとうは、一週間くらい休みをあげるから、ハワイあたりにでも行っておいで、と提案してくれたんです。でも、僕が断った。やりたいことがあったので」
    「せっかくの降ってわいた休みを潰してでもか?」
    「はい。……日本の僻地医療の最前線に、興味があって」
     というならば、それは間違いなく、神代一人の影響だろう。
     Kの一族の裏。
     使命を途絶えさせぬため、その血を絶やさないために日本各地に潜伏し、歴史の影で医療技術を磨きつづけていた執念の血統のひとつ。
     そしてその「表に出ない」性質上、ヤツの立場は僻地医療においての最前線とほぼ同義になる。
    「アメリカって、チーム医療が基本的な考え方で。開業するにしても数人でチームを組んで、交代で診療にあたり、日本のような個人の開業医はあまり存在しない。だから僕が向こうで積んだ経験は常に「誰かほかの医療従事者の存在ありき」なんです」
     神代一人は、あえて譲介をそのような場所へと送り込んだのかもしれない、と思う。
     院長ひとり看護師ひとり。田舎の小さな診療所。一人しかいない医者が働けなくなればその地域の住民はあっという間に医療難民となる。
     「ひとりでなんでもできる」ということは大抵の場合恵まれた環境でゆっくり安穏と育まれていく技術ではない。同胞のいない戦場の技術だ。
     そうしなければならなかったのでなんとかし続けた結果、できるようになったというだけの話だ。そこに選択肢はない。オレ自身も「他に誰もいない状態でどうにかしなければならなかった」環境が長かったので分かる。
     孤高という言葉があるが、孤独は格好いいことでもなんでもない。
     たったひとりで高みに上り詰めたところで、たかがひとりの人間にできることなどしれたものだ。手は二本しかないのだ、人が抱えられるものには限りがあって、頼る先も相談できる人間もいないというのなら必ずいつか限界が来る。重い荷物は分散して持つに越したことはない。
     恐らく神代一人はそれを嫌という程思い知って誰より深く理解している。
     他人と協力し真っ当に物事を進めていく技能を身につけるにあたり、アメリカは最適な学習環境だといえるだろう。何せチームを組み課題に取り組んで解決することができなければ、免許を取得する段階にすらたどり着けないのだから。
    「向こうで培った、生まれも立場も考えも様々な人間たちで協力してひとつの課題にあたり、解決するという技能は僕の武器です。この国の人口は減り、患者に対する医療従事者の数も当然減っていきます。そこで個人の負担を減らしてよりよい結果を追求することが可能である、チーム医療を学んだことは確実に活きてくる」
     ここまで前置きです、と譲介はようやく珈琲を一口すすった。
    「けれど僕の経験上、一人で責任をもって診療を行った、ということが殆どないんです。いつも信頼できる先生が誰かしらそばにいて、間違えば正し、必要であれば手助けしてくれた。基本的に誰かが動きやすいように動くこと、助けてくれる誰かが必ずいる状況で、チームで動くことを前提に働いてきましたので。そこで本当にひとりでやってみるのも経験じゃないかなって」
     なるほど納得のいく志望動機であった。
     その信頼できる先生の中に、オレは入っているのだろうか。入っていなければよい。いいところが「勝手に拾った挙句勝手に姿を消した身勝手な男」だろうから。
     師匠として認められてすらいないかもしれない。
     それで良い。陽の当たる道をまっすぐ進むために、人に言えぬような過去と、それに付随する人間は邪魔なだけだ。
    「たった一か月ぽっちで、知った気になりたいわけじゃあありません。僕の功名心や探求心で、この地域の患者さんを危険に晒したいわけでもない。だから万が一の時に頼るところをきちんと幾つか見つけて話を通してあります。でも、ほんの少しでも経験したことがあるのと、全く何にも知らないのとでは、確実に違うでしょう。問題があるのだと感じて、それを変えていきたいというなら、両方の立場を知らないと」
     だから休みを伸ばしてもらったんですよ、と。
     あくまでこの帰国と僻地の診療所勤務は休暇であるという認識をちゃっかり主張して、譲介は伏せていた目を上げた。
    「僕がここにいるのはそんな理由ですが。あなたはどうなんです?」
    「仕事以外に何かあるように見えるか」
    「いいえ。相棒がいないということはプライベートではあり得ないでしょう」
     今回ペットホテルに預けて来ている件の黒猫は、おそらく迎えに行ったとき、不機嫌そうに三角耳をそらして目を細めるのだろう。
     仕事である、ということを理解していてなお踏み込み尋ねてくるということは、仕事の内容を守秘義務に差支えのないところまで話せということである。嘗て闇医者の診療の片棒を担いでいた男だ。巻き込みたくないだとか、お前のような真っ当な医者が知ることではないと主張してみたところで、今更、と鼻で笑われるに違いない。
     まったくもって、すっかり可愛くなくなった。
    「……以前、縦隔気腫のオペをやった患者が、このあたりに住んでいる。相当な年で、シノギはとうに引退している身だがな」
    「なるほど胸が痛むので診に来てくれと言われて出張ですか。そこで降りるバス停をうっかり間違えて、時刻表を確認するのに気を取られた挙句にこの猫にキーケースを盗られた、と。へえ」
    「先回るんじゃねえよ」
     とはいえ概ねそのとおりである。かつてのオペで穴は完璧に塞いだものの万が一ということがある。縦隔気腫の再発である可能性を鑑みて、拠点から飛行機に乗り公共交通機関を用いてこんな地の果てへたどり着いた。
     目から鼻へ抜けるような利口さで推察をやってのけた弟子はオレの行動を読むことに特化しすぎていやしないだろうか。
     同居中に材量を与えすぎたのだろう。
     眉間に皺を寄せる。間が持たない。
     誤魔化す様に端末を取り出した。
     黒猫を預けているペットホテルは、かつて相棒と共に関わったとあるヤマで助けた闇社会のドンが病を期に足を洗い、飼育動物の福祉に精を出した結果立ち上げられた店だ。
     定期的にメールで報告をくれるシステムが気に入っていた。
     画面の上部に並んだアイコンとにらめっこして、重々しく口を開く。
    「譲介」
    「大変残念なことに、ここはただいま電波が入りません。一週間前の大嵐で通信に不具合が出て、まだ完全復旧していないんです。有線の回線と、固定電話は辛うじて通じます」
    「僻地にも程があるだろうが!」
     診療所を経営するというなら、インフラを整備する必要があるのではないだろうか、クエイド。
    「ワイヤレス・フィデリティはまああるんですけど、機密保持の問題とかいろいろあって、部外者にはお貸しできないんですよね。今確実に電波があるところまでだと、一つ前のバス停まで戻らないと」
     最終バスはもう出ているらしい。どこまでツキの神に見放されているのだろう、オレは。
    「オレの患者は三つ前のバス停が最寄りなんだが」
    「三つ前となると、徒歩で四〇分ってところかな」
     あなたの足ならもっとかかるかもしれません、と所要時間が自分の足基準であることを付け足し、譲介は洋画の登場人物に似た堂に入った仕草でもって肩を竦めた。
    「更に言うならば、僕はこっちの運転免許を持っていません」
    「医師免許は持ってる癖にか!?」
     思わず声を上げてしまった。
    「だって必要ないと思ったんですよ、村にいる時は忙しくてそれどころじゃなかったし」
     言い訳をして逸らした切れ長の目の、その眦に小さな皺がある。
     まだ若いと言える年齢である筈であるのに。
     ほとんど休みを取らなかった、と自称していた二年間は、こちらが思ったよりもずいぶん激務であったのかもしれない。
    「とにかく。バスの始発は明日の午前六時ですので。雨の中長時間うろつくなんてことは主治医として許可できません。今夜は泊まっていってください。寝床と夕飯くらいは用意できます」
     からんからん。心地よい金属のベルの音。
     来客だ、と呟いて、譲介は持っていたカップを傾け珈琲を一息に飲み干した。
    「少し待っていてくれますか? たぶん、その猫の飼い主です」
     カップをローテーブルの上へと置いて、オレの膝から猫を抱き上げる。
     寝ていたところを起こされた抗議なのか三毛はにゃうにゃうと文句を言ったが、全く意に介さず痩躯が足早に部屋を出ていった。
     さて。ここでオレがおとなしくソファにきちんと座って良い子で待っていると思うならば、あいつは此方のことをあまり理解していない。
