電車で出会う夏尾 尾形としては、その男がとにかく邪魔くさかった。
人もまばらの車内だというのに尾形の前にわざわざ立ち、つり革二つに掴まったと思ったら電車の揺れに合わせたり合わせなかったりする、大胆なダンスを披露し始めた。要するに前後左右に大きく揺れている上に、たまに膝がカクンと折れたときに自分の膝とぶつかりそうになるのが邪魔くさかった。
つり革はいくらでも余っているし、何なら席も空いている。そんなに眠いなら座ればいいだろう。電車が駅に着くたびに、早く降りろ、と尾形は念を送ったが、その願いは叶うことなく三駅過ぎた。
この男が電車から降りたり場所を変えないなら自分が動くか? とも考えたが、どうして先に座っていた自分が退かないとならないのか。ただの意地だとは分かっているが、尾形は自分が降りるまでここに座ると心に誓った。誓ったところで目の前の男が邪魔なことには変わりない。
視界に入るから気になるのだろう、そう考えた尾形は腕を組んで目を瞑る。すると揺れる男は見えなくなったが、代わりに男が今どうなっているのか分からなくて不安になった。
「クソ」
見えても見えなくても気になるのかよ。まばらだった乗客も今は尾形とその男しかいない。文句の一つでも言ってやろうかと思ったとき、電車が急ブレーキを踏んだ。
男はバランスを崩し、つり革から両手を離す。ずるり、とした動きでその場に落ちた。その落ちた先には尾形の脚がある。膝同士がぶつかることはなかったが、男の腕が尾形の膝の上に乗り、そのまま頭も乗せられた。
「おい」
尾形が声を掛けるが返事はない。
膝を揺らしてみても反応がない。顔を覗き込めば、男は気持ちよさそうな寝息を立てて寝ているではないか。
「おい」
先ほどより強い声を出した。男の肩を揺すると、ようやく「んぇ……?」と間抜けな声を上げながら目を半分だけ開けた。尾形はもう一度膝を揺らす。いいから早く退け。男を睨むと、目をこすっていた手を止めてふにゃりと笑われた。
「お前な」
「今、どこですかぁ?」
自分の状況が分かっているのか、いないのか。男は呑気にそう尾形に尋ねてきた。尾形はドアの上の表示を見る。
「あー、次は○○台だ」
「ありがとうございます~」
お礼を言うと、男はまた顔を伏せる。尾形は「おいおいおい」と男の肩を掴んだ。
「お前、そのまま寝るのかよ」
「う? あ、ダメだ、寝ちゃうと、降りれなくなる……」
ふらふらと座席横についている手すりを使って立ち上がった男は、またつり革に掴まった。先ほどまでと変わらない光景に、尾形は「おい!」と突っ込みたくなった。
「真っ直ぐ立てないなら座れよ」
「座ったらぁ、寝ちゃうじゃないですか……。寝たら、寝過ごしちゃう……。それはいけない……寝過ごしちゃうの、ダメだから……」
だからって俺の前に立たなくてもいいだろう。尾形は眉間に皺を寄せる。
男は必死に眠気と戦っているようだが、八割ぐらい負けているのがよく分かる。膝が落ちる回数が増えた。
尾形は一度目をつぶって深く息を吐いてから男を見上げる。
「お前」
「はぇ?」
「どこで降りんだよ」
「俺ですか? ×××野ですよぉ」
ここから数駅先の駅であり、尾形の降車駅の手前の駅だ。
「座れ」
「ぅえ、でも」
「いいから座れ」
座面を叩くと、男は渋々座る。
「×××野で起こせばいいんだろ」
「いいんですかぁ?」
「目の前でフラフラされる方が迷惑だ」
「ありがとーございます! 俺も、起きてるようにぃ、しますから……」
そう言いながら男は瞼の重さに抵抗できずにいた。語尾が消えていく。なんとか最後まで言い終わったところで、すぐに寝息が聞こえてきた。
尾形はスマホを取り出し、鬼のように連絡を入れてきた友人に返信をする。内容なんてほとんどないのだが、未読にしろ既読にしろ無視をすると返信を催促される。その結果、今日は百件近い連絡が来ていた。
勝手に他人の観察日記を送ってきているくせに、それに対して感想を送らないといけないなんて意味が分からない。とはいえ無視を続けていると今度は連続して電話がかかってくるので、それを回避するために「すごいな」とだけ返す。その四文字で安眠が約束されるのだ。最初の頃は真面目に返していたが、だんだんと返信の文章量を減らしていった結果、ここに落ち着いた。
これだけでいいなら、わざわざ送ってこなくてもいいのでは? と思っているが、そんなことを言って長い感想を求められたらたまったものではない。そのうち飽きるだろう、と思いながらスマホの画面を消した。
