まだ始まっていないだけ ちょっとこっちに来い、と屋敷の裏から顔を出した尾形さんに手招きされたので、俺は「はいはい」と返事をしながらそっちに向かった。何かを運べとか、どかせとか、そういう用事なんだろうな。でも例えば猫の親子がいたりしたらどうしよう。それはめちゃくちゃ見たい。それをわざわざ教えてくれた尾形さん、と思うと少し面白い。
「何ですかー?」
もしかしたら猫がいるかもしれないから小声で話しかける。と、急に手首を強く引っ張られた。
「わ、わわ」
前のめりになったところを、今度は肩を強く押された。急な重心移動に体がついていかない。倒れないように小股で後ろに数歩下がると、頭が屋敷の壁にぶつかる。思ったより衝撃が少ないのは、後ろで結んでいた髪のおかげかもしれない。
「何を」
するんですか、と抗議の声をあげようとしたが、俺はその続きの言葉を飲みこんだ。いつの間にか尾形さんが目の前に立っていたからだ。いつの間にかっていうか、さっき俺の腕を引いたのは尾形さんだろうし、肩を押したのも尾形さんだろうから、俺の目の前に尾形さんがいるのは当たり前なんだけど、その距離がおかしい。
鼻先同士がぶつかりそうなぐらい近くにいる。何で、どうして。
「あ、の」
黙ったまま尾形さんに見上げられて、俺はどうしていいか分からない。
尾形さんの鼻息が俺のあごにかかってくすぐったい。ということは俺の鼻息も尾形さんに当たるんですよね、ちょっと待ってそれは恥ずかしい。なんか分からないけど恥ずかしい。まともに尾形さんを見られない。あー、今日は空が青いですね。洗濯物がよく乾きそうでよかった。
俺はなるべく浅い呼吸を繰り返す。できれば吸う方を長めに、出す方を浅めに。でもそうすると尾形さんの香りがどんどん俺の中に入ってきて、それはそれでまた俺の中の緊張感が高まってくるから、だんだん酸素が足りなくなってきて頭がうまく回らなくなってきて……。
ん? 尾形さんに? 見上げられて?
ちょっと待って。俺より尾形さんの方が大きいよな? どういうことだ? 突然俺の成長期がきた? 確かに「早く俺も大きくなりてぇ」って思ってるけど、こんな急に? ついに尾形さんの身長を越したの?
尾形さんに視線を戻す。相変わらず尾形さんは俺を見上げているけど、その顔はいつものように何かを面白がっているようで、ますますどうしていいか分からない。そろそろ普通に息してもいいかな。まあまあ苦しくなってきた。
「ええと」
かぱ、と尾形さんの口が開けられた。
「おがたさ」
がぶ、と尾形さんが顎に噛みついた。
俺は息を呑む。
驚いて声も出せずにいると、尾形さんがべろりと俺の顎をひと舐めしてから体を離した。何、何なの、どういうことなの、何が起きたの。俺は口をぱくぱくと動かしながら尾形さんを見上げる。顎が、頬が、顔が熱い。何、俺、今、顎。
「ははぁ」
楽しそうに笑った尾形さんは、前髪を後ろに撫でつけてどこかへ行ってしまった。どっかに行かないで! 状況の説明をして! 揺れる外套の端っこすら見えなくなった角に向かって、そう叫びたかったけど結局俺は何も言えなかった。ずるずるとその場にしゃがみこむ。
「まじで何だったんだ……」
残された俺は顎を触る。
少し濡れてるそれが、さっきまでの時間が現実だと訴えてくる。屋敷の裏に俺を呼んで、少し屈んで、俺のことを見上げて、顎を噛んで舐めて、去っていった尾形さん。何が起きたのか分かっているのに、何が起きたのか分からない。
……もしかして、家永さんの同物同治ってこと? 確かに尾形さんの顎は怪我の痕があるし……。俺、これからは尾形さんにも狙われるの? 大変じゃん! 今までそんなそぶりはなかったけど、痛かったりするのかな。だとしても俺の顎はあげられない。代わりに痛み止めを用意できないか土方さんに聞いてみよう。
すぐに乾いた顎を残念に思いながら、俺は屋敷に戻った。顎を食べられるのは困るけど、少し舐められるぐらいならいいかもしれない。って俺は何を考えているんだ? 勘弁してくれ!