     気づかれない程度の距離を開け、後を追う。
     若いころ程軽やかに動きはしない体は重いが、そこは年の功だ。譲介に気づかれるようなヘマはしない。
     構造が複雑だから迷わないように、と釘を差されたのは本当で、廊下は妙に枝分かれし入り組んでいた。それでも足音と声を頼りに進み、大きな一枚板の扉の影で止まる。
     そっと覗いた部屋はどうやら事務室のようで、譲介の姿は窓際にあった。大昔の郵便局や銀行にあったような夜間窓口に似た小窓の前で、何やら話している。
     先生、と。やわらかで細い声が譲介を呼んだ。
     ありがとうございます、と譲介は穏やかに笑う。
     その姿に、断崖絶壁に追い詰められてなお生き延びることを諦めない、隙を見せたが最後喉笛に食らいついてきそうな。ナイフを握りしめて獣の如き目をしていた少年の面影はない。
    「ほんとうにありがとうございます、いつもいつもご迷惑をおかけして……」
    「構いませんよ、見つかって良かった」
    「このお礼はまた改めていたしますので」
    「結構ですよ、庭の手入れをしてもらっている上に、こうやって奥さんからたびたび美味しい料理をいただけるなんて、こちらが貰いすぎなくらいなんですから。そうだ猪俣さん。旦那さんは木曜日に検査の予定でしたよね? お気をつけていらしてくださいと伝えていただけますか。……お大事に」
     闇医者をやっていると使用頻度が真っ当な医者よりもまあまあ低い医療従事者の決まり文句を滑らかに口にして、譲介は来客の背を見送る。
     ちらりとしか確認できなかったが、来客は線の細い老婦人のようで、キャリーバッグを胸元にしっかりと抱えていた。
    「なかなか立派なモンじゃねえか、センセイ?」
     窓際の影が振り返る。
    「待っていてくださいって言いませんでしたかね、僕は」
     全くいつになってもこっちの言うことなんて聞かないんだから、と文句を言いつつ、来客から受け取ったらしいタッパーを抱えなおした右手に、光るものが見えた。
    「……おめぇ」
     銀色の指輪だ。宝石の類はなにもついておらず、至って簡素。だが帯を一回捻って戻したような、広げた鳥の翼のような。よく見なければ分からぬ複雑な意匠が凝らされている。
    「結婚したのか?」
     虚を突かれた、といった風情だった。
     オレの視線をたどって薬指の指輪にちらりと視線を遣って、ああ、と納得したような声を溢す。
    「はい」
     いつの間に、と本気で驚いていた。
     ただそれを素直に顔に出してしまうには此方が歳を食い、場数を踏みすぎているだけで。
     譲介の動向は、細かいところまで分からずとも大まかには把握できるように常に網を張っていた。
     出入国はもとより、冠婚葬祭、人生においての大きいイベントがあればまず引っかかる筈だった。しかしどちらもこの耳には入っていない。
     スキルス胃癌の治療で渡米し、いちど闇社会との縁が薄くなったのが効いているのか。
     馴染みの情報屋を幾人か思い浮かべ、今度顔を合わせたら皮肉の一つも言ってやろうと舌を打つ。帰国情報をキャッチできなかったのも減点要因のひとつである。
    「相手は」
    「あなたに関係ないでしょ」
     前にも聞いたような台詞だった。そして上がったロブを打ち下ろすような鋭い拒絶だった。
    「そうさな」
     結局、あの時と同じ言葉しか返せない。
     だが、ほかに何を言えばいいというのだろう。
     分かってはいる。
     おめでとうと素直に、祝福の言葉のひとつでも投げてやればいい。そうしてやれば、柄じゃないですねと憎まれ口を叩きつつ感謝の言葉を述べて、目の前の男はいともたやすく笑うだろう。
     なのに。在り来たりな使い古されたその一言が、どうしても喉から出てこない。
    「連絡しなかったことは謝りませんよ、連絡がつけられなかったんですから」
     当たり前だった。
     自身へは譲介の消息が伝わるようにしながらも、譲介には此方の動向が一切漏れぬように。
     この二年、随分と多くの金をばら撒いた。培ったコネはフル活用した。このオレがここまでやって、もし素っ堅気に居場所が割れたとしたのならば。いよいよ闇医者の看板を下ろさなくてはならなくなる。
     本来は、寛解の診断が下りたあと、滞在を一年伸ばしての定期検診が義務付けられていた。
     今でも自身での検査と経過観察は行っている。それでいいだろうと思いはするし、自分でやると主張もしたのだ。だが、自分自身で検査できても胃癌は悪化していたでしょう、どうしたって人間ひとりの目では限界があるんですよと淡々と叱られてはぐうの音も出やしなかった。正論が過ぎる。悪態で返す隙もない。
     クエイドでみっちりアンガーマネージメントでも受けてきたのか。まるで切れ味の良い刃物のようだったかつての少年は、いつの間にか淡々とした口調で緩みも歪みもない理論を用意し詰めてくるという怒り方をするようになっていた。
     治療に関して、あなたのことが心配なんですと真っ直ぐ言われてしまえば此方はどうすることもできない。おふくろが死んでから善意だけで心の底から心配されるなんて扱いは受けていないのだ。ケツがむずむずするのを悟られないようにしつつ難しい顔をしてみせる以外に、オレに何が出来るというのか。
     そうして一度は渋々ながら了承した筈の検診を、結果としては一度も受けてはいない。
    「此処には居るのかい」
    「来てません。仕事があるので」
    「医療従事者か」
    「ええまあ」
     米国に置いてきたと言うことか。
     二年前、譲介に恋人らしき相手の影はなかった。
     上手く隠していただけという可能性も皆無ではない。
     だが、向こうでは独りで暮らして倒れられたら困る、というこいつの主張を吞んで、入院治療の時以外は同居していた。
     同居人の立場から評価してやると、譲介の勤務形態は良く死なないなコイツと半ば呆れるほどのものだった。臨床医としての通常の勤務、クエイドから課された定期的なレポート。更に職場の慈善事業へ顔を出し、スキルス胃癌の患者の主治医と元師匠の同居人までこなしていた。
     無論予定はアリのはい出る隙もないほど強固に詰まる。見るに見かねて、いい加減ガス抜きしなけりゃ破裂するぞ、いいから誰かと遊んで来いと促しても頑固な男は首を縦に振らなかった。
     仕方なく体調の良いときを選んで、観光に付き合えと適当な理由を作り、無理やりオレの外出へ付き合わせて息抜きさせていた。
     そんな状況で、病んで弱っていたとはいえども、この目を胡麻化して誰かと付き合っていたとするならば大した役者だと拍手喝采してやってもいい。しかしその機会は訪れないだろうと確信している。
     手先は器用だし頭も回る、だがこういう方面でオレ相手に平然とした顔で隠し事ができる男ではないからだ。十年後ならまた別であろうが、今のこいつでは経験値がまるで足りていない。
     ならばこの二年の間に結婚まで漕ぎつけたことになる。
     指輪は昨日今日買ったばかりの馴染み具合には見えない、下手をすれば一年以上前にはこの指に填まっていたのだと推測できる。
    「クエイドの人間か?」
    「……そういうことに、なりますね」
     渋々回答する様子は、知り合いに報告していなかった結婚がうっかりバレ、ばつが悪い思いをしている若い男としてはごくごく自然なものだ。
     だが。此方はといえば。そうかと頷いて納得してやれはしない。
     簡単には割り切れない大きくて重いものを胸に抱えている。
    「譲介」
     名前を呼ぶ。こんなときにかけてやれるようなうまい言葉選びを知らない。
     金も祝いの品さえ今は手元にない。だから。
    「おめぇは今、幸せか?」
     視線が一度、右手の指輪に向けられる。
     普段は半眼で鋭い印象を与える目。気を緩めているときは驚くほど雰囲気を変えることをオレは知っている。
     暖かく柔らかく優し気な眼差しだった。患者に向けている目線とも気の置けない友と交わす視線とも違う、けれど確かに見たことのある。
    「はい」
     肯定だ。全く揺らがない、真っすぐとある。
    「実は一度振られてるんです。何度も一緒にいてほしいって伝えて、漸く結婚の言質を取った」
     そこまで惚れた相手だというなら、幸せでないはずがない。
     これが自ら選んだのは、さぞかし非の打ち所のない人間だろう。
     なにせ嘗て心底惚れこみ、医学を教えてくれとプライドの高いこれが土下座してまで弟子入りを果たしたのが神代一人だ。