男の降車駅まではまだ時間がかかる。スマホと入れ替えでカバンから読みかけの文庫本を取り出し、ページを開いた。やっと探偵が犯人の話をし始めた。自分の推理があっていたのか答え合わせが始まる。
と思っていたのに、ごす、と鈍い痛みとともに肩へ負荷がかかる。見なくても分かる。向かいの窓に自分と男の姿がはっきり映っているからだ。男の上体が傾いて、頭が尾形の肩に乗っかっている。何が「起きてるようにしている」だ。すぐに寝たではないか。文句の一つでも言ってやろうかと思ったが、あまりにも気持ちよさそうな寝姿に、その気もなくなる。
その代わり電車から下ろすのに起こすときは容赦しないぞ、と思いながら尾形は手元の文章を目で追った。
はずだった。
気が付いたとき、尾形の頭は男の頭の上に乗っていたし、文庫本は今にも手から滑り落ちそうだった。ハッとして、ドア上の表示を見る。次はどこに止まるのか。それが問題だ。男の降車駅である×××野より前なら問題はない。最悪、尾形自身が降りる駅より前であればどうにかなる。
しかし車内に響く放送は終点の駅名を繰り返していた。
尾形は文庫本を持ち直し、目をつぶって深呼吸をする。終わった。終点だ。上りの電車はない。人の肩を枕にして、なおも眠り続ける男を起こす。
「んんー、着きましたぁ?」
のんびりと腕を大きく伸ばす姿を見ながら、尾形は一度だけ頷いた。
「着いたぞ、終点だ」
「しゅう……え? 終点?」
終始眠そうにしていた男の目が大きく開く。辺りを見渡し、もう一度「終点?」と聞いてきた。尾形はそれに黙って頷く。終点は終点だ。それ以上でもそれ以下でもない。
「その、起こすって」
「わあーーーーー、すんません! 俺、爆睡してましたもんね⁉︎ ああーーー……やっちゃった……終点……終点かぁ」
尾形が謝ろうとするより先に男が勢いよく頭を下げた。と思ったら今度は頭を抱えながら後ろにひっくり返る。
酔っ払っていると思っていたが、こんなに頭を振って平気なのだろうか。尾形が少し不安になったところで電車が完全に停止し、ドアが開いた。
帰れないから、と車内やホームに残っているわけにもいかないので、男と二人で駅の改札を抜ける。とはいえ、初めて降りる駅だ。どこに何があるか分からないし、そもそも一晩いられる場所があるのかどうかが問題だ。そう思って尾形はスマホで地図を開いた。
「あのぉ!」
「あ?」
声がして、尾形が顔を上げると男はまだ改札の向こう側にいた。何をしているんだ。改札の通り方が分からないのか。
「あのぉ、すみません、ほんとに申し訳ないんですけどぉ、お、お金を……貸してもらえませんか……?」
「はあーー?」
心の叫びがため息とともに吐き出された。男は今にも泣きそうな顔をしながら何度も頭を下げている。構内の確認を終え、早くシャッターを下ろしたい駅員の視線が刺さるので、尾形は財布から千円札を出すと男に渡した。
「ほんとにすみません……財布の中空っぽで……」
「随分楽しく飲んでたってことか」
「飲ん、で、ましたけど、うう、まさか全部……」
「良いオトモダチだなぁ」
「ほんっと申し訳ないです……」
体を小さくした男が改札から出てくる。周辺を検索した結果、この辺りにあるのはラブホが一軒だけだった。さてどうしたものか、と尾形は考える。ベッドの上で寝たいが、一人でラブホに入れるのか。そして有り金を全て持っていかれたこの男をどうするのか。スマホの角を顎に当てながら考えていると、男がおずおずと口を開く。
「あの、俺、金ないんで、その辺で始発まで待ちますから、お兄さんは俺に構わず、どこか行ってください……」
「その辺、なぁ」
駅のすぐ横は林になっており、気温的には耐えられても虫刺されや野生動物の心配がある。不審者が飛び出してこないとも限らない。男を上から下までまじまじと見て、一人で頷くと尾形はスマホをカバンにしまった。
「こっちだ」
「え、え」
「俺は明日の朝、死体と出会いたくないからな」
「う」
「それに、電車で寝過ごしたのは俺もだ。起こせなくて悪かった」
「いや! それは! 俺が寝過ごしただけですから! お兄さんは悪くないです!」
歩き出した尾形に、男も付いてくる。地図で確認した限り、ラブホまではそう遠くない。背の高いものが周りにないので目指すべきものはすぐに見つかった。
尾形はラブホを指差し「あれしかない」と男に告げる。男は尾形とラブホを何度か見比べて、それから瞬きを繰り返しながら尾形を見上げた。
「え、えと、俺、その」
「何もしねぇよ。並んで寝るだけだ」
「あ、そっすよね、はい……俺はもう、何でもいいんで……」
男は背中を丸めて小さくなる。一文無しの男が尾形の提案を断れるわけがない。二人でラブホに入り、文字通り並んで寝た。