     審美眼に関しては折り紙付きである。
     人の才能と能力を見抜く眼力はあると自負しているが、ならば人格についてはどうかといえばそうでもなく。若いころから散々痛い目に遭ってきたオレとこいつは違う。
    「強がるくせに寂しがりで、強情で。口が悪くって。喧嘩になったりしますけど。でも、とても大切な人です、ずっと」
    「……そうかよ」
     ならもうオレは要らねえな。
     口をつきかけた言葉を無理やり飲み下す。
     無理やり唇の片側をかぎ針で引っかけたような笑いかたをして、よかったな、と。ぶっきらぼうにようやっと告げた、心からのものではない、喘鳴のような祝福を。
     譲介ははたしてどう受け取っただろうか。


    ***


     庭先の鉢に、花が咲いている。
     標高がそれなりにある山の集落。温暖化が進行してもはや冷房がなければ生きていけない灼熱の下界よりはいくぶんか涼しい。
     それでも夏の空気はじっとりと湿って生ぬるい。
     一晩の借宿として与えられた部屋は、一見してホテルの一室のようだった。ライティングデスク、チェスト、寝台、ローテーブルにソファ。簡素である。
     嘗ては入院用の個室だったそうですよと譲介は言った。今は病室ではなく客室として改装されて使われているのだとも。気になるなら僕の部屋に泊まりますかと提案を受けるものの、ここでいいと首を横に振った。
     頭に闇はついてもまがりなりにも職業が医者で実家は病院だったのだ。
     改装前は病室だったと言われても特に何か思うことはない。
     天井際には立派な空調が備え付けられている。さあ使えと言わんばかりのわかりやすいところにリモコンが置いてあったのだが、空調を使わずとも夏を越えられた時代を知っている老体としては、空調にあまり良い印象がなく。窓を開けて窓枠にもたれ、ぼんやりと外を眺めていたところ、一際明るい白が目に入った。
     夏の宵、雲に覆われて暗い空。薄暗い中で、その花は浮かび上がるように目立っていた。
     一抱えはある鉢に行灯仕立て。立てた支柱へ、蔓でもってぐるぐると絡みついているものだから、はじめは朝顔かと思った。しかし花弁は繋がらず八枚が独立しており、花の形もラッパ型ではなく平坦、とどうにも趣が異なる。
    「ドクターTETSU、いいですか?」
     ノックの音がして、風呂上がりらしく頰を上気させた家主が顔を出す。
     手にしているのは水差しとコップが一組になった冠水瓶と呼ばれるもので、中には氷が浮いていた。
     あれは何かと窓の外を眺めたまま尋ねる。
     近づいてきた男はオレのもたれかかる窓枠の脇からひょいと顔を出して目当てのものを確かめる。
    「あれか。クレマチスですね」
    「クレマチス?」
    「カザグルマとも呼びます。つる性植物の園芸品種ではメジャーな花じゃないですか?」
     やけに詳しいじゃねぇかと言えば、村で往診していた頃に園芸に詳しい患者さんが何人かいたんですよと種が明かされる。
     暇な年寄りの茶飲み話に付き合わされるのも、たまには役に立つといったところなのだろうか。
    「月の光って品種だそうです。受け売りですけど」
     この国では月を描くとき、黄色く丸く表現する傾向がある。しかしながら実際の月の光は、概ね青白いものだ。なるほど、白地に僅かに青が入るような花弁が月光を想起させるのだろう。
    「それよりあなた、髪を乾かしてませんね」
     近づいたときに湿った髪に気づかれたようだ。
     寛解したといっても感染症にかかりやすくなるような状態を招くのは良くないです、室温を調整したいなら空調を使ってください、と矢継ぎ早に小言が飛んだ。知らぬふりをしてそっぽを向いていると、ため息とともに足音が遠ざかる。
     譲介が未成年の時分同居した頃は、このように世話を焼かれることはなかった。
     剃刀のような思考の切れと強烈な上昇志向に深い心理的外傷を抱えた難しい子供だ。なるべく弱みを見せぬように振る舞っていた。
     米国で一緒に暮らしていた頃も、病を治すのが目的であったため、どうしても怠さや痛みが勝り身体が動かないときは除いて捨て鉢になった時にやりがちな自暴自棄は封印していた。
     だからこういうずぼらな姿を見せるのは、初めてのことだ。
     幻滅されただろうか。
     否。幻滅されるに値するだけの尊敬が、あいつの中にまだ残っているとでも思っているのか。オレは。
     スリッパのぱたぱたという音とともに、ピッ、と空調の作動音がした。
    「ほら、こっちに来てください」
     子供に言うような優しい口調だ。
     譲介が戻ってきたことに驚く。
     窓際から動かずにいると、腕を取られ引かれた。
    「おい」
    「文句は聞きません。手錠をかけられて連れていかれないだけマシだと思ってくださいよ」
    「まだ根に持ってんのか」
    「持ってません」
     駄目押しのように窓が閉じる。
     体格ではこちらが一回り以上勝る。
     まだこの男が高校生だった頃、護身術程度にと簡単な立ち回りを仕込んだうえで、力量を試す目的で試した組手でも負けた試しはなかった。
     譲介の武器は身の軽さと獰猛さと素早さであり、そこさえ押さえておけばどうとでも対処は出来たからだ。
     老いて病んで弱ったとしても圧倒的な経験値の差がある。
     だというのに。拒否できるはずの掌を、拒む気が湧かない。
    「はい座って」
     此方が協力しているわけでもないのに、最小限の力で有無を言わせずソファへ座らされる。さては合気道か何かを齧りやがったなと記憶をたどり、黒須一也の母親、黒須麻純は合気道の使い手で確かかなりの腕だった筈だと昔見た調査記録を頭の片隅から引っ張り出す。
     一也が母親から合気道を教わっていたとしても矛盾はない。
     譲介と一也は短いものの診療所に同居していた期間があった。その頃に習得したのかもしれない。
    「一回梳かしますよ」
     視界の端に目の荒いコームが見えた。
     理容師でもあるまいし経験がないだろうから、どうせどこかで引っ掛けるだろうと思っていたが力加減は絶妙で、その上こちらの頭の形状を理解しているかのように手際よく櫛が動いていく。
    「介助の勉強でもしたか」
    「村には看護師が一人しかいないので。僕も随分看護をやらせてもらいましたし、あっちでの研修期間は暫くER(救急救命室)にいましたから。いろんな人達がいましたし、できることはなんだってしましたよ。知ってます? カリフォルニアの救急、ピューマの咬傷とか来るんですよ」
     しかしこの髪、弾力がすごいですね、と感心しているのか呆れているのか判別の付きにくい言葉を投げかけられ、おめぇと比べればそうだろうよと返した。これの髪は母親に似て色が明るく細い。
     身内に似たような髪色と毛質のやつがいたなと思い出しかけて、今考えることでもないと思考の海の底へまた沈める。
     ヤツの髪はもっと赤みが強い弁柄色で、譲介の黄みがかった丁字色とは色味が異なる。共通点は黒より明るいということだけだ。
     熱かったら言ってください。
     そう前置いてドライヤーのスイッチが入った。
     モーターの駆動音が唸る。他人に髪を乾かされるのは、治療中指一本動かせず看護師の世話になっていた時以来か。
    「真っ黒だ」
    「染めちゃあいねえよ」
     流石に白髪が混じってはきたが、それでも黒い部分のほうがまだ多い。
    「昔はあなたみたいな真っ黒な髪、羨ましかったんですよ」
     寂寥の滲む声が降る。
    「僕の子供の時分は、髪染めは駄目、パーマはいけない、前髪は眉上。そんな決まりが沢山ある頃で。小学校まではあいつの髪は細くて女みたいだって揶揄われて、中学校に上がってからは生徒指導に本当に染めていないのかと疑われて。そもそもが、僕の家庭環境と経済状況でそんなことをする余裕なんかあるわけないのに」
    「で、おめぇを笑ったやつらはどうしたんだ?」
    「喧嘩吹っ掛けて勝ちました。でも後になってから施設の職員さんが呼び出されて、いろいろ厄介なことになったので……」
     それで大人にはいい顔をしながら、子供たちを隠れて暴力で脅すようになったのだろうか。譲介本人が濁す以上、他に要因があるかもしれないし全くの的外れという可能性もありうるのだが。
     野郎の髪型なんてものはオレの頃は随分と雑に扱われていて、厳しいところは有無を言わさずに五分刈りだった。野球部なにんか入ろうものなら容赦なく丸坊主だ。時代の変化に伴って決まりも変わってきているのだと思いはするが、変化の過渡期にあり生まれつき黒い髪色をしていなかったこいつは随分と面倒な目に遭ったのだろう。
    「あなたと出会った頃の髪型も、髪色以外で生徒指導にひっかからないように、という試行錯誤の結果ですね。もみあげがささやかな抵抗の跡かな」
    「あア、そういやもみあげは刈り上げろとかあったな……」
     今は前髪が顔の左半分を覆ったふざけた髪型で落ち着いているが、高校生の頃の譲介は明るい色の髪を眉上で切り揃えていた。特に髪型についてなにか言わなくとも、襟足が長すぎるということもなかったように思う。
    「いろいろ面倒で、厄介で。だからこの髪が嫌いでした」
     過去形だ。
     ということは、今は。
    「今は違うか」
    「ええ。僕の髪を気に入ってくれた人がいて」
     触り心地が良いらしいですとのたまう男の髪はたしかにふわふわと柔らかそうだった。
    「はい、終わりましたよ」
     モーター音が止む。頤を持ち上げて仰ぎ見れば、離れていこうとする逆さまの顔と目が合った。
     此方も日本人にしては色素の薄い、光の当たり具合と本人の感情でもって橄欖からオリーブへと色を変える瞳。
     こいつの髪を褒めたのは誰だろう。
     結婚したのだという、揃いの指輪を誂えて隣に並びこれから共に歩いていく、オレが顔も名前も知らない誰かだろうか。
     腕を伸ばす。首筋をたどり、耳から頭頂部へ。
     猫を撫でるよりは強い力加減で触れる。
     風呂上がりであるので、ワックスもなにも付けていないのだろう。
     兎のような猫のような。しなやかで、ぱさつきのない髪が絡まらず指先からすり抜けていく。
     橄欖の瞳が細められる。気分が乗って大人しく触られている時の相棒に似ている。耳をするりと撫でて、離れ難い、とぼんやり思ってから、はっと手を離した。
    「どうでした? 撫で心地」
     相棒のいない手慰みになりましたか、と何故か楽しそうに言う譲介に、猫と張り合うなと返した。
    「そうだ、明日の朝食は七時です」
    「バスの始発は」
    「朝ごはんも食べずに働くなんてことは許可できません。仕込みは済んじゃいましたし。夕ご飯と同じ場所ですので、時間になったらダイニングに来てくださいね」
     ドライヤーをチェストの引き出しへ仕舞い込み、おやすみなさい、と挨拶を残して。譲介は部屋を出ていく。
     足音が完全に聞こえなくなるまで待ってから、よろよろと寝台へ移動して、どさり、と大雑把に身を投げ出した。弾力があって良いマットを使っている。シーツも清潔で、洗剤の香りがほのかにした。
     朝食か。
     きちんと食事をとれという心配も、紛れもない譲介の本音ではあるのだろうが。
     半分くらいは、ここでオレが早朝こっそり勝手に出ていったら、二人分用意した朝食が無駄になりますからねという脅しである。
     ジジイの扱いばかり上手くなりやがって。内心で舌を打ち、掌を眺める。
     湧いてくる二日酔いの朝の胃より重たい感傷は強烈な自己嫌悪。
     疲れに任せて眠ってしまおうと目を閉じても、瞼の裏に浮かんでくるのは白い頸。
     思わず伸びた手は撫でようとしたのではなく。
     締めようとしたのだ、譲介の首を。
    「とっくに、オレのじゃねえってのに、なあ」
     違う。
     和久井譲介が真田徹郎のものであったことは、一度たりともない。拾いはしても、所有物ではなかった。そう扱わぬようにしていた。
     最初から自分のものではなかったのに。その上、自分から手放したくせに。
     この内臓の一部がもぎ取られでもしたような、強烈な痛みと喪失感は、なんだ。


    ***


     またとはない機会だ。
     千載一遇という言葉に、これほどぴったりくる現状を知らない。
     あまり広い部屋は必要ないと朝倉先生を説得し、書斎との境界をブチ抜くことはなんとか免れた、八畳ほどの私室。
     壁際の机と本棚は文献と論文で埋まり、紙類が床にまではみ出している。
     元宮坂などはこの惨状を見るたびにデジタル化しなさいよと呆れるし、実際デジタルで入手してクラウド上に保管しているものもある。
     だが、はじめの師匠から「ノートに取れ」という極めてアナログな記憶方法を叩き込まれたせいか、どうにも時代遅れのこういったもののほうが頭に入るし馴染むのだ。
     かろうじて紙に侵食されない空間である寝台にごろりと寝転がって、深呼吸を一つ。
     二度と見ることが出来ないと思っていた顔が、雨の夕刻にひょっこり現れた。
     右胸の心臓が鼓動を止めるかと思うほどの強い衝撃に、あの人はきっと気づいていやしないだろう。
     お別れをしたときよりも矍鑠として、元気そうだった。言葉に声量と張りがあり、ああ、この人の声はこうだったと随分懐かしく思った。
     腹を開け縫い綴じた直後の人間と、とりあえず健康といっていい状態の人間を比べても詮無いことではある。同一人物とは言えども。
     妙に律儀な人であるので、アウトローを気取っている癖に約束を破ったことを気にしているのか、堂に入った伝法口調でもってぽんぽん矢継ぎ早に繰り出されるはずの露悪的な物言いが、歯切れの悪いものになっているのが妙におかしかった。
     今の僕は別に怒ってはいないのに。
     あなたがこうして生きて動いて話している姿をまた見ることができたのだから、それで充分だ。
     ああでも、これは嵌めている姿を見たいかな。
     手を伸ばし、寝台の横にある棚の引き出しから箱を取り出す。
     じゃら、と微かに鳴る鎖。
     見た目の割に重量があるぴかぴか光る金属の輪。
     嘗てあの人が僕にこの上ない悪人顔を見せつけながら嵌めてきたものと同じ。
     早めに夕飯を出して風呂へ案内し寝間着を貸し、部屋へお引き取り願ったのは、あまり長く話していると綻びが出てしまいそうだったから。
     話したいことはたくさんあるのに、話せることは限られている。時間は有限だ、誰にでも等しく。
     背筋を走った興奮を、冷えた金属を握りしめ、身体を丸めてやり過ごす。
     ついさっき、水を届けに行ったとき。
     濡れ髪のまま外をぼんやり眺めていたずぼらを咎め、髪を乾かしていただけだったのに。
     首筋へ厚い掌が伸ばされたのには少し驚いた。
     頸を締めようとしている、と頭の奥で警戒音が鳴った。けれどこの人なら良いか、と、触れられる寸前まで緊張していた肌はあっという間に弛緩したから、こちらが気づいたということをあちらに気取られてはいないはずだ。
     僕のことなんか、拾った猫くらいに思っているのだろうと諦めていたのに。結婚したのだと告げただけで明らかに表情が翳った。
     その程度には愛されているのだと、自惚れても良いだろうか。
     くつくつと笑って、心臓の辺りにある服の布地を握り込む。
    「ごめんなさい」
     逃げ切れたと安堵しつつ、拭いきれない強烈な違和感を覚え、釈然としないもやもやした思いを抱えているだろうあの人に、思ってもいない謝罪をする。
     結局のところ「僕」は、あなたがどう悩もうと、苦しみ抜いて藻掻こうと。
     この縁を切るつもりはないし、切らせる気もないから。


    ***


     愛していると告げられたことがある。
     癌治療がこれは都合の良い夢ではないかと疑うくらいとんとん拍子で進んだとは言っても、相当進行していたものを、一進一退で抑え込んでいたツケは確かにあった。
     身体は相応に傷んでいたし、少なくとも片手の指で余る回数はあの世に逝きかけた。
     そのうちの一回。
     調子が良い時に無理をして向こうの拠点で倒れ、救急救命医療室に担ぎ込まれた時に。朦朧とした意識の向こうで、知った気配がどう足掻こうとも動かないこの掌を両手で包み込んで、溢したのを耳が拾った。
     愛しています。(I love you)
     その時点では、此方に届ける気があったのかは分からなかった。何ならはっきりと意識が戻ったあとに、鎮痛剤として使用されていた医療麻薬による譫妄ではないかと疑った。
     ありとあらゆるものが痛みと吐き気と倦怠感に輪郭を失い暗くぼやけていく中で。馴染みがある耳心地の良い声で紡がれるアイラブユーだけは。あまりにも真っ直ぐと鼓膜を揺らし鮮明に脳裏へ焼き付いた。
     なので、寛解だと診断が下った後に何でもないような顔をして尋ねてみた。
     おめぇ、あのときオレに何か言ったか?