それだけだった。
「ほんっっとおに申し訳ありませんでした!」
朝一番に男の土下座を見せられて、尾形は深く息を吐いた。
「いい、いい」
「でも本当に俺、お兄さんがいなかったら今頃どうなっていたか分かんなくて」
顔を上げた男の潤んだ瞳で真っ直ぐに見つめられると、尾形も嫌味を言う気が失せる。それに一人で泊まろうが二人で泊まろうが宿泊代は変わらない。それどころか、一人では泊まれなかったかもしれないのだ。お互いベッドで寝れてよかったではないか、そういうことにしておこう、と尾形は思う。
「帰りの電車代は?」
「あ、それは昨日お兄さんからもらったやつで足りると思います」
にこっと笑う男に、そういえばコイツは渡した金を精算じゃなくてチャージしたんだよな、と気づく。
「はあーー、帰るか」
「はい!」
始発電車はもう動いている。外へ出ると、朝日が目に染みた。尾形は目をしぱしぱさせながら改札を通る。今度は男も引っかからずに通過した。
「あの、でもほんと、マジで申し訳ないんで、お金、今度返します」
「いらない」
「いやでもそれじゃあ俺が……」
タイミング良く到着した電車に、二人並んで座る。この車両の乗客は尾形と男の二人だけだ。昨晩と違うのは、二人とも起きて会話をしていることと、窓の外が明るいことか。
「分かりました! 今度俺のバイト先に来てください。お兄さん、お酒飲みますか? うち、めっちゃうまいんで」
「ほー?」
「飲み代、俺が払います」
「なるほど?」
「店、ここなんですけど」
見せられたスマホの画面の端にヒビが小さく入っていて、尾形は少し笑いそうになった。それを誤魔化すために手で口を隠す。何だかよく分からないが「ぽいな」と思った。
「月水金土でシフト入ってるんで」
「じゃあ今日も」
「そうなんですよ……だから夜までに二日酔いどうにかしないといけなくて」
尾形は口を開けて笑った。
「じゃあ昨日の夜のオトモダチっつーのは」
「や、昨日はたまたま休みで、マジで友達と飲んでたんです」
「その友達に財布の中身全部取られたってわけか」
「いーやー違うと思うんですけどね……違うと思いたいです……」
腕を組んで首を傾げる。男の話だと、飲み屋を出てから電車に乗るまでに空白の時間があるらしい。店を出て、友人らと駅まで来たのはいいが、電車の到着まで時間が少しあるから、と思ってホームのベンチに座っていたら、いつの間にか終電になっていた。その間に、誰か知らない人に中身を抜かれたんじゃないかと言う。
駅のホームでわざわざ抜くやつがいるか? と思うが、例えば寝ている片方に「飲み代もらうぞー」なんて言いながら金を抜いているのを見ても、わざわざ止めには入らないだろう。
財布の中を盗む人間が働いてる店には行きたくないが、そうではないなら話は違う。
「いいぜ、お前の奢りだな?」
「ありがとうございます! マジで大将の飯、うまいんです。つまみもそうなんですけど、米がまたうまくて、それ目当てで来るお客さんも結構いるんですよ。んで、その米が大将のご実家の新潟から送ってもらってて」
キラキラした目で話し続ける男の横顔を見ながら尾形は小さく笑った。
相当自分のバイト先の料理がお気に入りらしい。大学入学を機に上京してきて、いくつか飲食店のバイトをした結果、今の店に落ち着いたらしい。先輩に誘われて飲みに行ったその場で大将の作る料理のおいしさに感動し、そのままアルバイト募集の張り紙を指差して立候補したらしい。尾形は何も聞いていないのに全て話してくれた。
「そんなに俺に来て欲しいのか」
「え? え、あ、はい。お礼もそうですけど、飯めっちゃうまいんで」
「ほーお、俺に惚れたのかと思った」
「え⁉︎ ほ、惚れ、それは、え」
何駅か過ぎてきたが、朝早い時間だけあって車内の人はまばらだ。ほとんどの人は俯いて眠っている。起きているのは反対の端に座っているサラリーマンぐらいだ。
尾形は男に顔を寄せ、小声で呟く。
「俺は惚れたぜ?」
「え!」
車内アナウンスで尾形の家の最寄駅が呼ばれる。立ち上がった尾形は丸くなった男の目を見て笑った。
「また夜にな」
「あ⁉︎ え! はい!」
男の元気な返事を聞いて、開いたドアから降りる。振り返ると、男が車内の窓から手を振っていた。尾形も手を振り返す。電車はゆっくりと動き出して、男の姿は見えなくなった。
教えてもらった店名を検索すればすぐにヒットした。尾形は足取り軽く帰路に着く。
変わらない日常に少しの楽しみ。果たしてあの男は尾形の思うような人間なのか。その答え合わせはこれから時間をかけて行っていこうではないか。