     譲介は色素の薄い目をほんの一瞬だけ見張り、静かに呟いた。聞こえてましたか。
     それが答えだった。
     譫妄でも夢でもなかった。
     世界を代表する医療財団クエイドで学び若手のホープと持て囃され、あらゆる部署で奪い合いが起きているのだという稀代の若手医師は。
     よりにもよって後ろ暗いところだらけの、叩けば埃しか出てはこない老いて病んだ闇医者を。
     愛していると言ったのだ。
     そのときなんと返事をしたかは今でも良く覚えている。
     何も返してやれなかったからだ。
     黙り込んで挙げ句話を自身の病状に関係する論文へと逸らして誤魔化した。
     どうすればいいってんだ。それがその時の嘘偽りない心持ちだ。
     先ず歳が三十から離れている。おまけにひどく病んでいる。このきれいな男のことをオレが嫌っていなくとも、いっそ好ましくさえ思っていても。
     差し出された愛と献身に見合うだけのものを、この身ではとうてい与えてやれない。
     初手で胸に刺さったナイフの傷を処置して命を助けてやった分を差し引いたところで、どう勘定しても借りのほうが大きいのだ。
     譲介に出会う前、オレは身辺整理を進めていた。神代一人と黒須一也の手によって死に至る病は一進一退といったところまで持ち直していたが、それでも根本的な治療法が見つからぬ以上、残された時間はそう多くはないだろうと分かっていた。
     それを生きようという気にさせたのは譲介だ。
     アイデンティティーの欠如に由来する、異常とも言える強烈な上昇志向。
     その代償のような、フラフラと地に足のつかない危うさ。それが身寄りのない子供を引き取った理由だった。
     施設で譲介を見つけた時、そのあたりに掃いて捨てるほどいる、狭い世界で支配者気取りになり粋がるチンピラ崩れだとはじめ思った。
     児童養護施設というものは、高校を卒業すれば自立しなければならない決まりのある所が多い。時期が近付き、将来の不安が問題行動に現れる子供も皆無ではなく、年下の子供たちの世話係として頼りきるだけではなく、大人がきちんと話を聞いて、必要であるならば助力することが重要であると職員から聞いたことがあった。
     外科が専門の闇医者に児童心理学の心得はない。
    できるのはこの外見を最大限に利用して、脅して手なずけることくらいだ。少しきつめに怖がらせ、灸を据えてやれば涙を流し許しを乞うだろうと、そう踏んだ。
     しかし見た目はごく華奢でおとなしそうに見え、目ばかりギラギラ凶暴に光らせた貧相な子供は、死ぬと分かっていてもなお命乞いをすることなく開き直り、挙句心臓に刺さったと宣告されているナイフを躊躇なく引き抜いた。
     強い生き物だと思った。
     同時に、その強さは脆さと隣り合わせなのだと感じ取った。
     砕けた硝子の破片の上を裸足で歩き回るような、翼の尺骨と橈骨が折れたままの鳥が行き場なくうろうろと地べたを歩き回るような。悲壮感と、それを可哀想だと傷ましく思うことを拒絶する自尊心の高さが危ういバランスで両立していた。
     強くありたいと足掻く姿は自分自身と重なって。右胸心であることで急死に一生を得たツキの良さにも興味が湧いて。
     気がつけば施設に手を回し、身柄を引き取っていた。
     年の頃が一也と同じであり、あわよくばオレが立てなかった「K」という強く美しい生き物の隣にこの子供がいつの日か並べるようになればという、途方もない打算も少しばかりはありはしたが。
     引き取った子供は総合判定で言えば「予想外」であった。
     強烈な上昇志向を適度に刺激してやり、一也と同じ高校に入れて接触させるまでは予定通り。
     一也とぶつけて徐々に変わっていったのも概ね予想の範囲内だ。
     当たり前だった。
     認めたくはないが、Kと出会って確かに変わったのはオレのほうだったのだから。金剛石に蒼玉をぶつけてみたところで、何度試そうが砕けるのは後者だ。
     Kと「同じ人間」である一也に、誰かをぶつけてみれば、大きく形を、信条を、生き方を。変えるのはぶつかった方になる。
     あれはそういう生き物だからだ。
     譲介は変わっていく。前だけを見て、歯を食いしばって走っていく。いずれKになる背中を懸命に追いかけて。
     順調だった企みが蹴躓いたのは、本人の能力や努力の不足ではなかった。受験当日に起きた集団レジオネラ症。そのうちのひとりが譲介だった。
     インフルエンザだろうが風邪だろうが再試験は考慮してもらえない。
     受験校を帝都大一本に絞っていた譲介は、試験日程から考えても留年は確定だ。
     胃の腑がすうと冷えるような心地になった。
     こいつのツキの良さは折り紙付きだ。だというのに勝負どころでのこの不運。
     非科学的なのは百も承知二百も合点で、オレの生来の運の悪さが影響していやしないかと。
     そう思った。思ってしまった。
     それからは譲介が目標を見失ったように荒れたこともあり、身柄を神代一人に託すことにした。
     本人が望んだように。
     オレが譲介を拾い上げたのは出会い頭の事故のようなものだ。道の途中で翼を折った鳥を見つけ、手を伸ばす以外の選択肢が思い浮かばなかった。それだけだ。
     ツキの良いあいつが自ら見定めた相手ならば、上手くやってくれるだろうと信じた。
     神代一人に保護者が失踪した過去があることは調査済みだった。同じような状況にある子供を、あの男は捨て置かないと踏んだ。
     似た経験を持つ男であるなら、譲介の傷を理解して癒してやれるだろう。
     オレにできるのはここまでだ。
     ここから先は悔しいかな専門外であり、手前でやるにはあまりにも時間が足りなかった。
     それにオレを見捨てられないから側にいるなんてことを選ばれるのは真っ平御免だ。
     あいつが飛んでいく上での重石になんざ決してなりたくはない。
     だが動向を探らせても渡した学費と生活費が一向に使われないまま、山深い村で六年。
     このまま山村に骨を埋めるつもりかと危惧していれば、海外の大学からスカウトを受け留学するとの情報が入り、なんの冗談だと大笑いした。
     おまけにその大学はロサンゼルスのクエイド。
     出来過ぎだ。
     とんでもなくツキのあるヤツである。オレの目はやはり正しかった。病んでさえいなければ普段はそう飲みもしない酒を買って朝まで乾杯していただろう。
     六年の間に両親を見つけ出し、ぐらついたアイデンティティの問題にひととおりのケリはつけさせた。もうオレに出来ることはない。このまま見送って、以降は神代一人の言うように、あいつの人生には関わらずにおこう。
     今度こそさよならを言うつもりでいた。本人には聞こえないところで。案外長くなってしまった悪縁はきっとこれで切れる。
     そこで見つけた。見つけてしまった。
     オレが神代一人に送り付けた便箋は一枚きり。もう二度と繰り返したくはなかったからだ。
     これきり、これで御仕舞。
     最初で最後の頼みだと託した。
     ダッシュボードに入っていた便箋は二枚。後ろの一枚は白紙。もう一枚には、丁寧な字で短く。

    あなたの死に水は僕がとります。

     譲介が何をこの短い一文に込めたか、直接尋ねていないのでほんとうのところは分からない。
     短文の手紙を記す際にもう一枚白紙を入れる。
     二枚の便箋にはいくつかの謂れがある。
     繰り返したくはない、もう二度と書きたくない手紙は縁切りの意味を込めて一枚におさめるので、それを避けて二枚にする。
     本当はもっと書きたいことがあるのだということを言外に示す。あたりが有名か。
     つまり。この縁は切らせない、切らないのだと。
     そう読めた。
     馬鹿だ。とんでもない大馬鹿野郎だ。
     途方もない確率のチャンスを掴み、傷ついていた翼も癒えて。漸く羽ばたいていこうとしている。
     次代のKとなる一也ともいつの間にか仲を深めたようで友と呼べる間柄となり、このまま研鑽を続ければ肩を並べられるようになるだろう。
     光の道だ。輝かしい未来だ。
     実母にも実父にも名乗ることを選ばず、過去を振り返らないことを決めた癖に。それならばもうオレは父母と同じように決別すべきものだ。
     あいつにとって邪魔なのだ、と納得していたのに。
     この悪縁だけは繋ぎ続けるのだと、お前はそう言うのか。
     あの手紙が無かったならば、這いつくばってでも生きようとは思わなかった。
     そこに数多の人間の尽力とオレ本人の執念と。あるとするならばほんの少しの奇跡が作用して、真田徹郎は今生きている。
     思いもよらなかった、終わるはずであった人生の続きだ。
     面倒にならない程度に少しずつ身辺整理をして。させられた約束を今度こそ果たしてやろうという予定を立てていたのに。
     予想外の男はここにきて「愛してる」の一言で、オレにしては微温湯に浸るも同然の、退屈で安穏とした老後の暮らしの夢を。粉々に吹っ飛ばしてきやがった。
     これが家族愛なら話はそこで終わる。
     そうではないから戸惑った。
     今まさに三途の川を渡りかけている意識の定かでない病人に向けて、名前を呼ぶでもなく死なないでくれと縋るでもなく。ただひとこと、愛していると告げる。それは慈愛や博愛なんかじゃない。
    「あなたの後腐れになりたいんです。後ろ髪を引く唯一でありたい」
     そうじゃなければあなたは渡し船なんか待たず三途の川に飛び込んで泳ぎ切ってしまうでしょうと。点滴を取り替えながらある夜告げた、本音を齎した右胸にある心臓が。神の愛(アガペ)だけで出来てなんかいるものか。
     これは等価交換だ。
     手前の人生を差し出すからお前の人生を寄越せという、当人たちにとって過不足のないところで成立しうる契約だ。
     そして譲介はどう思っているか知らないが。
     オレにとっては、差し出された天秤に釣り合うだけのものはどう多めに見積もっても載せてやれはしないあまりに不平等な申し出だ。
     そう自己判断したところで、この窮地をいったいどう切り抜けるかと病み上がりの身で頭を悩ませる羽目になる。
     このままずるずると主治医の言うことを聞いて一年過ごせば、何も返してやれもしないくせに、このぬくぬくと心地よい場所から出られなくなってしまうと、危険を知らせる赤い回転灯が脳内を回る。
     打開策は意外なところからやってきた。
     快気祝いに日本ではこういうものを贈るのでしょう、と。譲介のいないときに山盛りの果物籠を持って拠点を訪ねてきた朝倉の息子だ。
    「ご存知ないのですか? 和久井くんは、これからクエイドの薬学部門で数年働くことになっていまして」
     当然のように譲介についての話題になった時に、朝倉省吾は人好きのする笑顔でもって至極あっさり教えてくれた。
     息子は同じ年の頃の父親よりも世間擦れしていて賢しい。何故そうなったのかは口にしなかったが、情報は十分にある。推測するのは容易だった。
     和久井譲介は医療財団クエイドにスカウトされ米国へ渡り、そこで医師免許を取得したという、日本人としては珍しい経歴を持つ医師だ。
     そしてその経歴は、クエイドに借りを作った、ということにほぼ等しい。
     世の常として借りは労働で返すもの。格子戸の中の世界からは年季が明けるか、負債を返してくれる人間が現れるまでは出られない。
     譲介自身は免許の取得後、日本へ帰国しての臨床を希望していたのだそうだ。
     クエイドは現在日本人がトップを務めていることもあり、日本での就職口には事欠かない。
     借りを返しつつ一也のいる国に戻れる、まあまあ理想的な進路だったわけだ。
     しかし、あいつは研究畑の方にも才能があった。学生時代に幾つか「使える」薬の発見をしたとか、ちょいと目を引く論文の発表をしたとかで、薬物関係のプロジェクトを動かすクエイドのお偉いさんから目を付けられ、ロスの本部で研究チームに所属しないかと熱烈な勧誘を受けていたそうだ。
     そこに降って湧いたのが、譲介がとあるスキルス胃癌の患者の主治医になるため各方面に無理を言い、ごねてごねてごねたおして余計に増やしまくった借りである。そんな都合のよい弱みを海千山千の彼等が見逃すはずもない。
     でも、和久井くんは優秀だからきっとすぐに帰国できますよと微笑む、三十年前のこれの父親にそっくりな顔を眺めてオレはこう思った。
     またとない機会だ。千載一遇という言葉がこれほどまでに相応しい瞬間を知らない。
     借りを返すために、譲介がクエイドに繋がれる数年間。それだけあれば。
     かつて母親から置いていかれた傷を持つ子供を、その傷を知りながら何も言わずに置いていった。それでも子供は捨てた人間を勝手だと怒りはしても嫌わなかった。
     今度置いていけば二度目だ。一度は許しても、二度もそんな目に遭ったのならば、流石に此方へ愛想を尽かすだろう。
     そしてドクターTETSUは、主治医から命じられたクエイドの機関での定期的な健康診断を。ゲートから飛び出て勇ましくハナを切る逃げ馬のように、見事にぶっ千切り逃げ続けることを決めたのである。


    ***


     手足が重い。
     瞼を数回上下させ、それから目を閉じて身体の状態を把握する。
     体温は平常の範囲内。呼吸も然り。
     脈が少しばかり早いのは夢見が悪かったせい。
     数年前、偶然の出来事からとある山奥で相棒に出会うまでは、睡眠を取るたび頻繁に悪夢を見ていた。痛み止めとして使用していた薬剤の副作用による譫妄もあったのだろう。
     特に見覚えのありすぎる弁柄色の髪の毛に雁字搦めにされて身動きが取れなくなる夢が顕著で、あの頃は死神に常に付き纏われているようで忌々しくも恐ろしく感じていた。
     のちに精神が追い詰められていない余裕のある状況で、譲介が淹れた珈琲を飲みながらソファに腰掛け、相棒を膝に乗せつつふと思い返してみたところ。
     怖がるのではなく寧ろ笑うところじゃねえか? と要らないことに気が付いた。
     なにせ髪である。
     本人の姿は全く無く、弁柄色の髪だけが襲ってくるのだ。
     語りかけてくる言葉がどれだけ兄貴に似ていてもっともらしかろうが、如何せん髪だ。
     人は死ねば骨になる。その様を描いた芸術は、世界中に存在する。キリスト教ならばヴァニタス。メメント・モリ。仏教であれば九相図あたりが有名どころであろうか。
     肉が溶けて腐り崩れても髪だけは案外残るものなので、それを踏まえればあれもちったぁ怖いと言えなくもないか、いやそれでもどう頑張ろうが滑稽に寄る。
     ガキの頃のオレはあの髪がそんなに気に食わなかったのだろうか、と自問してみたところで答えは出ない。
     髪の持ち主に聞いてみたくとも、ヤツはとっくの昔にその髪の毛一本残さずに他所の国ごと吹き飛んでいる。
     何かの間違いで本人へ聞けたら聞けたところで、拳骨が落ちてくるに決まっているのだが。
     父母が優しかった代わりのようにして、兄貴は真田家で厳しさを担当していた。
     オレが何か質の悪い悪戯をしようものなら容赦なく鉄拳制裁をしてきたものだ。とっくに記憶の彼方に捨て去ったはずであるガキの頃の恐怖感も、悪夢に反映されていたのかもしれない。
     そんな悪夢は相棒と出会い共に過ごすことで徐々に頻度を減らしてゆき、譲介と暮らし始める頃にはすっかり形を潜めていた。
     お陰であいつに悪夢で魘される姿を目撃されることは防げた。はずである。
    「……夢見が悪ィのも久方ぶりか」
     重い腕を上げ、髪をかきあげて息を吐く。
     今回見たのは実在した人物の体の一部から当時そいつが喋っちゃいない内容の声が聞こえてくる髪の毛の死神の夢ではなかった。
     実際にあった出来事。
     ロサンゼルスの空港の国際線。
    『半年後にはちゃんと検診を受けてくださいね』
     おまえも元気でなとキャリーケースへしまわれた黒猫へ声を掛ける譲介。
     返事をせずに背を向けた、その瞬間の記憶だ。
     別れの時に挨拶がないのはいつものことだった。あの部屋へ置き去りにして以降、まともに挨拶を交わして別れた試しはない。さよならもまた会おうも今更どの面下げて言えと言うのだろう。
     背を向けた先の譲介は、笑っていた気がする。
     仕方ない人だよ。そんなあいつの心の声が聞こえてきそうだった。
     滅多に鳴かない相棒が低い声で鳴いた。まるでオレの代わりに譲介へと返事をしたかのように。
     それきりだ。それから昨日まで、顔を合わせるどころか連絡すら取っていない。
    「また会うことがあったら、殴られると思ってたんだがな」
     殴られるだけのことをしている自覚は、大抵の場合持ち合わせている。相手の怒りが正当であると思えば受け止める覚悟もある。
     だから院長室で生体肝移植の算段を打ち合わせていたあの時、剥き出しの怒りを向けられても敢えて避けなかった。結局拳は神代一人が止めてオレまでは届かなかったのだが。
     寝台から起き上がり、風呂に入る時借りていたTシャツと緩い下履きから、着てきた服へと着替える。
     顔でも洗ってくるかと部屋を出て風呂と続きの部屋になっている洗面所へ向かった。譲介はもう起きているらしく、キッチンのある方角から卵の焼ける匂いとコーヒーの香りが漂ってきている。
     蛇口の下にあるセンサーへ手を翳して水を出す。
     両手に掬うようにして、溜めた冷水をざばりと顔にかける。数回繰り返してじっとりと額に浮いていた汗を洗い流した。リネン置き場から自由に使ってくださいと言われていたタオルを手に取り、顔を拭いたところで気が付いた。
    「こんなところに置いておくヤツがあるかよ」
     大事なものだろうに。基本的には綺麗好きな、譲介らしからぬ隙だった。
     盆の上にひとつだけ載っている、小さな白金の輪。
     一回ぐるりと捻られ、捻ったところが鳥の翼のように見える凝った意匠の、恐らく世界に二つとない装飾品。
     否、二つはあるのか。
     これが結婚指輪であるのなら、対のもう一つが譲介のパートナーの指に嵌まっている筈である。
     大切なものであろうに、何故無造作に洗面台の脇に置いている。
     それ以前に使い古した膿盆をちょっとお洒落な小物入れとして使うのはいかがなものか。
     指で摘んで持ち上げる。
     昨日は指に嵌めていたと思ったが、普段は首から提げているのか、輪には繊細なチェーンが通されている。
     内側に、何か模様のようなものがある。
     目を凝らせばそれなりに長い英文が、恐ろしく細かい字でもって彫りつけてあった。かなりの職人芸だ。外科手術で鍛えた目でなければ読めなかったであろう。
    「……英語か」
     もっと若かった頃、米国で活動をしていたことがある。海外を飛び回っていた時期もある。顧客が日本語を解さない時もあったし、そもそも論文を探そうと思えば大部分は英語なのだ。読めなかったら商売上がったりである。
    No way has…から始まりgoodbye to him.
    で終わる。
     これで結びが彼ではなく彼らであったのなら、有名なハードボイルドミステリーの結びの一文で正解のはずだ。永遠の別離を描ききった小説の、あまりにも有名な結末は、しかし結婚指輪に彫りつけるにはあまりにそぐわない。
     エターナルラブだろうが僕の愛する人だろうがはたまた相手の名前や結婚記念日だって良い。
     もっと愛の証明に相応しくて金属加工の職人を泣かせないような候補は星の数ほどあるだろうに、何故かこれだ。
    「ドクターTETSU、朝ご飯はパンとご飯のどちらにしますか」
     譲介の声が飛んできた。
     悪いことは何もしていないが、悪さを見つかった子供のような心持ちで身を竦ませ、舌打ちをしてからそっと指輪を膿盆へ戻した。
     TETSU、ともう一度名が呼ばれる。催促だ。
     少し考えてパン、と返す。
     米を食べたい気持ちもあるが、洗い物の手間を減らすことを考えればパンだろう。この後はなるべく早く依頼人の下へ向かいたい。バスの時間から逆算すると、洗い物を手伝ってやれる時間は無さそうだったのだ。
     ダイニングへ顔を出せば、譲介が慣れた様子で皿の三枚持ちをしていた。そんな真似何処で覚えたと尋ねれば、在学中にレストランでバイトしましたと返答が来る。
    「アメリカって、医師は豊かな社会経験を積んだ人間がなるものって考え方なんです。朝倉先生がいろいろ働き口を紹介してくれて」
     学費は全て出してもらったので衣食住くらいは自分で賄いたいって意思もありましたけどね、と語りながら流れるような動きで給仕されたのは卵とコンビーフのサンドイッチ。昨日頂いたものですけど、と人参のポタージュスープも出てきた。
     昨日の夜間窓口で三毛猫の飼い主なのだという老婦人は譲介にタッパーを渡していた。手製なのだろう。有り難くいただくことにする。
    「茹で卵じゃねえのか」
     サンドイッチの中身は半熟のスクランブルエッグだった。アメリカで暮らしていた頃、譲介の定番のサンドイッチはかた茹で卵を荒くつぶしたものにマヨネーズをあえたものだったと記憶している。
     知らぬ間にレパートリーが増えたのだろうか。
    「……ああ、作ったことなかったんでしたっけ?」
     あの人は良く食べてくれたから、と誰かを思い返すように笑みを浮かべる譲介の右手に。白金の輪が光っている。


    ***


    「その頭陀袋、まだ使ってるんですね」
     無遠慮な視線が肩付近を辿る。
     見送りは要らないと告げたのに勝手口を抜けて門の近くまでついてきた男を横目で睨む。
    「ボクサーバッグに決まってんだろォが」
    「ジョーが担いでるような?」
    「それだいぶ昔の漫画じゃねえか」
     連載していたのは七〇年代。それから十年ほど経過してふたたびアニメ化されたものの、こいつが生まれたのはそれより後だ。高校時代のこいつはオレがそう仕向けたせいもあるのだが勉強漬けで、自分が生まれる前の作品に造形を深めるほどに漫画を読んでいたような覚えもない。
    「メディカルスクールの同期に日本のマンガが好きなやつがいて、いろいろ読まされたんですよ。あのボクシング漫画は特に薦められて。お前と名前が同じだろって」
     そいつがスペイン語圏のヤツだったので、セリフは全部スペイン語で、と遠い目をする譲介は白衣を着ている。
     ふざけた前髪でパーカー姿のときは何とも思わなかったが、そうしているとだいぶ年嵩に見える。苦労させたように思えなけなしの良心が痛む。
    「そりゃベンキョウになって良かったってこったな」
    「ボクシングとスラングの語彙増やして、いいことあります?」
     スペイン語を話すボクサーの患者が来るかもしれねえと返したら口が閉じた。生物である以上、体調が悪くならない人類はまだ存在し得ないので、まずありえないとは言えないのが医者稼業なのだ。もしかしたら経験があったのかもしれない。
     スペイン語はアメリカで医者をやる気があるなら覚えておいて損はない。南米からの移民は多くがスペイン語かポルトガル語の話者で、どちらかを覚えておけばもう片方は大雑把に言えば方言程度の違いで意思疎通ができるからだ。
    「ここに来たときは猫を追いかけてですし、覚えているかわからないので一応教えておきますが、バス停は門を出て左です」
    「そこまで方向感覚は鈍っちゃいねぇ」
     田舎道はそう選択肢がない。家の合間に網目のように道路が張り巡らされ、道を一本間違えたら目的地に到達できない街とは違い、方向さえ合っていればなんとかなる。
     その一本を致命的に間違えると相当な距離を要する上にとんでもない場所に到達するが、たいていは途中で気が付く。
    「忘れ物はありませんよね、あなた変なところでうっかりしているから」
    「忘れるほど荷物が多いように見えるか?」
     もし患者に重要な疾患が見つかってもその場ではどうしようもないので、近場の病院に運ぶ算段をつけており、必要最低限の道具しか持ってきていないのだ。
     聞き取りではそれほど急を要する症状とも思われなかったが念を入れるにこしたことはない。。
     門の際まで歩を進めた。敷地をぐるりと囲む垣根はカナメモチで、綺麗に刈り揃えられていた。秋になると美しく紅葉するのだろう。
     譲介の足が止まる。
    「お元気で、ドクターTETSU。会えて良かった」
     また会いましょうねでも、さようならでもなく。それを選ぶのか。
     嘗て少年だった男は穏やかに笑っていた。昨日の雨をまだ引きずり空は曇天だというのに、太陽を見たかのように目を細め、一欠片の後悔もなく。
    「おめぇもな」
     何かを失ったような心の穴は、塞がることこそなくとも何れ痛みに慣れてどうでもよくなる。
     何度も繰り返してきたことだろう。
     今更殊更に悲しむことでもなければ感傷に浸るような出来事でもない。
     置いて行かれるのには慣れている。
     置いていくことにも、いつの間にか。
     門を出る寸前、背中へ声が投げかけられた。
    「会いに行きますから、絶対に!」
     ぐるん。と。
     飛行機が乱気流に揉まれて回転したかのように、刹那、平衡感覚が消える。
     間抜けな電子音が鳴る。
    「な、何だァ、いまのは……?」
     上着のポケットから端末を出し、タッチパネルへ指をすべらせた。
     メールの着信だ。
     相棒を預けているペットホテルからで、ポップな色合いの壁紙の部屋で餌皿に頭を突っ込んで一心不乱に食事をしている黒猫の写真が、ご飯の時間です、という本文に添えられている。
    「電波が復活したって事かよ」
     眉を寄せて振り向いて、そうして。
    「おい、こりゃあなんの冗談だ……」
     あり得ない。
     四方八方に枝が伸び、ところどころ蜘蛛の巣が張り巡らされた生け垣。雑草に半ば侵食されて、ゴミが投げ込まれている枯れかけた芝生。
     板が打ち付けられ、頑丈な鎖で巻かれ南京錠が取り付けられた門。腐り傾いた看板。
     そして、長年人が出入りした形跡のない、煤けてくすんだ外壁の、古びた洋館。
     そして何より。門の向こうで佇んでいるはずの、細身の男の姿が、影も形もない。
    「譲介……?」
     名を呼んでも返事があるわけもない。閉じた門へと手をかけてみるが、鎖には錆すら浮いていて、つい先程まで開いていたようには到底見えない。
    「あんた、どうしたのかね?」
     顔を上げる。道端に止まった軽トラックの窓から、作業着姿の老人が顔を出していた。
     荷台には根を麻紐で縛った樹。大きな剪定鋏や如雨露などの道具が、動かないように空いた場所へと固定されている。
     荷台には「猪俣造園」と、ペンキの手書きらしい味のある文字が記されている。
    「じいさん、この建物はなんだ?」
    「そこかい。昔はこのあたり唯一の病院だったんだがな、十年以上前に体が弱かった若先生が病気で亡くなってな。先生は子供の早死にで力を落として施設に入って、そのまんま廃院だよ。もう誰も住んどりゃあせんわ……おっと」
     老人の胸元から、ひょこりと三角耳が飛び出す。
    「おとなしくしとれ」
    「猫か」
    「そこで拾った子猫だわ。飼い主が見つからなきゃうちで飼おうと思ってるよ」
     黒い毛の多い黒三毛。まだ生後数か月といったところの、ごく小さな子猫。
     概ね黒い額へ、ひらがなの「て」と読める赤い毛が生えている。
     老人がじろじろとオレを眺めまわす。
    「あんたもしかして、武田さんとこのお客じゃないかね。俺はそこの出入りの植木屋だ。実は武田の旦那さんが招いたお医者様がまだ来ねえって心配してな。白いコートに黒の長靴、とてもお医者様に見えん格好をした目つきの悪い大男だってことを聞いてる」
     武田は依頼者の名前だ。現役の頃から口が悪かったが、引退した今もあまり変わっていないらしい。
     植木屋はこちらが出入りの家の客だと確信しているようだった。間違ってはいないが。
    「乗せてってやろうか。歩きだと四〇分はかかる」
    「……頼めるか、爺さん」
     一度振り向く。廃屋一歩手前に見える洋館が、またぴかぴかの医院になりやしないかと思ったが、そんな非現実的なことは起こり得なかった。
     軽トラックの助手席に身を屈めて乗り込むと、爺さんの胸元から子猫がするりと飛び出てきて、腰につけた魚の形をしたキーケースにじゃれつく。
    「ありゃ、すまねえな、先生」
    「いや、構わねえ」
     猫はオリーブの瞳でオレを眺めて、昨日聞いたよりは幾分か高い声で。ヘェ、とまるで江戸っ子のように鳴いた。


    ***


    「見つけましたよ!」
     いささか建物と人口が少ない、だが施設はそこそこ立派に整備されている駅前のロータリー。
     まばらな人影の中を真っ直ぐに届く、勝ち誇るような声だった。
     結局武田の胸の痛みは三歳の曾孫と遊んだ際に頭突きされた胸部の打撲で、薄く痣になっていた。嘗て闇社会に名を轟かせた男が、なんとも平和なものである。
     この世に因果応報ほどあてにならん言葉もない。
     骨と内臓に異常はなく、胸への衝撃はなるべく避けろと伝えて湿布と飲み薬を処方して、ほんの少しばかりの昔話をして邸宅を出た。
     タクシーを呼んで自宅まで送るという申し出を固辞してバスに乗り、基幹駅で乗り換えて相棒を預けている都市へ戻る予定だった。今は申し出に甘えておけばよかったと思っている。
     深緑の塗装が施された米国車。剣闘士の名前を持つ、日本の道路事情ではいかにも取り回しが悪そうな巨大な車体。だがハマーを振り回しているオレがそれを言ったが最後、あなたがそれを言います? と本気で呆れられることが分かっているので口にはしない。
     そのゴツい前扉が勢いよく開き、ふざけた髪型の若い男が飛び出してきた。
     サイズの一回り大きなパーカー。裾を折り曲げ履いているだぼだぼのジーンズ。
     大型肉食獣のように無駄のない細身。
     高い座席から重力を感じさせず飛び降りた男は、その秀でた運動神経を遺憾無く発揮して、最短距離で此方へ向かってくる。
     背を向けて逃げようかとまず計算して、ジャングルの藪ならともかくこの遮蔽物が少なく開けた場所では、高校生の頃に百メートル走を十一秒と少しで走り抜けていたヤツと追いかけっこをしてみたところでどこにも勝ち筋などないと諦めた。逃げ出そうとしても高確率で猪狩りかモンゴルの雀狩りになるだろう。長距離を追いかけ続けて、獲物の心臓がもたず倒れたところを仕留める猟。この場合獲物はオレだ。逃げ切れるはずがない。
    「誰に聞いた」
     目の前までやってきた男は、胡乱げな目付きでオレを睨み上げる。
    「KEIさんに紹介してもらった沢井さんという方に。お金も随分使いました、ああ、僕のポケットマネーですのでご心配なく」
     裏社会では名を知られた情報屋の名前が表の世界で生きる人間の口から転がり出ると、あまり心象が良くはない。
     沢井の野郎、あいつKEIに何か弱みでも握られていやがるのか。
     今度会ったら聞き出してやる。
     オレの決意など知る由もなく、譲介は腕をがっちり掴んだまま大股で歩く。諦めてついてゆくと、乗ってください、と告げて車の助手席の扉を開き、オレを中へと押し込んだ。
     後部座席でないのは単純に逃走の防止だろう。手錠を填められないだけ人権に配慮されていると見るべきか。
     座席に落ち着いてもいっこうに口火を切らないこちらを怒っていると判断したのか、譲介は慣れた様子でシフトレバーを操作し、アクセルを踏みながらぶつぶつと文句を言った。
    「怒るのはあなたの勝手ですけどね、まったく、半年に一度は診断を受けてくださいね、アメリカに来られなくても指定病院に行ってくださいとあれ程言ったのにクエイド関連の病院には全く顔を出さない、消息が分かるのは定期的に送られてくる何処かで受けた健康診断の結果だけ、僕がどれだけ心配したと思ってるんですか」
     ハンドルを握る右手をちらりと確認する。
     無い。あの変わった意匠の白金の輪が、影も形も存在しない。
    「譲介、おめぇ、いつ日本に来た」
    「三日前です。やっと研究に目処がついて休みを取れることになったので、いい加減放蕩患者を捕まえて健康診断を受けさせようと思いましてね」
     絶対に逃がしませんよ、と横顔の中でぎらつくオリーブの瞳が語っている。口の端が上がっているのに目は笑っていない。
     二年前に別れたときとそう変わらず、目尻に皺はない。極めて健康そうだった。時差ボケなのか、うっすら目の下に隈があるが睡眠さえ取れていればそのうち消えるだろう。
    「医者の不養生って本当ですね、一也もK先生もあなたも、みんな揃いも揃って他人を救うことに全身全霊を賭けるくせに自分のことは二の次だ」
     そりゃおめぇもだろうが、とオレの治療を引き受けていた頃、最短睡眠時間の記録更新をし続けていた男を横目で眺める。
    「こっちの医師免許は取ったのか?」
    「取りました。あなたの治療中に申請はしてありましたので。試験と面接に通って」
     助手席側のドリンクホルダーに置いてある珈琲を手に取る。
     運転席側には飲みかけと思われるカップがあり、一方これは手をつけられていないから、捕まるかどうかもわからないオレ用に買ったものだろう。
     コンビニチェーンの品だが、近頃はどのコンビニも手軽で美味い珈琲を提供することにしのぎを削っており、味は悪くないと知っている。
    「沢井の情報代は高くついたんじゃねえか」
    「いいんです、どうせ貰うばかりで給料の使い道がないので。KEIさんの紹介だからって結構まけてもらいましたし」
    「この車は」
    「レンタルです、クエイドからの」
     何処にグラディエーター、しかも左ハンドルの新車をレンタルする業者があるんだと前半で湧いた疑問は後半で氷解した。朝倉あたりが気に入りの若手にしている甘やかしの一環か。それとも優秀な人材を逃さないための飴か。おそらく両方だ。
    「……怒ってねえ」
     ぼそりとつぶやくと、ちらりと此方を見た目が少し見開かれる。そこまで驚くことか?
    「恨むならおめぇのほうだろうよ」
     約束をぶっ千切って逃げ続けていたのはオレのほうで、譲介には何も非などありはしないのだ。
    「恨んではいません。定期的に連絡を寄越すだけでもあなたにしては上等でしょう、送られてきた資料を確認しましたが、検診もきちんとしていて予後も良いようですしね。今怒っているのは僕の個人的な感傷ですのでお気になさらず!」
     口をへの字にして目を半眼にして、クエイドでは若手のホープと目されるドクターJOEが子供のように怒っている、いやこれは拗ねているのか。
     本物のガキの頃ですらこんな怒り方をしなかったヤツが、だ。
    「……僕、医者として、すこしは腕を上げたと思ってたんですけど。やっぱり、まだ頼りないですか」
     怒っていたかと思えば落ち込む。
     感情の起伏が激しいのは、クエイドでの激務から一時的にでも開放されているという感覚が齎しているのかそれとも別の要因か。
    「僕じゃなかったら、別の、もっと経験のある医者だったら。K先生なら。一也なら。ちゃんと検診を受けてくれていましたか」
     信号が赤になる。ブレーキを踏んで口を噤んだ男へ、手を伸ばしかけて止めた。
     運転中だ、ちょっかいは出さない方が良いだろう。
    「馬ァ鹿」
     譲介でなかったら?
     そんな仮定に意味など無い。
    「お前じゃなきゃ許さねぇよ」
     お前がいなけりゃあ生き延びようなんざ思わなかった。お前でなければ、あれほど厭うた弱さを晒してまで治療をさせなかった。
     お前だからだ。和久井譲介だから、真田徹郎は主治医に選んだのだ。
    「それよりおめぇ、日本の運転免許をいつ取った」
    「免許自体は向こうで取りましたので、国際免許です」
    「左右を間違うなよ……」
     アメリカは日本と車線が逆、右側通行だ。この車が左ハンドルなだけに、不安が湧く。
    「C県からここまで運転して来たんですし、まあ、なんとかなるでしょう」
    「おい成田からここまでこれで来やがったのか」
    「パーキングエリアに趣向を凝らしていて面白いですよね、最近の高速道路」
     無茶をする。
     そしてこれからオレはコイツの運転で、クエイド系列の病院へ連行だ。何事もありませんようにと信じてもない神に祈った。
    「全く、ジジイ一人によくやるこった」
    「それこそ「あなただから」です。あなたじゃなければこんなに時間とお金をかけて探しません」
     心外だ、といった風情で。真っ直ぐな言の葉が、初めて出会ったあのときには届かなかった此方の心臓へぐさりと突き刺さっていく。
    「世界の何処へ行っても探して見つけて検診を受けさせますので。諦めてください」
     何を諦めろというのか。主語を言え。
     分かってはいるが。
     何処に逃げても見つけられるというのなら、もう白旗を上げて振るしかない。
     真田徹郎の人生において、ちょいと、というには深く関わって、その後二度と会うことがなかったという人間はたいそう多い。友と思っていた奴に裏切られたことがある。追い求めた男に知らないうちに死なれたことがある。血を分けた家族が、目の前で国家ごと吹き飛んだこともある。思い返せば別ればかりの人生だ。
     だがこいつは違うのかもしれない。
     違うのだろう、明確に。
     縁を切る方法は未だに発見されていない。
     かの有名な推理小説の結びのように。切ろうとしても切れない最強の悪縁だ。
     此方が勘付いてはいたが見ないフリをしていた感情に、譲介はとうに名前を与えて言葉にして、はっきりと伝えてきているのだ。目を閉じて耳を塞いで逃げられた時代はもうおしまいだ。
     きちんと向き合って、ケリを付けるしかないのだろう。納得したうえでうまく離せたはずの手を、まだ往生際悪く伸ばそうとするこの心と。
     あの洋館で出会った譲介の、最後の言葉を思い返す。
     会いに行きますから、絶対に。
     あいつはきっと嘘ばかり吐いていたが、あの言葉は一片の偽りもない真実なのだ。
     深く息を吸って吐いて、青に変わった信号を確認して。唇の端を釣り上げる。
    「知ってる」
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